働くということ
前回書いてから随分間が空いてしまった。
もう少し頻度を上げて習慣にしていかないとダメだと思った。
別に書かないことで誰かに迷惑をかける訳ではないし、書く自由があるということは書かない自由もあるということだという言い訳を頭に思い浮かべながらまた
こうやって文字を打ち込んでいる。
昔から文字を読んだり、書いたりすることに抵抗はなかった。今の会社での仕事も物を書く、とは少し違うが文字に関わる仕事をしているし、文字を読むことにも抵抗はない。未だパソコンが主軸ではなく手書き文字をメインに仕事で活用しているというニッチな現場で働いていると、こうしてキーボードをかちゃかちゃやっていると凄く新鮮に感じる。
重い腰を上げてnoteを開き、買ったものの大して美味しくないコーヒーを飲みながらこんな風に文字を打ち込んでいるのは、どこかに吐き出したいという思いに駆られたからだ。個人的な感情や、思考を誰かに話したり共有したりすることに意味を余り見出さない自分としてはかなり珍しいことだ。
SNSもツイッターのアカウントは持っているが専ら見る専門で、情報を手っ取り早く収集するためのツールとしか思っていないし、呟くことなどそもそも持ち合わせてはいない。
それでもどうにかしてこの体の中に蓄積された何かを吐き出さないといけないような気がした。
前置きが長くなってしまった。
最近、会社での働き方について自分の中で疑念や不信感が強くなってきている。
前からそれは自分の中にあって、周りの同僚たちと話す時もみんな同じような気持ちを抱きながら働いていた。
例を挙げるなら、給料が安いだとか、残業をするなと言う割りには仕事の量が多いとか、人手が足りていないだとかから始まり、人によってはもっとそもそもの会社の方針が現代に合っていないとか、まあそんなところだ。枚挙に遑がないという表現はこういう時に使うのだろうか。そんな風にして日本の多くの企業が抱えている問題が自分の会社にも降りかかっていて、上層部は上層部で、一般社員は一般社員でそれぞれ異なる問題に頭や心を蝕まれながら日々働いている。
そんなときに必ず槍玉にあがるのは、みんなそれぞれ誰かのせいにしていることだ。誰それがもっとちゃんとしてくれていたら、誰それが真面目に問題解決に取り組んでくれたらとか。他にももっとシンプルにあの人の仕事が遅いだとか、もっと効率を考えて欲しいとか、とにかくみんなそれぞれ責任があるであろう人物の仕事ぶりに不満があって、呪いみたいにそれを呟きながら働いて、定時なんてあってなような仕事を朝から遅くまでこなして帰る。その繰り返しだ。
当然ながらそれでは何も改善しないし、変化も生まれない。
要するに私が思うのはもっと問題はシンプルで、ただ単に必要な
コミュニケーションを怠っているだけではないのだろうかということだ。
人間は機械じゃないし、ましてや全能じゃない。
言わなくても見てればわかるなんて傲慢な考えは捨てるべきだし、
仮にちゃんと伝えたという認識があっても、やはり念押しは必要になってくる。
ただし、それでもたくさんの仕事を処理しているとついうっかり
「ああ、そういえばあれを伝え忘れたけど何度もやっているし大丈夫だろう」とか
「見ていればちゃんとわかるだろう」みたいな考えが首をもたげる。
よくないことだとは思っていても、自分の机に広げられた仕事を前にすると
どうしてもそういう事務的な連絡のようなもの(言わなくても伝わるだろうみたいな些細なこと)を怠る。そして後になってそれらが言わなくても伝わるだろうみたいな些細なことではなかったことであったと思い知ることになる。
人間には色々な種類の人間がいる。生まれた土地や育ってきた環境や、好きな物、嫌いな物が違うのだから当たり前だと思うだろう。でもその当たり前は、自分にとっての当たり前で、誰かにとっての当たり前ではない。
言わなきゃ伝わらないし、言われなければ分からないというのは当然なのだ。
言わなくても伝わったらそれはそれで気味が悪いとも言える(稀にこちらの
一挙手一投足から次の手を読める人がいるが、そんなのはごく少数の人間の特異な力と言っていいのかもしれない)
いずれにせよ、小さなコミュニケーションの不備が生じさせる亀裂によって
今私の会社はだいぶ雰囲気が悪い。
Aというチームは4人程度で回しているが残業時間が爆発的に伸びており、
Bというチームも同じぐらいの人数だが、こちらはほぼ定時で上がれていたり、
各チームが協力という体制を敷くことなく、独自に動いているせいで
あっちは楽そうだとか、こっちはキツそうだとか、おまけに上は何考えてるんだとか、みんなモチベーションが上がらないといった具合だ。当然ベースとなる給与も上がらない。それは会社の利益等の話になってくるからまた少し話が変わってくるのだが。
私のチームは(一応私も主任という立場でチームを持っている)比較的そんな中でもワークライフバランスを良好な状態で維持しようと努めている。
早く帰れるなら帰るし、仕事が立て込んだら残業をする。それは言うなればサラリーマンにとって当たり前のことで、それで残業代が出るなら一応の権利は守られていると言える。
中には残業代なんて要らないから早く帰りたいという人間もいる。
それについての問題はまた別の機会に書こうと思う。
働かなくては我々はいきていけない。厳密には労働の対価でお金をもらわなければ生きいくことはできない。生まれたその瞬間から人間は金がかかる。
誰かが用意してくれた椅子に座り、誰かが作った飯を食らい、誰かが作った家に住む。現代では、生きるための労働が、労働のために生きることに置き換わっている。今更何をと思うかもしれないが、コロナ禍を経て私は少し認識が変わってきた。
上述の会社の問題はあれど、今まで生きるための手段だった労働に対しての認識が少しずつ雲が形を変えるように自分の中で変化していることに気がついた。
それは手段としての労働が、労働というフィルターを通すことで人生が多少なりとも豊かになるのではないかという意識が芽生えた。
そんなことを言ってしまうと社畜ここに極まれりなんて言葉が聞こえてきそうな気さえするが、私は別に会社に対して奉仕の気持ちがある訳ではない。
むしろ自分はおよそ左寄りの人間だと感じている。会社などいつか継続ができなくなり、潰れるのみだという気持ちの方が強い。
それとは別の、人間が生きていく上での「労働」というものに対しての認識だ。
かつては働かずに生きていけるものならそっちの方が楽だろうという気持ちがあった。不労所得をなんとかして得ることが我々に残された最後の楽園のように思っていた。
だが、コロナ後の世界において、それは少し危険な思想な気がしてきた。
テレワーク、リモートの影響が強かったのかもしれないが、ネットワークが発達したことによって人間関係がどんどん希薄になっている。
しかし薄皮を一枚剥がせばネットワークを介することで我々はいつ何時でも誰かと連絡をとることが可能となった。SNSを使えば同じ趣味の人間や、異なる分野の人間、年代も性別もさまざまな人とまるですぐ隣に座っているかのようにコミュニケーションがとれるようになった。
この矛盾が私にとっては違和感として自分の中に入り込んでいることに気づいた。
会うことができない、けど連絡はとれる。顔を見て話すことも、声をきくこともできる。だがその間には途方もない距離があって、その人と話をしているのに
なんだか全然違う星の人と話してるみたいな感覚に陥る。そんな風に思うのだ。
おまけにメタバースの世界が俄に我々の生活に重なりつつある。
いやいや、それ現実でやったらいいじゃんと思う人もまだ多いのだろうとも思うが、そっちの方が心地が良いという人もいて、だからこそ我々は自分たちがかざすべきコミュニケーションツールについてもう一度よく考えなくてはいけないのではないだろうか。
そんな気持ちが排水溝に吸い込まれる水が起こす水流みたいに、自分の胸の中に渦を巻いていることに気づいた時、私は仕事があってよかったと思った。
私の仕事は訳あってテレワークやリモートワークに切り替えることが難しい。
まあやろうと思えばできるのだ、初期投資や諸々の解決すべき課題を考えると
費用対効果は薄い。
ゆえに、爆発的な感染者が出ている最中も出社を余儀なくされていた。
当時は同僚からもなぜテレワークにならないのかと会社に抗議していたものもいた。私も当時はそう思っていたが、今になって普通に会社に行けることが意外にも
ありがたいことに気がついた。もちろん毎日会社に行くことが辛い人もいる。
欲を言えば週の数日は出社、数日はテレワークとかにしてもらえると気持ちは楽かもしれないが、所詮はないものねだりだ。
結局、人間は一人で生きていくことができない。いや、正確には自分一人で生きるにはこの世界はあまりにも広すぎるんだと思う。
自分以外の誰かの存在が、けっこうありがたいこともあるし、反対に煙たく思う時もある。
冒頭で私はこのnoteについて、書く自由があることは書かない自由もあるということだと述べたが、同じように誰かといるということは、自分一人になる自由もあるということだ。だからこそ誰かの存在をどうしようもなく求めることもあるし、
自分だけの世界に浸っていたくなったりする。
そんな当たり前を、銃口みたいに日本中の、あるいは世界中の人たちが突きつけれられている。そして当然その答えを出すのはそれぞれの人間だ。
少々脱線したが、つまり何が言いたいかというと「労働」というものが
「働く」ということが、生きていくための手段から、また何か別のものに価値を変えようとしているのではないかという気がする。少なくても私はそう思う。
働くことが楽しいとは言えない。胃が痛くなったり、朝まともに起きれないような日々が続いたり、くだらないことで諍いになったりする。不愉快なことの方がずっと多い。
だからと言って、それらをすっぱり放り投げて、空いたその場所に何かを詰め込むことも難しい。
それでも生きていかなくちゃいけない。
所詮こんな気持ちも、疲弊しきった脳みそが分泌する何らかの物質のせいで
明日にはまた別のことを考えているとしても、少なくとも最近の私は
そんな風に働くということを捉えている。
長くなってしまったし、まとまりがない。
次はもう少しスパンを短く、何かを書く気になればいいのだが。
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