感動は普通に商売を越える
まぁ、まぁ、いきなりつかぬことをお話ししますが、個人攻撃です。
ただ、前もって言っておきますが、わたしの言葉には、わたしなりの慈しみが込められています。
それを理解できない御人は、放っておくだけです。
吉本ばななですよ、ゲージツ家の篠原勝之ですよ。
名は体を表す。以上。
ていうか、面白いからしばらくくどくどと申し上げることお許し下さい。
なんだかんだ言って、バナナが言うことですよ。
藝術家ではなくゲージツ家として世渡りするような御人ですよ。
昔、椎名誠さんがおっしゃっていたところの昭和軽薄体という括りがピッタリくるようです。
まともにうてあう事を拒否して、何か自分にメリットがあるのでしょうかね?
わたしは不思議で仕方がない。
で、本題です。
わたしは自分の職業を問われたときに藝術家ですと答えます。
職業という中に商売というのは含まれますが、商売の中に職業っておかしいですよね?
なんか、今更の結論ですが、わたしは商売には向いていません。
サラリーマンが商売だというなら、商売も一所懸命取り組んではきました。
そしてこの結論です。
商売に憧れて、失敗してきた人生です。
というわけで、現行の通貨でもってわたしの絵と交換することをやめることにしました。
それを通貨と言うなら、わたしがお分けする絵の対価として、わたしはあなたから愛という通貨を喜んで受け取ります。
別にそれってわたしのオリジナルの発想ではありません。
で、2023年7月2日の時点で、貰い受けた方のお許しがあれば、創作活動費という名目でなら、わたしは現行の通貨を喜んで頂戴します。
領収書の但し書きにそのように記すわけですが、それって、寸志だとかお布施とか、そっちのほうに近いのです。
いずれ現行の通貨を他人様から受け取らなくても、きちんと生活も画材ものさることになって来ます。
お金の価値って、差別を生みます。
ただの価値の中の1つに過ぎないものが、絶対だとか考えることがそもそもおかしい。
そんなもので、いろんな個性の藝術を測ることがまともじゃありません。
一旦値段がスタンダードになったアーティストは、安全牌として投資家たちに扱われます。損したくないから。
そんなアーティストに人氣が集まり、アートシーンが作られます。
お金が少ないシモジモの者にも、そんなアーティストたちが、うんと活躍してるように映ります。
で、シモジモはそのようなものに憧れます。
嘘です。
嘘の塊です。
確かに祭り上げられているアーティストさん達も、造形の基礎とかはしっかり身につけてはいらっしゃいます。
ただ、それは偏差値のようなものでしかないみたいです。
何というか、ご自身の感覚とかに素直になりましょう。
感覚とか、どんな人も大差ありません。
感覚に素直になれば、まやかしにも、きっと氣がつくはすです。
難しいのかな?
で、センスは鍛えるものです。
これは仕方が無い。
一流に學んで身に付ける以外にありません。
氣を付けてさえいれば、師はそこら辺にゴロゴロいます。
勝手に断りもなく彼らから學び、盗みましょう。
なんていうか、皆が不勉強だから藝術家が商売人になっているのです。
お金を得て悪いとは、ハナから申しあげていません。
ただ、わたしの藝術は、たかがン百億円ぽっちのものではありません。
わたしのライバルは野に咲く花です。
わたしのライバルは心が澄んでいるときに耳に入ってくる鳥のさえずりです。
そんなにわたしが口酸っぱく言わなくても、皆は間も無く氣がつきます。
そんな時に、今までくすぶっていたアーティストたちがうんと輝き出すのだと思います。
感動の時代。
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