【中編】グッバイ・リトル・サマー

12歳になる2日前のことだった。その日僕は父親と近所の川に釣りに出掛けた。暑い夏の昼下がりだった。どこかの観光地の絵葉書にできそうなほどよく晴れた夏の午後だった。
父に涼しくなる夕方まで待とうと言われたにも関わらず僕は夜には家に着いてテレビで野球中継を見たかったから、父に無理を言って昼に家を出た。2人で自転車を漕いで近所の川に向かった。真上から照りつける日差しと、アスファルトからの照り返しが凄まじくて、僕は深めに被ったぼろぼろのベースボールキャップの隙間から滝のような汗を垂らしながら自転車を漕いだ。父も似たようなもんだったけど、確か帽子はかぶってなかった。
2人ともしょっちゅう釣りに出掛けていたせいで真っ黒に日焼けしていた。僕はまだ子供だったから野球小僧みたいな見た目だったけど、父の方は漁師みたいに日焼けしていた。当たり前だけど、日焼け止めなんて塗ってなかった。今に至るまで買ったこともない。
前かごに入れた釣り道具がアスファルトの凹凸でがちゃがちゃと音を立てた。僕がかごに道具を入れて、父は釣り竿を2本手にもって自転車を漕いでいた。日差しが強すぎて視界のほとんどが真っ白に染まっていた。
いつもの川のいつものポイントに着くと人だかりができていた。僕と父は自転車を停めて群衆に近づいた。みんな汗だくだったから、近くによると汗臭さと川の水の匂いが鼻をついた。
父は顔見知りがいたから話しかけた。
4丁目のクリーニング屋のおじさんだった。おじさんはTシャツの背中に世界地図みたいなシミを作りながら、小柄な背丈のせいで背伸びしながら人垣の向こうの何かを見ようとしていた。
「誰かが溺れているらしい」
おじさんは父の顔を見て、川面を指差しながらそう言った。
おじさんが指差した方向を見ると、川の中央部分で何かが水しぶきを上げていた。人がおぼれているみたいだったが、激しく暴れているのと前日まで数日間断続的に雨が降り続いていたせいで川の水が増水していたせいで姿かたちはよく見えなかった。
茶色く濁った水の中で、それは必死に藻掻いているように見えた。
救急隊は呼んだみたいだけど、まだ到着しておらず逼迫していた。僕はその光景から目を離すことができずにいた。
気づいた時には父が川にざぶざぶと勢いよく入っていくところだった。
後から聞いた話だと何人かが止めたみたいだけど父は彼らを押し除けて無理やり川に入った。全く父はそういう人だった。
流れが急ではあったものの、父は泳ぎが達者だったから、あっという間に溺れている人のところまで辿り着いた。
僕は自分にも何かできることはないか必死で探したけど特にできそうなことはなかった。
父がその溺れている何某かの所まで辿り着くと完成が上がった。僕は少しほっとしたことを覚えているが、すぐにその声が悲鳴に変わったこともまたはっきりと覚えている。
上流の方から鉄砲水が濁流となって流れ込んできた。僕の記憶はその辺りから曖昧で、大声で何かを叫んでいたこと、それからクリーニング屋のおじさんともう1人のおじさんに抱えられてその場を離れたことぐらいしか覚えていなかった。
気がついた時には川面に父の姿も、溺れていた人の姿も見えなくなって、泥と流木が混じり合ったコーヒー牛乳みたいな濁流が目の前を轟音と共に流れていくのを見ていることしかできなかった。その日はどうやって帰ったか全然覚えていなかった。
翌日、父の遺体は下流のテトラポットの間に引っかかっていたところを警察が見つけた。
流される過程で川底を擦ったり転がったりしたから、遺体の損傷が激しかった。検死が終わってようやく会えた頃には、お医者さんが可能な限り綺麗にしてくれたおかげで比較的いつもの父親に見えた。眠っているみたいだった。
日焼けした肌に細かい傷と大きい傷ができていた。僕も母も姉も一言も発さずただその姿を眺めていた。
「ナイターなんて気にしないで、夕方になってから出れば良かった」家に帰ると道すがら、僕は自然とその言葉を口にしていた。
「そうね。でもあの人は困ってる人がいたら見過ごせない人だから、いつかこうなってたわ」
母は前を見ながらそう呟いた。
不思議だったのはあの溺れていた人がその後も全く見つからなかったことだった。
父の遺体が発見された付近を警察が徹底的に捜索したが、全く見つからなかった。
テレビでも取り上げられたし、専門家が大体この辺りに流れているだろうとか、あの手この手で検証がなされたが、ついに見つからず次第に人々の記憶からこの事件そのものが忘れ去られていった。
告別式が済んでから、母に呼ばれた。父が僕の誕生日プレゼントに用意してくれていた、広島カープのベースボールキャップを僕は受け取った。
見る度に父のことを思い出すから、その後も僕が東京の大学へ進学して部屋を開けるまで、部屋の片隅に吊るされたままにされていた。
父の死からひと月ほどが経った頃、家の中にはすっかり陰気な空気が漂うようになった。
元々病気がちだった母は余計に口数が少なくなり、姉はあまり家に寄り付かなくなった。
父の保険や補助が降りて、生活はあまり変わらなかったが、僕自身も父を亡くした可哀想な子供として見られるようになっていた。
塾の帰り道だった。毎週土曜日は塾に行く日だった。父は僕が小さい頃から、英語は学んでおいた方がいいとことあるごとに言っていた。
そのせいで、僕は小学校4年生から英会話のスクールに通い、6年生になってからは塾に通わせられていた。勉強はあまり好きではなかったけど、この塾は友達も何人か通っていたし、先生も面白かったから好きだった。何より家には僕自身あんまりいたいとも思えなかった。
塾から家までの道はほとんど街灯がなくて、途中までは友達と一緒だけどその後10分くらいは人気のない畑の中の道を通っていた。別の明るい道もあったけど、こっちの方が近かったから僕はこっちを使っていた。
途中、自動販売機が設置されている場所があって、珍しくそこに人影があった。
僕は不審者じゃないことを祈りながら早足で自動販売機の横を通り過ぎようとした。
なんとなく嫌な予感がしたのを今でも覚えている。
「倉田賢人くんだね?」
声の主は明らかに僕に話しかけてきていた。
僕の名前は倉田賢人だったし、そこには僕以外とその声の主の他は生き物の気配はなかった。
無視してそのまま歩き去ろうとしたが、声の主は同じ言葉を繰り返した。
「だったらなんですか?」
自分でも驚くほどぶっきらぼうな言い方だった。無理もなかった。もう夜も深くなってきていたし、僕は疲れていたから早く帰りたかった。
「お父さんのことを、謝りたい」
声の主は今は自販機の明かりに照らされている。明るい色の長い髪は左右に分けられていたが、顔立ちからは男から女か分からなかったが、たぶん女だった。声と胸の膨らみで僕は何となくそう思った。声には感情らしい感情はこもっていなかった。
「我々に性別はないんだ。今は便宜上君に不要な警戒心を与えないような姿をとってるだけさ」僕の心の中を読んだみたいにその何者かは言った。
「…人間じゃないってこと?」
「人間にとても近いけど、同時に人間からはとても遠い種族って感じかな。まあ君たちで言うところの宇宙人ってやつさ」
畑の向こうを大きな音を立ててバイクが数台通り過ぎていった。誰も僕たちには気付いてないみたいだった。
「で、何で宇宙人が父さんのことを謝るんだ?」
「君のお父さんが亡くなったのは我々の責任だ。ちょうど宇宙船のテストをしていた。しかし不具合があって、地球人の目にうっかり触れてしまった」
地球人によく似た宇宙人は自動販売機の明かりと影に出たり入ったりしながら続けた。
「本来ならあの場で川に飛び込む人なんていないはずだったんだ。だが、我々も検知しきれていなかったエラーが発生していたらしく、君のお父さんが助けに来てしまった」
助けに来てしまった。僕はその言葉を聞いた瞬間、背中の辺りからこめかみのあたりが熱くなるのを感じた。
「我々は彼を助けようとした。だが遅かった。濁流の力が我々の想定よりもずっと大きかった」
「で、父さんは死んだ。けどあんたたちは生きてる」
「それについてもやはり謝らなければいけない。仮にあそこで君のお父さんが助けに来なくても我々は助かった。そういう機能を備えているんだ。だから我々としても君のお父さんを死に至らしめたのは我々の責任だと感じている」
責任、彼または彼女はそう言った。
ならば彼らを助けようとして死んだこともまた父の責任だというのだろうか。
「そう怖い顔をしないでくれ。君の気持ちが分かるなどと言うつもりはない。だからこそこうして直々に謝罪をしに来た」
ひとつひとつの言葉が僕の神経を逆撫でした。
人が命を落としたことを、ほとんど何とも思っていないことが僕には分かった。
「謝罪とか、そんなのどうでもいい。父さんは自分のやりたいようにやって死んだ。僕も母さんも姉貴も、それについてはもう何とも思ってない」
父が死んだことは、事故だったのだ。もうそれで良かった。マスコミや警察に何度も何度も同じ質問をされた。お父さんはどういう人だったかとか、寂しくないかとか。それに同情する人もいれば、余計な正義感を振り翳した市民が勝手に死んだというような意見もあった。
僕はそのすべての意見に対してうんざりしていた。
「でもどうして今になって来たんだ」
父の死からはもう1月以上経っていた。普通謝罪をしたいのならすぐに来てもおかしくなかったのではないか。
「そうしたかったが、出来なかった。我々は急用で本国に帰らなければならなかった。本国は地球からものすごく遠い。ワープを何度も繰り返してようやく辿り着く程にね」
季節は秋の入り口に差し掛かっていた。僕は澄んだ空気を見上げた。無数の星が広がっていて、影を浮かび上がらせた低山の上に細く冷たい三日月が切先を上に向けて浮かんでいた。
「名前はあるの?」僕は気になって尋ねた。
「名前?」
「あんたの」
「我々は個体識別を必要としないが、一応私は丸の内と呼ばれている」
「…本当に?」
「本当だ。我々の上司は地球の、中でも日本がお気に入りなのさ」
まあ、なんでもいいやと僕は思った。
はやく帰りたい気持ちの方が強かった。ここのところ父の件もあったし、それでも普通の暮らしをしないといけないと思っていたから、上手く眠れていない日々が続いていた。
こんな訳の分からない名前の、訳の分からない宇宙人の話にこれ以上付き合いたくなかった。
「で、君さえ良ければだが、お詫びがしたい」
お詫び。
「いいよ、そんなの。父さんはそんなのどうでもいいって言う」
「いや、そうもいかない。これは我々にとってのけじめでもあるんだ。どうか受け取って欲しい」
「分かった分かった、じゃあ受け取るからもう金輪際僕たちには干渉しないで欲しいし、今すぐ家に帰して欲しい。そしたらこの件はもうチャラだ。それでいいか?」
「ありがとう、助かるよ!」
丸の内は嬉しそうに僕に近づいて来た。
そして、じゃあ早速と言って僕の首に何かを打ち込んだ。僕の記憶はそこで終わっている。僕は気を失って倒れた。遠くで虫の鳴く声と、濃い土の匂いがした。

目が覚めたら家のベッドの上に寝ていた。
どうも記憶があやふやだった。
不審者に話しかけられたような気もするし、友達と長いこと話していた様な気もするし、とにかく僕はちゃんと家に帰って来て、おまけにパジャマに着替えて寝ていた。
気になったのはボタンが全部掛け違えてあったことだけだった。
目が覚めた時から何かがいつもと違う様な気がした。なんて言うか、視界に映るものの解像度が高い気がした。それから音も。
踏切の音が聞こえていた。でもすぐにおかしいことに気がついた。僕の家から一番近い踏切までは2km以上あって、今まで生きて来て家で踏切の音なんて聞いたことはなかった。
部屋を出ようとしてドアノブを引いたら、ノブが取れたり、うっかりトイレに座ろうとして便器を破壊したりした以外は特にいつもと変わらない朝の気がしたが、僕はこの現実を受け入れるまでしばらく時間がかかった。
悪い夢を見ているのだと思った。でなければこんなことが起きるはずがなかった。
母は仕事に出ていたし、そもそも姉貴は昨日も多分、帰ってない。家の中には僕1人しかいなかった。
その時になって、僕は昨夜のことを少しずつ思い出せる様になっていた。
あの宇宙人、丸の内だっけ。あいつが僕に何かして、僕の体はおかしくなってしまった。
それ以外は考え付かなかった。
キッチンへ行き、棚にあったリンゴを手に取った。おそるおそるリンゴを握る手に力を入れたらあっさりと潰れた。一口舐めてみたら、よく知ったリンゴの味がした。味覚に変化はないようだった。
僕は潰してしまったリンゴを片付けた。
洗面所に行き、顔を洗った。破壊してしまった便器のことを母にどう説明するかを考えながら顔を洗った。それに、この力は何なのか、丸の内はなぜ僕にこんな力を与えたのか。お詫びと言っていたがこんなのがお詫びになると思っているのだろうか。
考えなければいけないことに羽が生えて頭の中に乱雑に飛び回った。
僕は何とかそのひとつひとつを捕まえようとしたが、あまりうまくいかなかった。
学校は休みだったから、とりあえず部屋から出ないようにして様子を見るほかなかった。
僕はそっと自分のベッドに戻って頭から布団を被った。願わくば夢であってほしかった。
丸の内が僕の首に刺したものによって僕の体は昨日までとは変わってしまった。全くもって余計なことをしてくれたものだったと僕は思った。
空腹を感じたので、観念して部屋を出た。
何も壊さない様にそっと階段を降りて1階に向かった。
だが生憎、キッチンにはほとんど食べ物らしい食べ物は残されていなかった。たぶん唯一と言ってよかったのがさっき僕が潰したリンゴだった。他は調理が必要な食材ばっかりだった。
冷蔵庫を物色していると、奥にまるでお宝の様にプリンが眠っているのを発見した。
僕は八百万のありとあらゆる神に感謝してプリンを平らげた。甘さが口の中に広がったかと思うとすぐに胃の方へ落ちていった。空腹は大して満たされなかったが、それでも少しは元気になったし、気持ちも落ち着いた。おそらくだが、僕には今超人的な力が備わってしまっているらしかった。
それが一時的なものなのか、これから先ずっとこうなのか、それは分からなかった。
ダイニングテーブルの椅子に腰掛け、僕は途方に暮れていた。こんな時、父さんだったらどうするだろう。
そういえば、父さんと一緒にそんな映画を見たことがあった。
何の変哲もない若者が、ある日突然凄まじい力を手にする。残念だがそのあとのことは思い出せなかった。設定としてはよくある設定だったし多分記憶に残っていないということは展開もそこまで面白いものではなかったのだろう。
ひとつだけ思い出したことがあって、僕は自分の部屋に戻った。ドアノブがひしゃげてしまったドアをうっかり勢いよく開けてしまったせいで今度はドアが蝶番ごと外れてしまった。
とにかく今はドアなんて気にしている場合じゃなかった。
僕は破壊しないようにそっと携帯を持って、数少ないアドレス帳に登録された電話番号に発信した。
「もしもし」
電話の相手はすぐに出た。
「今から会えないか?」
「いや、1時間後に塾だから無理」
「そうか」
「いや、お前もだろ」
電話の相手は同じクラスの青山だった。
幼稚園の頃からの付き合いで僕らはお互いがクラスで、いや学校で唯一の友達だった。
「そうだった!」
「忘れてたのかよ」
「いや、実はそれどころじゃなくてさ。大変なことが起きたんだよ」
「落ち着けって。深呼吸しろ深呼吸」
僕は青山の言う通り、深く息を吸って吐いた。あまり気分は変わらなかった。
「えっと、じゃあ塾の前に話せるか?なるべく他に誰もいないところがいい」
「まあもう出る準備はしてあるからいいけど」
「じゃあ15分後に神社だ。この時間なら誰もいないはすだ」僕たちがいつも落ち合う場所だった。
「わかったよ、じゃあ15分後に」
「15分後に」
僕は電話を切って、急いで支度をしないといけなくなったが、壊れたドアと便器のことをどうしたらいいのか迷って結局そのままにした。
とにかく今は誰かに会いたかった。それが青山でも母さんでも姉貴でも、死んだ父さんでも。
神社までの道は自転車でも10分はかかった。青山の家からも同じくらいはかかった。僕は急いで塾のカバンを開けて忘れ物がないかを確認した。その間も何かを壊したりしないように、繊細な動作を心がけた。
家を出て自転車に乗ろうとしたら、どうやら母が乗って行ってしまったらしく、いつもの場所になかった。よりによってこんな時に…。
神社へは全力で走っても20分はかかる。青山に電話をかけてみたものの出なかった。多分あいつは今自転車を漕いで神社へ向かっている最中だった。
僕は観念して塾のバッグを背負い、走ることにした。この時、僕は自分の力がやはり普通じゃないことを思い知った。
走り始め、足にぐっと力を入れた瞬間、家の前のアスファルトが砕けた。次の瞬間、僕は15メートル先の電柱に思い切り激突していた。
何が起きたのか理解するまで随分時間がかかった。幸いなことに僕を含め誰も怪我をしていなかったし、電柱も折れてはいなかった。
さっきまで僕が立っていた場所は、まるで小さな爆弾がそこで爆発したみたいに丸く吹き飛んでいた。血の気が引いていくというのを僕はその時生まれて初めて感じた。
力に対して怯えたわけじゃなく、母さんに怒られることが何よりも怖かったし、それによって悩みの種を増やしてしまうのが何より心苦しかった。
とにかく今は神社へは向かわなくちゃいけなかった。僕は再度足に力を入れたが、今度はさっきよりずっと軽くだった。ジョギング程度の力み方で走り始めたが、景色がまるで矢みたいに前から後ろに流されていった。軽く力んだだけでも普通の人の何倍もの速度で走れてしまうことが怖かった。
僕が神社に辿り着いた時には青山はもう着いていた。
僕を見るや否や青山は顔色を変えて近寄ってきた。
「おいどうしたよ!?車に轢かれたのか?」
そう思われても不思議ではなかった。走り出すたびに転んだり、何かにぶつかったりしたせいで、僕の服はボロボロになっていた。
「いや、全然、平気さ」
僕は切れた息を整えながら青山を静止した。
塾まではあと30分しかなかった。
神社の境内はひっそりとしていて、誰の姿も見当たらなかった。まだ日が高かったかし、今年は残暑が厳しいこともあって日が出ているうちに出歩く人は少なかった。
僕は青山を神社の裏手に連れていった。
言葉で説明するよりも、見てもらった方が早いと思ったからだ。
神社の裏は林になっていて、比較的大きな杉の木が何本も聳え立っていた。
防風林の役割も兼ねているからか、裏でに回ると周囲からは全く僕らの姿は見えなかったと思う。土の匂いが、少し冷えた空気と一緒に僕らを包んだ。
僕らはお互い一言も発しなかった。
青山も僕が何か問題を抱えていることに今では気がついていた。
僕は神社の社から離れた比較的丈夫そうな杉の木に目をつけた。青山に少し離れている様に言ってから、本当はこんなことしたくないんだと心の中で神様に謝ってから、僕はその杉の木を思い切り殴った。
轟音が辺りに響き渡った。凄まじい風が生み出されて、ミシミシという不吉な音を立てながら僕が殴った杉は倒れた。念の為に、誰かが音を聞きつけてやってくることがないように僕は慌てて倒れかかった杉の木を押さえて、ゆっくりと地面に転がした。
青山はその間、口を開けたままただ茫然と眺めていた。殴った時に生じた風圧で髪の毛が思い切り逆立ってしまっていた。
「…マジかよ」
ようやく言葉を発した青山に、僕は事情を説明した。父が死んだことは、町の中で知らない人はいなかったから僕は昨日の夜から今までのことをできるだけ詳細に話した。
塾の時間はもうとっくに過ぎてしまっていた。
「うーん、まあお前がどっかで頭でも打ったって思いたいけど、実際に見せられるとなあ」
青山はまだ半信半疑だった。
「もう一本やろうか?」
僕は拳を構える動作をした。
「バカやめろ。信じるから」
僕らは神社の近くの自動販売機でコーラを2本買ってまた裏に戻った。ひぐらしの鳴き声が夏の熱さに溶け合ってまるで時間が止まっているみたいだった。
「で、お前はどうするんだ?」
「どうするって?」
「その力だよ。コントロールできる様にならないとまた服がボロボロになるぞ」
服なんて正直どうでも良かったが、確かにその通りだ。それに学校なんかでうっかり力を入れたりしたら誰かに怪我をさせてしまうかもしれない。
「特訓するしかないな」
僕と青山はそれから毎日、この神社の裏で力のコントロールの仕方を模索した。
その前に、壊してしまった自室のドアノブとトイレの便器のことをなんとか母に誤魔化した。当然こっぴどく叱られたけど。
特訓が始まった。最初はとにかく繊細な動きをするように心がけだけど、それでも力が発動してしまうことがあった。どういう状況で力が発動してしまうのか、実例をなるべく多く取るために僕らはありよさとあらゆる実験を行った。
例えばどれくらいの力があるのかを測るため、重いものをたくさん持ち上げた。試しに車を持ち上げたら思ったよりもすんなり持ち上がった。自動販売機、重機、僕が殴り倒した杉の大木、それから動物園に忍び込んで象を持ち上げたこともあった。どれも特に難なく持ち上げることができた。
青山はそういう時必ず、
「これは流石に無理だろ?」とか言って
僕が持ち上げると、
「マジかよ」と口を大きく開けて茫然としていた。
次に本気で走ったらどれぐらい早く走れるのかという実験を行った。僕らは終電で海に向かった。真夜中の海岸線は流石に誰もおらず、ここでなら多少力を使っても大丈夫そうだった。
とりあえず100メートルを思い切り走ってみることになり、手近な木の棒で僕はスタートラインを引いた。青山はそこから大体100メートルのところに離れた。
距離を測る道具なんて当然の様に持ち合わせていない僕らは、大体こんなもんだろうという距離に位置した。真っ暗だったから、懐中電灯の灯りを3回点滅させたらスタートとして僕は位置についた。海の方は真っ暗だったけど、遠くに船の灯りが点々と灯っていた。あそこに誰かがいると思うと不思議な気持ちになった。星は砕いたガラスを放り投げたみたいに頭の上に広がっていた。
青山の懐中電灯が3回点灯したのを確認して僕は思い切り走った。足元は砂地だったから、うまく走れるか心配だったけど、前にコンクリートが爆発したみたいになった時と同様に凄まじい音を立てて砂が吹き飛んだ。
次の瞬間僕は青山の横を通り過ぎてそのずっと先で止まった。足はほとんど地面についていなかったから走ったというよりは、超低空で飛んだみたいな格好だった。
青山の方は風圧で3メートルぐらい吹き飛ばされて、砂浜に転がっていた。
もはやお決まりのセリフすら飛び出てこなかった。結果は測定不能ということになった。
帰り道、僕らはお互いに一言も口を聞かなかった。明るくなってから始発電車に乗った。眠くて瞼に錘でもつけられてるみたいだったのに眠れなかった。少しずつ乗客が増えてきては、また減っていった。僕らの地元に着く頃には、その車両の乗客は僕ら2人だけになってしまっていた。
青山と僕は、駅から家へと帰る道すがらお互い黙ってはいたものの、感じていることは同じであると気づいていた。
この力は気をつけないと本当に大変なことになる。コントロールが仮に出来るようになったとしても無闇に人前で使えないし、使ってもしマスコミやら世間の目に触れてしまったらどんなことになるか分ったものではなかった。
僕と青山は、とにかくこの力が振るわれそうな状況を徹底して排除することにした。
まずは体育の授業には出ない。出ても目立とうとしたり、いい結果を残そうとしないという誓いを立てた。勿論そのために青山にも協力してもらった。その間もコントロールする術をなんとか掴もうとしたが、やはり0か100のどちらかしか僕は力を発動させることしかできなかった。
しかし、分析の結果、力を入れさえしなければあの爆発みたいなパワーが発揮されることは少ないのだと僕らは突き止めた。
というのは、重いものを持ち上げたりする力は、いわば常に発動されているようなもので、それはちょうど目には見えないパワードスーツを身に纏っているようなものだった。
だから、持ち上げたり何かを動かしたりする動作さえしなければ、誰かにこの力を見られたりすることはかなりの割合で減らせることができた。ただ、走ることや、ジャンプすること、つまり自分の意思で何かを行おうとする時にうっかり発動してしまうことがあったが、特訓のおかげがそれもかなりの割合でコントロールすることが可能になった。不思議なだったのはそんな力を発したりしたら僕の体が粉々になるんじゃないかと思ったが、そんなことはなかった。
その辺は全く仕組みは分からなかったが、上手くできているんだなと思った。
そんな風にして僕と青山は中学の3年間をこのよく分からないパワーについての研究に費やしてしまった。おかげで小学校同様、僕たちはお互いだけが友達のまま、高校へと進学することになった。
母は父の死からだいぶ元気になっていた。時々癇癪を起こすようにはなっていけど、それでも昔に比べたら僕がよく知っている母に戻っているように感じた。生活はあまり裕福とはいかなったし、家の中は相変わらず父が死んだあの日から時間が止まっているような感じはあったけど、それでも僕らは僕らにできる最善のやり方でこの数年をなんとか過ごしたと思う。
姉貴の方は高校を卒業して家を出た。先生たちが上手く取り計らってくれたおかげでなんとか卒業することはできたみたいだけど、
僕たちはそもそもの仲があんまり良くなかったから姉貴がその後何をしてるかは知らない。それは大人になってからも同じだった。
僕と青山は同じ高校に進学した。学業をおろそかにしていたつけが回ってきて、地元でも下から数えた方が早いくらいの学力の高校になんとか滑り込んだ。近隣から集められた落ちこぼれが、なんとか高卒というチケットを手に入れるためだけの、地方によくあるあってもなくても変わらないような高校だった。中学の時点で僕と青山は気づいていたが、僕のこの力には記憶力を向上させたり、勉強の効率を上げたりする能力は備わっていなかった。本来、青山は勉強ができないタイプではなかった。むしろ中学1年ぐらいまでは学年でも上位の成績を残していたが、僕に付き合ってしまったせいで、その学力もみるみるうちに下がってしまい、それについて親と大喧嘩したことがあったらしい。僕のせいだとあいつは一度も責めたりしなかった。
むしろ、僕のこの力と、父を失くしたことについてずっと心配してくれていた。時々青山はこんなことを言っていた。
「僕は自分が恥ずかしくて我慢ができない。お前は父親を失くした上に訳の分からない力を与えられてそれでも腐らずに生きてる。それに比べたら俺なんてただ勉強が少しできただけだ。親もいるし、どちらかと言えば裕福な家だ。お前に比べたら俺は…」僕はそれについて何て返したらいいのかいつも答えに困ってしまっていた。
家族と仲たがいしながらも青山は僕のためにいつも知恵を貸してくれた。下がってしまったが成績も彼にしてみれば特に興味はなく、勉強はいつでもできるからと言ってほとんどの時間を僕と過ごしてくれた。今思えばなんてありがたかったのだろう。
その結果、僕はただただ厄介な力を持て余したまま青春を少しずつ青山とともに食いつぶした。部活に興じるとか、勉学に励むとか、学生らしい生活を捨て、かといって自堕落に過ごす訳でもなく、僕というこの世界にとって未知の実験材料を僕自身も青山もいじくりまわすことが何より楽しかった。
僕も青山と一緒にいる方が、気が紛れたし今思い返してみて、もしあの期間をたった一人でやり過ごさないといけなかったとしたらどれほど心細かったか、想像に難くない。それは誰にも頼れないまま嵐が過ぎ去るのをじっと待つことみたいに思えた。朝が来るのかも嵐が過ぎ去るのかも分からないまま。
高校に進む頃になると、僕はある程度自分の力をコントロールできていた。
暴発したり、人を傷つけることがなかったことは自分で自分を褒めてあげたいぐらいだった。まあそれには青山の協力が十二分にあった訳だけど。
ただし、そこで問題が起きた。というか起きていた問題に対する回答を僕たちはずっと先延ばしにしていた。
例の神社の裏が僕らの集会場所だったが、あまりに僕らがそこに集まるもんだから神社の神主さんたちに見つかってしまったことだ。
さすがに倒された杉の大木を見ても僕たちが倒したなんて思いもしなかったからそれについては咎められなかったけど、親に隠れてタバコを吸ったり、酒でも飲んでるんじゃないかと疑いを持った神主さんがある日突然やってきたことがあった。その時は適当に胡麻化したが、そのせいであまりその神社に行くことができなくなっていた。
高校進学と同時に僕らは集まる場所を変えた。高校の裏手に整地された大きな公園があって、その奥はそのまま山につながっていてハイキングコースになっていた。
僕と青山はハイキングコースから少し外れた場所に秘密基地みたいなものを作ってそこで過ごすことにした。その頃になると力のコントロールというよりかはどうやってこの退屈さから逃れるかということに注力していたが、結局のところ僕らは部活もやっていないし、勉学に励んでもいない。不良でもなければ、クラス内の人気者ポジションにいるわけでもない。見事に中途半端なはぐれ者の位置に2人とも収まっていた。
その日は体育祭の準備の日だった。実行委員本部の設営という雑用を終えたらあとは帰るなりなんなり好きにしていい日だった。
雑用を終えた僕と青山はいつものように秘密基地にいた。元々城跡だったこともあって、秘密基地周辺はごろごろとした石垣みたいなものが無数に点在していた。僕と青山はその一角に横になって漫画を読んだり、特に意味のない話に興じていた。いい加減退屈さのほうから逃げ出してしまいそうなぐらい退屈だった。
そんなときに僕が最も恐れていた一言を青山が言った。
「人助け…」
いつかこういう日が来るんじゃないかと思っていた。
「絶対に嫌だ」
「なんでさ」
「おかしいだろ。こんな力持った奴が急に現れたら」
「そうだけどさ、やっぱもったいないって」
仰向けに横になっていた青山は体を起こした。
「冗談じゃない」
初夏の風が山を降り、木陰に冷やされて僕らの元へと遊びにきた。
僕はそんな風の中にただ身を委ねることがたまらなく好きだった。青山もきっとそうだった。
退屈だと言いつつ僕らは特に暇を潰したりはしなかった。本を読んだりすることはあったが、必要以上に娯楽を求めてはいなかった。
それはたぶんそんなものより面白いものを、僕らだけの秘密をそこに隠していたからだった。
「バレなきゃいいんじゃないか?」
またしても青山が体を起こして言った。
「今度はなんだよ」
「いや、つまりさお前だってバレなきゃいいんだろ?」
青山の言うことは半分正解だった。
僕にも以前この力を人助けに使うことは出来ないかと思った時があった。
しかし問題が大きく分けて4つあった。まず1つ目は僕だということが公になること。2つめは平等性に欠けるということ。3つ目は僕がまだ力を完全にコントロールできないことだった。
僕は目立つことはそもそも嫌いだった。それにこんな力を持った奴が現れたら政府ないし医療機関や研究機関にいろんな情報を提供しなくちゃいけない。2つ目の理由については、文字通りで目の前で起きた犯罪や災害から、運良く人を助けることができても、世の中には僕らが想像する以上に犯罪や災害が起きている。
その一つ一つ全てを僕がまわって解決するなど、いくらこの力を持っていても不可能なことくらいはすぐにわかった。
3つ目はシンプルだ。万一助けた人に僕がコントロールできないこの力のせいで怪我をしたり、例え犯罪者相手であっても、この力を気安く振るうことは僕には躊躇われた。
「4つ目は?」青山が尋ねた。
「4つ目は」正直に言って僕としてはここが一番大きい理由だった。
「できるか分からない」
例え大きな力を持っていても、僕は自分に自信が持てずにいた。
勉強も中途半端、運動だってそもそもセンスがない。
力に頼ったからといって自分が望んだ結果が得られるかどうか、成し遂げることができるかどうか、そこが一番不安な部分だった。
そう言うと青山は黙った。
「例えばさ、海とかプールの監視員とかは?」少し考えて青山が口を開いた。
「溺れている人を助けるとか?」
「そうだ、水中ならそれなりに力を爆発させても大丈夫だと思うし、泳ぎが得意とか言って誤魔化せばなんとかなるんじゃないのか?」
青山の馬鹿馬鹿しい理屈に付き合う気はなかった。第一いずれにせよやるのは僕なのだ。
それなのに僕らは次の週末、海開きを迎えた海水浴場に海パンを履いて立っていた。
「上手くいくと思うか?」僕は隣に立った精悍な顔つきの青山に尋ねた。
青山は無言で僕の方を向いて親指を立てた。僕はそれを無視した。
海は比較的混雑していた。
海水浴をしている人はそこまで多くなかったが、サーフィンやマリンレジャーを楽しむ人で海水浴場は混雑していた。気温が30度を超えたせいで僕と青山は汗を拭いながら溺れている人がいないか、もしくは溺れそうな人はいないかを探したが、そんな人たちは見つからなかった。わざわざ海岸をぶらつくため1時間以上電車に揺られてわざわざ海まで来てしまったことが急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。
僕と青山は最初の10分だけ海水浴客に目を光らせてあとは海で遊んだ。
お腹が空いて海の家で焼きそばと冷えた瓶のコーラを買った。中々に悪くない瞬間だった。
夕方になる前に僕らは帰ることにした。
これ以上ここにいても特に何も起きそうになかったし、何より日焼けが酷くて早くなんとかしたかった。日焼け止めなんてものを知らなかった僕らは文字通り真っ赤に日焼けしていた。
おかげで海にも入れず、岩場の陰で太陽の光に怯えながら、結局いつもの秘密基地で過ごすのと同じように過ごした。岩場から駅まで海岸を歩いていると、小さな女の子が泣いていてお父さんとお母さんが懸命にあやしていた。僕と青山はどちらからともなく足を止めた。
話の流れから女の子の浮き輪が流されてしまったらしかった。どうやら祖父母に買ってもらったばかりの浮き輪だったらしい。
海面を見渡すと遥か遠くに黄色とピンクの浮き輪が浮かんでいるのが見えたが、陸から離れすぎていて、お父さんとお母さんにはどうすることもできなかった。諦めるしかなかった。
僕は青山の顔を見てから黙って海に入っていった。陽が傾いているせいで海水は昼間よりも冷たく感じた。足の裏に大きめの貝殻が当たっては砂に埋もれていった。波は穏やかで、満潮にはまだ時間があった。僕は足がつくギリギリのところまで歩いて行った。思い切り息を吸い込んで、肺を空気で満たした。
後ろの方で青山が家族に事情を聞いて、少し待っていて欲しいことを告げていた。
僕は一度深く潜って、思いっきり泳ぎ始めた。
日焼けしたところが刺すように痛んだけどそんなの今はどうだってよかった。
泳ぎは大して得意じゃなかったけど、しぶきをあげながらぐんぐん速度を上げていった。とにかく早くあの浮き輪を掴みたかったから、無意識にバタフライの格好になっていた。
後で青山に聞いた話では出鱈目な泳ぎ方のくせにまるでエンジンでも積んでるんじゃないかってぐらいの速度で僕は海の上をほとんどトビウオみたいに進んでいったらしい。
やりすぎだ!と青山は心の中で思ったらしいが、女の子のためなら少しぐらいいいかと思ったらしかった。
僕は浮き輪を掴んでUターンした。
浮力のあるものを掴んで泳ぐのは難しく、行きよりも時間がかかったが、それでもあっという間に岸に這い上がった。
家族にお礼を言われ、女の子の顔に笑顔が戻ったのを確認してから僕らも帰路についた。
青山が上手く説明してくれたらしい。僕が国体に出ることが決まっている水泳選手とか嘯いたらしかったおかげ家族からは特に怪しげな視線を向けられなかった。
僕も青山も疲れ切っていたのか、地元の駅に着くまでの電車ではずっと眠っていた。駅から家までの道の途中、僕らは特に会話をしなかったけど、胸の中は言葉にしようのない満足感で満たされていた。お互いが同じ気持ちであることを僕らは無言のうちに理解していた。
結局、その後僕らは人助け紛いのことを続けることにした。他にこれと言ってやることはなかったというのが主だった理由だった。
ただし、災害の救助とか、犯罪者を捕まえるとかそういうことではなく、お手伝い程度のことに留めることにした。草刈りや、おつかい、物を運んだり、落とし物探しとかゴミ拾いとか、そんなレベルのものだった。
青山は頭が良かったし、人当たりもよかったから、困っている人を探すのに困らなかった。僕たちは過剰に僕の力を誇示するようなやり方はしなかった。その辺はうまくやれていたと思う。そのおかげで時々厄介ごとを引き受けるお利口な少年たちという印象が、町の人たちが僕と青山に向ける印象になっていた。時々お手伝いをするとお駄賃をくれる人もいたから、僕たちもまんざらではなかった。
しかし、良いことばかりでもなかった。というか、僕にとってはほとんどの場合、人助けが良い結果を招くわけではないということを、この頃は学んだ。ある日のこと、僕は家で漫画を読んでいた。古い漫画で確か父のものだった。母は父の遺品を中々処分できずにいた。僕も処分し方がいいとは思わなかったし、家が手狭に感じたこともなかったからそのままにしていた。
僕はたまに父の部屋に行って、小説やら漫画を借りて読んでいた。
読んだ本は必ず父の本棚に戻した。母からそうしろと言われたわけではなかったが、どうしてかそうするのが正しいような気がして自然と戻すようにしていた。父の本棚には小説に実用書、語学書や図鑑と幅広い本が鎮座していた。父が読書をする姿を僕は見たことなかったが母曰く、姉貴が生まれるまではかなりの読書家だったらしい。育児に時間を割く必要が出てきたから遠ざかったがそれでも自分の本棚を大事にする人だった。
そんな風にその日も父の本棚から拝借した古い漫画を読んでいたら、携帯が鳴った。
「起きてたか」時間は23時を過ぎたころだった。冬が近づいてきていたから僕は厚手のパーカーにスウェットを履いて布団に入りながら漫画を読んでいた。
「なんか用?」
「今すぐ駅まで来れるか?」
駅集合は珍しいことだった。
「3分で行くよ」
この頃、僕はいつ何があってもいいようにすぐに家を出れるようにしていた。と言っても自分の部屋に靴をおいておくぐらいのことで、2階の自室から窓を開けて屋根に出て、そこから出かけるということがもう普通になっていた。
駅は僕の家から”普通に”行けば歩いて15分ぐらいかかったが、僕のやり方なら3分、いや30秒あれば十分だった。
駅から少し離れた空き地に着地してあとは小走りで向かった。
駅の前にはコートを着て白い息を吐いて僕に手を振る青山と見知らぬ女性が立っていた。
「悪いなこんな時間に」
「いいよ」青山は僕が視線を女の子の方に移したのを見て彼女を紹介してくれた。
「この人は僕のいとこの祥子さん。大学の3回生だ」
「こんばんは」祥子さんは律儀に挨拶をしてくれた。
僕もこんばんはと返して、青山の友人の倉田ですと挨拶した。
「手紙を届けてほしいんだ」青山が言う。
「手紙?」
話はこういうことだった。祥子さんには大学で世話になった教授がいて、どうやらその教授とは男女の仲にまでなっているらしい。ところがその教授は明日の朝の飛行機でアメリカに渡ってしばらく帰ってこないことになっているらしい。アメリカに行く理由は研究したいテーマが現状の日本では中々難しく、自分の人生の残り少ない時間を無益に過ごすよりも自分から前に進みたいがためとのことだった。僕や青山とは大違いだった。
祥子さんは自分もついていくと言ったが、彼女の将来のことを慮った教授に止められ、喧嘩を繰り返しながらついに出発の日を迎えてしまった。
強がりから見送りには行かないと言ってしまった手前、顔を合わせづらいがせめて手紙に気持ちをしたためてそれを届けることができないかと思い、青山に相談した。しかし誤算があった。祥子さんは教授の出発は明後日だと思っていたらしく、直接空港に行って渡そうと思ったが、なんと出発は明日、つまり数時間後だった。空港はここからは100km以上離れているため、もはやどうあがいても間に合わない。青山は偶然今日の昼間に家に来ていた祥子さんからこの話を聞いて、手紙を書いてもらい、ようやく書きあがったところで僕に連絡しきた、こういうことだった。
そこまで丁寧に説明してくれなくても手紙を届けてほしいで済むのだが、僕は青山と祥子さんの説明をうんうん言いながらとりあえず最後まで聞いた。
途中で終電の時間が過ぎてしまったため、駅の明かりが消えて辺りは頼りない街灯の明かりのみになった。僕たち3人以外は誰もいなかった。
「そういうわけでお前にひとっ走り行ってきてもらいたいのさ」
「それは良いんだけど、しゃべったのか?」
僕は祥子さんをちらっと見た。心配そうな顔で僕と青山の方を見ていた。
吐く息が真っ白でいかにも寒そうだった。
「仕方なかった。お前の力のことを説明しないとそもそもこの作戦は成り立たない」
僕は青山の軽率さに少しだけ腹が立ったが、祥子さんの恋心を無碍にもできないという気持ちもあった。自分が彼女の立場だったらと考えると胸が痛い。何より父のことがあったから僕は伝えられる言葉は伝えるべきだとそう考えるようになっていた。
「行くのは構わないけど、道が分からない」
「俺が電話でナビをする。祥子さんはこの近くで一人暮らしをしているし、パソコンもあるからそこからナビしてやる。任せろ」
いつも以上に得意げな青山に腹が立った。いとこの前で良い恰好をしたいという魂胆が見え見えだったが、普段世話になっている分、僕も内心では青山に協力したかった。
僕は祥子さんから手紙を預かってジャケットの内ポケットにしまった。
絶対に失くすなと青山が釘をさしてきたが余計なお世話だった。
祥子さんは先に立って青山を連れて家へ向かった。ナビがないとそもそもどっちにどう行ったらいいのか分からないため、僕は待機となった。
軍手をつけてきて正解だった。冷たい風の中、一人で待つのは少しだけ寂しかった。空気が澄んでいるせいか、いつもより沢山の星が瞬いている気がした。僕は準備運動をしながら青山の連絡を待った。寝静まった町の通りからは風の音と、遠くの幹線道路を走るトラックの音だけが聞こえてきていた。時間はもうすぐ24時になろうとしていた。
飛行機が飛び立つのが7時40分だから7時間ほどでここからはるかかなたの空港まで行かなければいけなかった。僕は自分が思いのほかわくわくしていることに気が付いた。思えば今回の祥子さんからの依頼は、僕と青山が人助けを初めてから一番規模の大きい依頼と言えた。何より生まれた町を遠く離れて一人で旅に出ることが少しうれしかった。それに青山がついているなら何とかなるという気持ちもあった。
10分ほど待つと携帯が鳴った。
「準備は?」
「大丈夫、いけそうだ。お前の携帯の位置情報をリアルタイムで追跡するように設定しておいた」
青山が祥子さんの家に行く前に僕の携帯を預かって何やら操作していたのを思い出した。
「とりあえず南に向かってくれ。線路沿いに海まで出よう」
「了解」
僕は電話を切ってそれなりの力を込めて走り始めた。真夜中だったから車とか歩行者にぶつかる心配はあまりなかったけど、誰かの家に突っ込んで迷惑をかけることだけは避けたかったから、通り過ぎる景色を視認できる程度の速さで走った。
海までは電車で1時間ちょっとかかる距離だったが、僕の足だと30分程度で到着した。線路沿いに進むだけだったから道には迷わなかった。
海に到着するとすぐに携帯が鳴った。
「着いたな」
「ああ、夏以来だ」
僕はあの浮き輪を失くした女の子と家族のことを思い出していた。
まばゆい日差しに包まれていたあの夏がつい3か月ほどまえのことなのに、遠い昔のことのように思えた。
「今度は海岸線に沿ってさらに南へ向かうぞ」
「分かった」
海岸線に沿って南、と青山は言ったがあまりの暗さに道が全く分からず、僕は何度か危うく海に落ちるところだった。しばらく進むとコンビナートが見えてきた。巨大な倉庫群も連なっており、煌々と明かりが灯っていた。
工業地帯を抜けるとまた海岸線に戻った。道は次第に内陸に入って山の中を進むようになった。ここでも車通りはほとんどなく、たまに大型のトラックが走り抜けるだけだったからそれなりの力で走り続けることができた。
山の中の空気は市街地よりずっと冷えた。途中、短いトンネルをいくつか潜り抜けたときはあまりの寒さに叫びながら走った。
冷たい空気のせいで肺の辺りが痛んだ。蒸気機関のように僕の体から吐き出された空気は喉を通って白い息に変わり、通り過ぎる景色の中にまき散らされていった。
順調に走り続けているとまた携帯が鳴った。時間は深夜2時を回る所だった。僕は比較的開けた十字路のど真ん中で止まって電話に出た。
「やっと出た!」
珍しく青山は慌てていた。
「道を間違えてる!」
「なんだって!?」
どうやら僕が走っている間に携帯が圏外に入っていたせいで、青山が位置情報を拾えなかったらしく、その間に見当違いの方向へ走り続けていたらしい。
「どっちに行けばいい?」
「戻ってる時間はなさそうだ。その十字路をそのまままっすぐ南に向かうと大きく迂回することにはなるけど元の道に合流できる!」
僕は走る速度をさらに加速させた。ギアをもう一段階上げるみたいに。
山の中の冷えた風に吹きさらされたせいで耳が千切れそうに痛んだが、不思議と嫌な気分ではなかった。
走り続けていると次第に自分が風と一体になっているような気がしてきた。闇の中を自分の思うがまま走るということは何て気持ちがいいのだろう。
青山のナビをこまめに受け取った結果、空が白み始める頃には空港まであと50kmのところまで来ていた。僕は数年ぶりに息を切らしていた。それから数年ぶりに運動をして汗をかいた気がした。白い息が少しだけ明るくなった空に生まれてすぐに吸い込まれて消えた。
夜通し走り続けたのは初めてだった。僕は自分がすっかり普通じゃないと思い込んでいたけど、徹夜なんてしことなかったから注意力が落ちていたのかもしれない。出会い頭に思い切りゴミ収集車に跳ねられた。
何が起きたのか分からなかった。僕はまっすぐ走っていたはずなのに気が付いた時には路上に転がって鼻から血を垂らしながら地面に転がっていた。ゴミ回収の業者が二人、運転席と助手席から降りてきて青ざめた顔で僕の方を見ていた。
僕はふらふらと立ち上がった。体が鈍く痛んだが、たぶん普通の人が車に跳ねられた時よりずっとその影響は少ないような気がした。
僕はゴミ回収業者の2人に何でもないといった風に手をひらひらと振った。携帯がないことに気づいて辺りを見回すと5メートルぐらい先に転がっていた。運良く壊れたりはしていないようだった。
僕は救急車や警察を呼ばれる前にその場を走り去った。とにかく今は目的地である空港に着くのが先決だった。
手紙はジャケットの内ポケットの奥に入れていたけど、心配になって確かめてみたらちゃんとそこにあった。
服がぼろぼろになっていることを除けば僕は車に跳ねられてもピンピンしていた。
多少人間らしさを感じたから僕は少し嬉しかった。ただ、明らかにハイになっていることは疑いようもなかった。
目的の空港に着いた時は搭乗時刻締め切りの40分前だった。
しかし、肝心なことに僕は祥子さんの恩師である教授の顔を知らなかった。
青山に電話して、祥子さんに代わってもらった。もしも教授が保安検査場のゲートを通り過ぎてしまっていたら彼に接触する方法はなかった。僕は祥子さんに頼んで携帯に写真を送ってもらった。柔和な笑みを浮かべた人の良さそうな眼鏡をかけた男性と、祥子さんが笑顔で写っていた。
誰がどう見ても2人は付き合っているようにしか見えなかった。念のためカウンターで、彼を呼び出せないか係員に尋ねた。呼び出しはかけたが、やはり保安検査場のゲートを潜ってしまっていたら会うことはできないみたいだった。
せっかく空港にたどり着けたのに、会えなかったらどうしようという気持ちが僕を焦らせた。
気づけば僕はぼろぼろの服を纏って汗だくになりながら空港を駆けずり回っていた。
祥子さんから、教授に連絡がついたと電話があって僕は指定された場所に向かった。
奇跡的にゲートを通っていなかった教授は、心配そうな顔で待っていた。写真の通り穏やかそうな人だったが、搭乗時間が迫っているせいか少し落ち着きがなかった。
僕は最低限の素性とここへ来た理由である手紙を教授に渡した。教授が一瞬驚いた顔をしていたので僕も驚いた。
「あの、彼女はなんと?」教授がひどく小さい声でそう呟いて僕の目を見た。
「見送りに行かないと言ったことを後悔していました。僕も出来ることなら祥子さんに今この場にいてほしいと思いますが、それは出来ませんでした。でも手紙に気持ちはしたためたみたいなので、落ち着いたら連絡してあげてください」
教授は手紙の表と裏を繰り返し交互に眺めた。
差出人も宛名も特に書いてない乳白色の封筒は、僕が内ポケットの奥にしまったせいで
少し歪んで皺が寄っていた。
沢山の人がすれ違って、どこかへ向かう途中だった。教授の乗る予定の飛行機もあと1時間後には太平洋の上を飛んでいるだろう。
「パパー、早くきてー」
僕たちが話している少し先で5歳くらいの女の子がこちらへ手を振っていた。傍には母親らしき女性が心配そうにこちらを見ていた。
教授は女の子へ向かって今行くと言って手を振った。
「お子さん、ですか?」
「ええ、来年から小学校にあがります」
教授は静かに、僕には視線を合わさずそう言った。そんなことを尋ねたかった訳ではなかったけど僕はその後何て言葉を紡いだら良いのか分からなかった。
なるほど、と思った。この人は妻子がありながら、祥子さんと関係を持ってしまっていたのか。
祥子さんと写った写真の教授も、どこか困ったような顔をしていた。僕はそれが、積極的に感情を表現する祥子さんに対しての気持ちからかと思ったが、家族に対しての後ろめたさからだったのだろうと、今では思い直していた。
「妻になんて説明をしたらいいか…」
教授は変わらず僕でも手紙でもなくどこか遠いところを見るような目をしながらそう言った。
僕はそれに少し腹が立った。無責任だとも思った。
「手紙はお渡ししました。僕の仕事は終わりです。あとはどうするか、あなたが決めてください。では、これで」
僕は教授とその家族一礼して歩き出した。僕が頭を下げると奥さんも小さく頭を下げるのが見えた。娘は相変わらず戻ってこない父親に向かって早くと訴えていた。
僕は踵を返して空港の出口へと向かった。
生まれて初めて空港に来たから、落ち着いて眺めるととその広さに驚いた。まだ朝の早い時間のせいか人はまばらでこれから出国する人、スーツ姿で出張に赴く人がぽつりぽつりと視界に入っては消えていった。
ガラスに反射した自分の服装がひどく見窄らしかった。あちこちが土や埃で汚れていたし、膝のところは破れてしまっていた。
僕は外に出て、朝の空気を思い切り肺に取り込んだ。天気はよく晴れていて、すぐに太陽が顔を出した。陽光の眩しさに目を細めると同時に、その光の暖かさに僕はどうしてだか、泣きそうになった。
青山に電話をかけて、手紙を渡したことを告げた瞬間に、携帯の電池が切れた。まるで役目を終えたと言わんばかりに。
電車で帰るにも、財布を持ってきていないことことを思い出した。手紙を届けた後のことを全然考えていなかった。ため息をひとつついて、僕はとりあえず空港を離れることにした。こんなぼろぼろの格好していては見るからに怪しいし、空港だから警察もそれなりに見けた。歩いて空港から出る人間は珍しいらしく、道中それなりに人目を引いたが、僕は無視してすたすたと歩き去った。幸いなことに声をかけてくる人はいなかった。
それなりの時間歩くと、コンビニがあった。
僕は中に入ってひとまずトイレに入った。
手を洗って、汚れた部分を水で濡らしてみた。
季節柄か、水はだいぶ冷たかったが、それでもやらないよりはましだった。
トイレを出て、雑誌のコーナーへ向かい、道路マップがあったので広げた。
せめて方角さえわかれば、夜が来るのを待って走り続ければ地元まで帰れるはずだった。
おおよその方角と、目印を頭に入れた僕はコンビニを出た。年配の男性店員が何かを言いたそうに僕のことを目で追っていたことに気づいていたが無視した。
僕は自分の心の中に置き場のない感情が蠢いているのを感じた。
どうしてもあの教授と家族、それから祥子さんのことが頭から離れなかった。
感謝して欲しかった訳ではないが、少なくとも自分の行いが人から感謝されるものだと、どこか思い込んでいたことは否めなかった。
祥子さんは手紙にいったい何を書いたのだろう。何を伝えたかったのだろう。
そしてそれを教授は読んだのだろうか。あの奥さんは祥子さんのことを知っていたのだろうか。僕はすっかり疲れ切ってしまい、コンビニの裏出に腰を下ろした。
この体になってからここまで疲労を感じたのは初めてのことだった。
空腹も感じていたし、それに眠かった。
僕はもう一歩も動けそうになかった。
コンビニの裏は駐車場になっていて、大型の運送用トラックを停めるスペースになっていたが、今は一台も停まっていなかった。
少し仮眠をとって、歩こう思った。
眠りに落ちる寸前、ガチャリと音が鳴った。
コンビニの裏口が開く音だった。
面倒なことになる予感がした。それでも僕は疲れ切っていて動く気にはならなかった。
怒られたらその時考えようと思った。
まあ、裏出にボロボロの衣服を纏った高校生が横になっていたら、警察に通報したりするのが普通だとは思うが。
音が鳴ってすぐに、またガチャリと音がした。
扉が閉まる音だった。運が良かった。どうやら見つからなかったみたいだった。
僕はそのまま意識を眠りの方へと向けた。
しかし、中々寝付けなかった。体はそれなりに疲弊していたし、実際眠かったが、あまりに疲れすぎてしまっていたせいか目を閉じたまま時間だけがすぎていった。
程なくしてまたガチャリという音がして、裏口の扉が開いた。僕はこれはなんとなく、これは声をかけられるなと思った。
足音がこちらへ近づいてきた。僕は顔を上げる元気もなく、コンビニのタイル張りの外壁に背中を預けて俯いていた。
足音の主は徐に僕の横に水とおにぎりを2つ置いた。目を開け、顔を上げると先ほど怪訝な顔で僕の姿を追っていた年配の男性店員がそこにいた。
年齢は50代か60代か、ともかく歳をとっていた。老人と言っても差し支えない風貌だった。短く刈り込まれた髪の毛はほとんどが白くなっていて、夏の夕方ぐらいに生えてきた雑草みたいな髭も、おんなじようにほとんど白かった。
老人は胸ポケットからタバコを取り出して、口に咥えてライターで火をつけた。
あたりにタバコの匂いが広がって、風に乗ってどこかへ飛んでいった。
「腹減ってんだろ。食え」老人はよく通る低い声で僕の方を見ずに言った。
僕は老人の顔から目が離せられずにいた。
胸元に杉原と書かれたネームプレートが見えた。
「家出か?」僕はそれには答えなかった。
1人にしておいて欲しかった。疲れていたし、今はとにかく眠りたかった。
「おにぎりは廃棄寸前だから心配いらん。水は俺の奢りだ」
杉原老人はタバコをまた一口吸って、鼻からも口からも煙を吐いた。
僕は観念して、手近なおにぎりに手をつけた。2つともツナマヨだったのが些か気になったが、それでもやはりありがたかった。
作られてから時間が経過しすぎているせいか海苔がふにゃふにゃでお米もパサついていたが、これまで食べたどんなおにぎりよりも美味しいと感じた。僕はそれをたった一晩食べてなかっただけなのに、数日ぶりの食事みたいにむしゃむしゃと頬張った。
老人はまだタバコを吸っていた。タールの匂いでむせ返りそうだったが、朝の空気が中和してくれるているような気がした。
「どっから来た?」杉原老人がタバコの灰をアスファルトに落としながら訊いた。
「ずっと北の方」僕はそれだけ答えると2つ目のおにぎりに着手した。
そうか、と小さく杉原老人は答えた。
「まあ、俺もお前さんくらいの歳には色々やった」僕は水の入ったペットボトルから勢いよく水を飲んだ。砂漠に行ったことはないけれど、喉を通り抜けてすぐに、砂に染み込むみたいに水は僕の体の奥の方に姿を消していった。
おにぎりを2つ平らげ、水を飲み干すと僕は老人に礼を言った。それからここまでの経緯を、多少嘘を交えながら話した。
その間も杉原老人は、相槌を打ちながら僕の話を聞いてくれていた。仕事の方は大丈夫なのかと尋ねたら、今日の仕事はもう終わりだと彼は言った。どうやら夜勤の担当らしかった。
腹に食べ物を入れたら元気が湧いてきた。気持ちも幾分マシになった。
「まあ、何に悩んでいるか知らんが大いに悩め。俺みたいな老耄になるとな、悩んだり苦しんだりってこと自体がなくなる。まるで奴らの方から俺を避けてるみたいにな」
老人は4本目のタバコに火をつけた。
「悩みがないってのは楽だがな、けど良いことかって訊かれたら俺には答えらんねえ。それは悩めるだけの何かがお前の中にあるってことだろ?それはよぉ、俺からしたら羨ましいことだぞ」老人は続けた。
「こんな歳になってもコンビニで働かなくちゃいけねえなんてよ、情けねえっつうかなんつうか」僕は黙って老人の言葉に耳を傾けていた。
「でもお前さんはまだ子供だろ?子供は悩んで、自分で生き方を決めなくちゃなんねえ。それは誰にも手助けできねえこった」
「誰にも手助けできない…」僕は自然にそう呟いていた。
「そうよ、結局人間なんてどれだけ集まってもひとりぼっちよ。生まれて、生きて死んでいくだけ。だから自分のやりたいことをやればいい」杉原老人はアスファルトに落としたタバコの火をを汚れた革靴で踏み消した。
「俺はもうあとは死んでくだけよ」
そう言って杉原老人は笑った。
前歯が上と下に1本ずつしかなかった。
杉原老人が笑った顔はいつか、父と見に行ったサーカスに出ていた年老いた虎に似ていると僕は思った。歯がもう所々抜け落ちているところや、白い髪や髭、鋭い眼差し、それらが野生と文明人のちょうど間の生き物みたいに見えた。
朝の陽光の照り返しで、僕からは杉原老人の顔がよく見えた。深く刻まれた皺、白くなった髪の毛、鼻の左側に大きな黒子があった。
右手の甲に親指くらいの瘤があった。
僕はこの人のことが嫌いではなかったが、好きにもなれなかった。好きなことをやり続けて、その果てにこのコンビニに流れ着いたのだろう。
この人にも、多分僕と同じようにこの人自身の物語があり、自分で決めて、選んで生きてきたみたいだった。
「そろそろ行きます」僕はそう言って立ち上がって、尻に着いた砂を手で払った。もう少しだけ休んでいたかったけど、このままこにいたらコンビニの邪魔になりそうだったし、何より杉原老人に悪いと思えたからだった。
「気をつけてな」
杉原老人に見送られて僕はコンビニを後にした。離れたところから振り返ると、老人はまたタバコに火をつけて、背伸びをしながら大きくあくびをした。虎というよりもそれは日向ぼっこする老いた猫に思えた。
道は緩やかに上り坂になっており、大型のトラックがかなりの速度で飛ばしていた。
歩道があるとはいえ、多少の危険を感じながらも僕は改めて自分が数時間前、思いっきり車に撥ねられたことを思い出した。あのゴミ回収業者の2人には悪いことをした。
しばらく歩くと右手の方に公園が現れた。
かなりの広さのようで柵に囲われた向こうにはテニスコートが見えた。
ここなら日が暮れるまで休んでも大丈夫そうだと思った僕は車が来てない時を見計らって車道を渡り、公園に入った。
比較的人影があって、ランニングをする人や体操に興じる人がそれなりの数見受けられた。僕は歩きながら休めそうな場所を探した。
公園自体は広い林に覆われているため、車道の方からは見えなかったし、散策用の道を外れると鬱蒼とした林の中に入ることができた。
僕はなるべく散策路から見えない位置に腰を下ろした。じめじめとしてはいたが、木立の間から太陽の光が差し込んでいて暖かった。
腰を下ろし、瞼を閉じるのとほとんど同時に僕は眠りに落ちた。
目が覚めた時には、太陽の光はすでにどこかへ去っており、体がすっかり冷え切ってしまっていた。
携帯の充電が切れたせいで時間すら確認できなかったが、まだ空には明るさが残っており、昼と夕方の境目といったぐらいの時間帯らしかった。
僕は散策路に戻ってまた少し歩いた。このまま横になっていても風邪をひきそうだったし、
日が暮れたらすぐ走り出そうと思って公園の出口へ向かった。日が傾いたせいか、公園には僕以外誰の姿も見当たらなかった。
風が時々落ち葉を巻き上げながら、僕の脇を通り過ぎた。遠くで犬が吠え合う声がした。
日が落ちてきて、だいぶ肌寒くなってきたから、僕はジャケットのファスナーを上まで上げてゆっくりとしたペースで走り始めた。

街の入り口に辿り着く頃には夜が明けかけていた。昨日とは打って変わってスローペースで走ってきたから行きよりも時間がかかった。
とりあえず家に帰ることにした。携帯の充電をしないといけなかった。
当たり前だけど家は静まり返っていた。僕は飛び上がって屋根に上がり、自室の窓から中に入った。部屋は僕が出て行った時と全く同じまま時間が止まっていたみたいだった。くたくただったし、ほとんど24時間前に杉原老人に恵んでもらったおにぎり以外は何にも胃に入れてなかったからお腹が空いていた。
物音を立てないように、階段を降りて1階へと向かった。胃に何か入れる前に、とにかく水が飲みたかった。こんな体になっても食事と水分補給が必要なことは、不便なことだとも思えたし、幸運なことにも思えた。
グラスに水道水を注いで飲んだ。しばらく水を飲んでいなかったせいか、体が受け付けず、僕は盛大にむせて辺りを水浸しにしてしまった。
咳き込む音を聞いて、母が起きてきた。
「どこ行ってたの?」
「青山とちょっと」呼吸を整えてから僕は答えた。誤魔化すにしてももう少しやりようがあった。
母はふーんとだけ言って、自分もグラスに水を注いで飲んだ。朝の冷たい空気が部屋の中のものの色を少しずつ抜いてしまったみたいに灰色だった。窓の結露が音も立てずに、頼りない軌跡を残しながらいくつも流れていった。
「あと数時間帰りが遅かったら、捜索願出してるとこだったわ」
母もどうやら満足に眠れていないようだった。
「なんか食べる?」母が尋ねた。
僕は頷いて、ダイニングテーブルに腰掛けた。
母は有り合わせのもので朝ごはんを作ってくれた。手早く味噌汁を作り、冷凍ではあるものの白米と納豆、それから昨夜の残りだという茄子の味噌炒めがテーブルに乗った。
僕は最初は胃の様子を伺っていたけど、すぐに勢いよくかき込み始めた。
「ゆっくり食べなよ」
母もコーヒーを淹れて、テーブルについた。
いつ以来か思い出せなかった。こんな風にテーブルを挟んで座るのが。僕はここ数年は帰ってくるのが遅くなっていたし、力のこともあったから、あまり母と顔を合わせるのが苦手だった。
母もそれに気づいていた。力のことは言ったことはなかったけど、見ていれば分かるはずだった。
「危ないことだけはしないでね」
気づくと母が真っ直ぐに僕を見ていた。
僕はそれに対してうん、とひどく自信のない返事しかできないことを恥じた。
お腹がいっぱいになり、皿を洗って自室へと戻った。母にはこの力のことを話すべきではないだろうか。これ以上心配をかけたることはなるべくなら僕としても避けたいところではあった。しかし話したからってどうなるだろう。
父の死がきっかけとなって摩訶不思議な力を手に入れて時々人助けをしているなんて、知ったからといってやめなさいとは言えないだろうし、治せるのなら僕だってとっくにこの体を元に戻していたと思う。
気がつくと眠っていた。目が覚めたらお昼前で、僕は床に転がった携帯を手で探り当てて拾った。充電は完了していた。
画面には不在着信とメールが数十件入っていた。それらは全て青山からだった。
僕はすぐに電話をかけた。
「次からは予備のバッテリー必須だな」
数コールで青山はすぐに電話に出た。
まるで携帯の前で待機していたみたいだった。
僕は連絡が途絶えたあとのことを順を追って説明した。なんとか間に合って教授には手紙は渡せたこと、教授に家族があったこと、杉原老人のことも話した。
青山はなるほどね、とかそうかと相槌を入れながら聞いていた。
「教授に家族がいたことは俺も知らなかった」
報告を終えた後で青山が言った。珍しく青山も言葉のトーンが暗めだった。
「祥子さんは、知ってたのかもな。それでも人の心ってのは俺たちが思ってるよりもずっと複雑で、それでいてシンプルなのかもな」
青山はそう言うと黙った。
「とりあえず今日はゆっくり休めよ。この後出かけないといけないからさ。祥子さんにはメールしとく」
「どこ行くんだ?」
「別にそんなに楽しいとこじゃない。いつもの親戚付き合いで、隣町のホテルで飯を食うだけさ」青山の家は代々、市議会議員や政治に関わる分野で名を馳せた名家だった。
時々そういう付き合いに青山も連れて行かれていた。
「そうか、いいな」
「いい訳あるかよ。堅苦しくて退屈さ。それに俺は、親父が胸を張れるような出来た息子じゃないしな」
「いやお前は立派だよ。少なくても僕にとっては」僕は心からの気持ちで言った。
「涙が出るぜ、お前ぐらいだよそんなこと言ってくれるのは。じゃあなんかあったら連絡してくれ」
「ああ、楽しんで」
電話は切れた。
僕は窓のところまで歩いて行った。薄い雲が広がっていて、所々が濃い色の雲の底が街を舐めるように通り過ぎて行った。
雨の匂いがしていた。僕は窓を背にして腰を下ろした。
いつか父と行った海のことを思い出していた。
隣の県だった気がする。どうしてかは分からなかったが、父を思い出すと決まって一緒に行った川とか海とか、とにかく自然を思い出した。家族で旅行に行った記憶はほとんどなかった。特に泊まりで出掛けたことなどたぶん僕がうんと小さい頃に1度か2度あったか、その程度の記憶だった。
父は口数の多い方ではなかった。何を考えているか分からなかったし、僕と姉貴にも親らしいことをしてくれた覚えはなかった。
そう言うとひどく寂しく聞こえてしまうけど、それでも文句も言わずに僕たちを育ててくれた。姉貴の方はどうだか知らないけど、僕は父のことがそれなりに好きだったんだと思う。
父の仕事は靴の修理工だった。会社で勤めているのではなく、自分で店を持っていた。
小さい頃に、母に連れられて父の店に遊びに行ったことがあった。確か姉貴も一緒だったと思う。連れて行かれた理由は定かではないけど、家族で出かける用事があって、店に用事のあった父を迎えに行ったとかそんなものだった気がする。店の中のものが珍しくて、姉貴と一緒に色んなところを触ってたら父が一つ一つ説明してくれたらしい。僕はそのことをあんまりおぼえていなかったけど、母はその光景が随分印象的だったみたいでその後何度かこの話になった時に、あの時のお父さんは幸せそうだったとか、あんな顔見たことなかったと言っていた。
子供を持つということは、並のことではないとまだ学生の身ながら思う。
自分の背中は子供育てるに値するか、僕にはまだよく分からなかった。
しゃきっとしないとと思い、僕は立ち上がって散らかった部屋の掃除を始めた。
思えば特に予定のない休みなど久しぶりだった。予定がなければ青山と秘密基地に入り浸るのが当たり前になってたから、これはこれで新鮮だった。
読みかけの本を読むか、映画でも見るか迷っていると、遠くの方から地鳴りが聞こえてきた。低い音が、太鼓の生き物の唸り声のように僕の方へ向かってきた。
次の瞬間、強烈な揺れが襲ってきた。地震だ。
うねるような横揺れが、鋭い縦揺れの後に襲いかかってきた。1階の方から母の悲鳴と何かが割れる音が立て続けに聞こえた。揺れは1分ほど続いておさまったが、あまりの大きさに揺れが落ち着いても体が揺さぶられているような感覚が残った。
机の上のものは床に落ち、汚かった部屋がさらに汚くなった。
僕は急いで部屋を飛び出すと1階へ向かった。
母はダイニングテーブルの下から顔を出した。
どうやら無事のようだった。
戸棚が倒れて、ガラスの引き戸が軒並み割れてしまった。床には細かいガラスの破片が散らばっていて、歩くには余りにも危険だった。
母は箒と塵取りを撮りにキッチンを出て行った。僕はその隙に棚を元の位置に戻した。
棚は真ん中から上がガラス戸のついた引き戸で、下は抽斗になっている重たい棚だったが、壁にピッタリとついたのに、1メートルほど壁から離れてしまっていた。
キッチンを見渡し、他にも大きく位置の変わってそうなものを戻しておいた。
初めて自分の力が純粋に役に立ったような気がした。母と共にガラスの破片を拾って僕は割れた棚のガラス戸に部屋から持ってきた画用紙をガムテープで貼り付けた。
他の部屋も見て回ったが、どの部屋も棚は倒れたり、大きく動いていた。
父の仏壇もひどい有様だった。遺影も位牌も倒れてしまっていて、離れた場所に転がっていた。香炉やお供えしていたお水なんかも軒並み飾っていた場所から落ちてしまっていた。
僕は遺影と位牌だけ元に戻して母のところに戻った。
揺れがきてすぐに停電してしまっていたから、部屋の中は薄暗かった。母はキッチンのガラスを片付け終えると、水道やガスを確認した。
ガスが漏れている様子はなかったが、水の方は断水してしまっていて蛇口を捻っても何一つでてこなかった。
携帯電話も基地局が停電を起こしたせいか、誰にもつながらなかった。
僕は青山のことが気に掛かった。
ホテルで食事と言っていたが、いつもと同じなら隣町にそびえ立つ40階建ての古いホテルのはずだった。しかし今目の前の母を置いて様子を見には行けなかった。
僕は家の中の重そうなものとかをなんとか元の場所に動かしていった。幸いなことに一番ひどかったのがガラスが散乱したキッチンだった。
それ以外の部屋は物が倒れたり、多少動いたりしただけで致命的な影響はないみたいだった。
僕は靴を履いて外に出てみた。近所の人が集まって情報交換をしていたが、電気が止まってる以上大したことは分からないみたいだった。
一通り家の中が落ち着いたので僕は母に断ってから駅の方まで歩いて行ってみることにした。
ブロック塀が倒れたり、アスファルトが大きな力で抉られたりしてしまっていた。倒れて中身が剥き出しになった電柱や、1階部分が丸々押しつぶされてしまった古い2階建ての家が目についた。
もしこの中に誰かが残っていたら、そう思った時には体が動いていた。僕は押しつぶされた木造家屋に近づいて誰かいないか大声で叫んだ。
何の反応も帰っては来なかった。僕は敷地の裏手に回って中の様子が分かるような場所はないか見て回った。背の低い雑草を踏むと乾いた音がした。
周りの家々からも安否を気遣う声や、助けを呼ぶ声がしていた。
勝手口部分はひしゃげてしまっていたが、割れたガラスから中が覗けた。
昼の光が差し込んでいたが、中は薄暗く2メートルぐらい先までしか確認できなかった。目を凝らすと、暗がりの中に人の足のようなものが見えた。
自分の呼吸が普段よりもずっと荒くなっていることに僕は気づかなかった。
「大丈夫ですか!」最初はうまく声が出せなかったが、3回目ぐらいでやっと大きな声を出すことができた。なりふり構っている場合ではなかった。
勝手口のノブに手を掛けると、枠が歪んでしまっているせいかあかなかった。思い切り引き抜けばドアごと外せそうだったが、その拍子にかろうじて潰されていない1階部分が押しつぶされてしまったら…。
僕は辺りを見回して使えそうなものがないか探した。敷地の裏でに古い用具倉庫があった。すっかり腐食して錆ついた引き戸を開けると、農作業用の道具が無分別に放り込まれていた。僕はその中から大きめのスコップと、何に使うのか分からない材木を数本抱えて勝手口に戻った。
家の荷重がどこにかかっているのか分からなかったから材木を数本、地面に柱のように打ち付けて、スコップで勝手口をてこの要領でこじ開けた。
家はミシミシと不吉な音を立てていたが、崩落はしなかった。
僕は中に入った。巻き上げられた埃が光の中を無邪気に遊んでいるのを横目に奥へ進むと、ちょうど外から確認できた位置におばさんが倒れていた。
幸い、家の柱や家具に押しつぶされてはいなかった。僕は狭いながらもおばさんを抱え上げて外へ運びだした。途中、服がむき出しの木片にひっかかりそうになったけど慎重に道を探した。倒れた拍子に打ったのだろうか、おばさんの額からはまだ乾いていない血が流れていた。
僕は少し離れたところにおばさんを寝かせ、呼吸があることを確認した。
何度か呼びかけると、おばさんは目を覚ました。何が起きたのか理解できずにいるようだったから、僕がこれまでの経緯を説明した。
おばさんはお礼を言うと体を起こした。足に痛みがあるらしく、揺れに気づいて慌てて逃げようとしたときにひねったみたいだった。
これもまた幸いなことだが、家の中にはおばさんのほかには誰もいないみたいだった。僕はほっと胸をなでおろした。次第に冷静さを取り戻してきたおかげで、避難所のことを思い出すことができた。近くの小学校が避難場所に指定されていたから、おばさんをおんぶして向かうことにした。
おばさんは遠慮していたが、このままここに置いておくことはできなかった。僕はおばさんをおんぶして、危険を感じない程度の速度で走った。青山以外の人を背負って走るのは初めてのことだった。さっきよりも外に出ている人が多くなっていた。みんな電気が止まったり、携帯が不通になったせいで助けを呼びたくても呼べないみたいだった。
小学校に着くと、想像よりずっと多くの人が集まっていた。みんなどうしたらいいのか分からないといった面持ちで、着の身着のままで避難してきた人や、家族を見かけなかったかと尋ねまわる人であふれていた。
僕はおばさんを送り、元来た道を戻った。道中にも手を貸してほしがっている人が大勢いた。両親とはぐれたらしい子供や、動けなくなったお年寄りを抱えて小学校と近隣を何往復かした。みんな一様にお礼を言ってくれた。
しかし、ケガをした人や大声で泣く子供には僕は無力だった。せいぜいできることは重たいものを退けることや、運ぶことぐらいでそれは現実的に危機に直面している人にとってはありがたいことかもしれなかったが同時に僕は無力感にも襲われていた。力の使い方をある程度覚えたはずなのに、人を元気にさせたり、笑顔にすることと、この力は全く関係なく、僕自身の中にあるものが不足しているのだと感じた。だからという訳ではないが、
困っている人をなるべく助けたかった。青山との特訓はもしかしたら今日のためにあったのかもしれなかった。
地震が発生して2時間ほどが経った。昼を過ぎて少しずつ陽が傾き始めていた。僕は可能な限り、崩れた塀や、瓦礫を持ち上げたりして、人助けをした。中には僕のこの怪力に驚く人もいたが、ほとんどの人は今それどころではなく、自分のことで精一杯の様子だった。
次第に周囲は落ち着きを取り戻していった。断続的に余震が襲っては来ていたのものの、警察や消防の人たちも出動してくれていたおかげで大きな混乱は発生しなかった。
迷子の女の子を避難所へ送り届けたときのことだった。女の子は小さくありがとうと言ってくれた。係りの人に女の子を預けてそろそろ家へ帰ろうかと思っていると、消防の人が何人か慌ただしく去っていくところだった。
近くにいた人に何かあったのか尋ねると、隣町のホテルで火事が起きているらしくその応援に向かうとのことだった。
真っ先に僕は青山がいるホテルを思い浮かべた。小学校の裏に回り、非常階段の策をジャンプで飛び上がった。なるべく高い所にあがりたかった。
屋上に上がって隣町の方を見ると、黒煙を上げるひときわ背の高い建物があった。僕は自分が思うよりも早く、その方向へ飛びあがった。
着地のことを考えていなかった。とにかく、今はそこへ向かうことが僕にとって何より大切だった。
空から見ると、ホテルだけではなく至る所で黒煙が上がっていた。空気の中に焦げ臭さを感じながら、数秒空中を飛んで片側2車線の広めの道路に着地した。車どおりはほとんどなく、みんな避難所や自分の家に向かっているおかげか、通りに人の姿はまばらだった。空から子供が飛び降りてきて、すぐまた走り去ってもみんな目で追うだけで特に気に留める様子もなかった。
ホテルまではそこから一直線だった。夢中で黒煙を巻き上げる建物へ向かった。途中割れた窓ガラスが道に散乱しているところが何か所もあった。
街を一つ隣に来ただけだったが、こっちのほうが僕の家の周りよりも被害が大きそうな気がした。
走っている途中、さっき見たような潰れかけた木造の家や、ほとんど縦に真っ二つに割れた古いコンクリート造りの2階建てのビルが目に映った。
あの中にも人がいて、助けられる人がいるかもしれない。そう思った瞬間に足が止まってしまった。かつて懸念していたことが的中した。
助けられる人間の数には限界がある。どれだけ大きな力を持っていても所詮僕は一人の人間でしかなかった。
僕は携帯で時間を確認した。5分だけここで助けられそうな人がいないか探すことにした。その時、携帯の電波が回復していることに気が付いた。
僕はすぐに青山に電話をかけた。かけながら、瓦礫がさんらんしたコンクリート造りのビルに近づき、中の様子をうかがった。
青山は電話には出なかった。とにかく今は無事を祈るしかなかった。
ビルの中に人影は見当たらなかった。おそらくすでに逃げたあとか、元々倉庫のような使われ方をしていたおかげで人の姿はなく、壁の隙間から入った西日を受けて段ボール箱の影深く広がっているだけだった。
今度は押しつぶされかけた家に近づき、中に人がいないか呼びかけた。
こちらも誰もいないようだった。先ほどと同じく裏手に回ってみて驚いた。そこに血だらけの男性がちょうど崩れた家を背にしてうずくまっていた。
「大丈夫ですか?」
僕が声をかけると男性は顔を上げて視点の定まらない顔で僕の方を見るばかりだった。どうやら頭を強く打っているみたいだった。
あまり動かさない方がいいとは思いつつもすぐ真後ろに崩落しかかった家があるため一刻も早くここを離れるべきだった。僕は男性を抱え上げた。
背中に手をまわしてちょうどお姫様だっこするような形で持ち上げた。
肩のあたりに木片が突き刺さっていてそこから血が流れていた。
持ち上げるときに男性は顔をしかめ、うめき声を発したが歯を食いしばって懸命に痛みに耐えていた。痛みはひどいようだが、呼吸はしっかりしていた。
大通りに出ると、ちょうど救急車が通りかかった。大きく手を振って止めたが、これからあの黒煙を上げるホテルへ向かわなければいけないと言われ、男性を乗せてもらうことはできなかった。
このままこの男性をただここに置いておくことはできなかった。僕は何とか近くの家の人に彼を病院まで車で乗せて行ってほしいと頼み込んだ。
2人に断られたが、3人目でこれからちょうど病院に行くという人に会うことができた。僕は男性を車の後部座席に横たわらせるところまで手伝った。
朦朧とする意識の中、男性は最後にありがとうとお礼を述べていた。
僕はその言葉をぎゅっと握りしめて、今度こそホテルへの道を走り始めた。
黒煙がすさまじい勢いで吹きあがっていた。一体何がこんなに燃えているのだろうと不思議に思うほどで、20階建てのホテルは遠くから見ると空へ延びる真っ黒な柱と化していた。
ホテルの下では消防車が数台消火活動にあたっていて、傍らには警察や救急隊員が詰めかけていた。規制線が貼られて一般人はあまり近づけないようになっていたが、あんな状況に進んで近づこうとする人はそもそもいなかった。
中に人が取り残されているらしいと、誰かが言うのが聞こえた。
小さな爆発音がいくつか鳴って、黒煙の向こうにオレンジ色の炎がちらちらと顔をのぞかせた。地下から出火した炎は、建物の上へ火の手を伸ばしていた。巨大な黒い蛇が、ホテルごと飲み込もうとしているみたいだった。
僕はもう一度携帯を取り出して青山に電話をかけた。やはりコール音が鳴り続けるだけで応答はなかった。
黒煙の隙間を縫って助け出された人が運ばれていった。煙を吸い込んだせいかまともに立って歩くことができない人が4人ほど担架に乗せられて運ばれていった。その中には幼い子供の顔もあった。
ホテルの係員らしき人が人だかりの中にいるのを見つけた僕は、そのうちの一人に声をかけた。若い女性でホテルの制服を着ていた。
「あの、すみません。中にはまだ人がいるんですか?」
「さあ、私は2階にいてすぐに外に出たから分からないわ。でも18階のラウンジで働いている人の姿が見えないの、だからまだ取り残されている可能性は高いかも」女性は疲れ切っていた。制服は煤に汚れてしまっていたが、見たところ目立ったけがはなさそうだった。僕は女性にお礼を言ってその場を離れた。
確か青山がいつも行っていたレストランも18階にあったはずだった。
眺めが良いことだけが自慢だと以前あいつが言っていたことを思い出した。
火の勢いは激しく低層階はほとんどすべてが火と煙に包まれていた。
中層から上も煙の影響で地上からは何も見えなかった。助けを求める人の姿すら見えなかった。
僕はホテルの隣のビルに向かった。隣のビルも古い雑居ビルだったが、ホテルとは距離があったためこちらに燃え移る心配はなかった。僕は階段を駆け上って屋上へ出た。屋上への扉は鍵がかかっていたが、思い切り引っ張ったらドアごと外れた。風向きが変わったせいでこちらのビルに煙が流れてきていた。視界が悪かったが、どうやら高さ的にはホテルの10階ぐらいの高さだった。地上では消防車と消防隊員が消化にあたっていた。誰も僕には気づいていないようだった。ホテル側とは反対側の端まで行って機会をうかがった。風向きが変わったら思い切り走って、目についた窓から中へ飛び込む算段を立てた。ちょうど正面に大きめの窓が見えた。それ以外にあのホテルへ入るルートは今のところ見つからなかった。下から堂々と入ったら消防士や警察の人に止められるのは自明の理だった。
黒煙が晴れて視界が確保できたのを見計らって僕は思い切り走り出した。助走に使えるのは15メートル程度だったから、思いっきり走った。
一瞬壁に激突したらどうしようかと思ったが、その時は壁ごと突き破ってやろうと思った。
ビルからホテルまでは距離にして20メートルぐらい離れていた。
僕はなんとか壁に激突することなく、窓ガラスを突き破って中に入った。
中層階のそれなりに良い部屋だろうか、明らかに高級そうなベッドが二つならんだ客室だった。今日は誰にも使われていなかったみたいでよく整理されていた。下層からの煙がドアの隙間から入ってきているせいか、室内は少し曇って見えたし、焦げ臭いにおいが漂ってきていた。
僕はオートロックの部屋をけり破って廊下へ出た。廊下は既に煙で満たされていた。僕は姿勢を低くして階段へ向かった。
途中、逃げ遅れた人はいないかと大声で呼びかけたが何の反応もなかった。
階段は比較的煙が来ておらず、僕は急いで駆け上がった。一つフロアを上がるごとに呼びかけたが、返事はなかった。僕は心の中でどうかみんなが逃げ切れていることを祈りながら急いで上層階へ向かった。
15階ぐらいまで登ってくると煙の逃げ場所がなく、視界が悪くなってきた。さすがに煙をあまり吸いたくはなかったため、ランドリールームでタオルを拝借し、顔の下半分を覆うように結んだ。ないよりはましだと思った。
18階にたどり着くころには僕は汗だくになっていた。煙も結構吸い込んでいたから頭が痛く、酸欠状態に近かった。防火扉が閉じられていたから18階に入ることができなかった。階段にうずくまって回復するのを待った。無謀だったかもしれないと、そう思い始めたときポケットの中の携帯に着信があった。青山からだった。
「もしもし」僕は息を切らしながら電話に出た。
「悪いな、ようやくつながったわ」
「今どこにいる?」
「例のホテルさ。18階に閉じ込められてる」
青山はいつもと同じ調子で言った。僕は立ち上がって防火扉に近づいた。
「お前こそ何してんだ、息が荒いぞ」青山が言った。
「その18階の防火扉の外側に僕はいる」
僕がそう言うと、防火扉をゴンゴンと2回叩く音が聞こえた。
「そうみたいだな」音の主は青山だった。
「これ、開けられないのか」
「誤作動を起こしたみたいだ。閉めることはできたけど開けることができなくてここに20人ぐらい閉じ込められてる」
20人…。さすがにその数を助け出すのは骨が折れそうだった。
「僕が開ける」
「無茶だ、かなり重たい鉄製だからさすがにお前でも壊せないぞ」
「近くに人はいるか?」
「いや、ここには俺だけさ」
「なるべく扉から離れてくれ」
僕はそう言って少し離れたところに通話中の電話を置いた。
取っ手を握って強く引っ張ってみても外れそうな気配はなかった。
拳を傷めないよう、口元を覆っていたタオルを右手に巻いた。
そして何も考えずに本気で防火扉を殴った。
轟音があたりに響き渡ったが防火扉は吹き飛ばなかった。それでも大きなへこみができた。僕はそのへこみに向かって再度大きく息を吐いてから思い切り殴った。3発目で扉を根元から吹き飛ばした。埃が舞って視界が悪くなった。もはや火災の煙なのか埃なのか見分けがつかなかった。
中に入ると扉から3メートルぐらい横に青山がいた。
「マジかよ…」青山は口を開けたまま僕を見ていた。
38階には3店舗の店が入っていて、1つはラウンジ、もう2つはレストランだった。いずれもホテル開業当時からこのフロアで営業をしていた店だったから、それなりの人が食事を楽しんでいたらしい。各店には老若男女多数の人が心配そうな顔をしながら助けを待っていた。
「どうやってここまで来たんだ。下は火の海だろ?」
「火の海っていうか煙の海だな。隣のビルから飛んで窓を割って中に入った」
「そりゃお前にしかできない入り方だ」
僕らはここからどうやって出るかの作戦をたてることにした。
このまま下に向かっても煙に巻かれてしまうのがオチだった。
「防火扉を破壊してしまったのはまずかったかな」僕は言った。救助を待つ間煙の侵入を防ぐものがなくなってしまった。
「いや、遅かれ早かれさ。あんな防火扉、隙間から煙が入ってきて1時間後にはみんなあの世行きだったぞ」
火の元を完全に断つか、全員を避難させる以外は道はなかった。
「お前、10階から入ったって言ったか?」青山は何か考えているようだった。
「ああ」
「なら、10階はまだ火がきてなかったってことか」
「ああ、でも火が出たのが3階部分らしいから煙はもうだいぶ来てたぞ」
「ここにいたらどうせ全員死ぬ」青山は何かを思いついたみたいだった。
「親父に言ってはしご車を手配させる。10階までなら届くはずだ。今は風が南から吹いているから、このままならいける」
青山は僕が到着するまでの間考えていた作戦を口にした。しかしこの作戦にはどうしても僕の力が必要だったらしかった。
「まず煙があがっていない面にはしご車を伸ばしてもらわなくちゃならない。そうなったら客室のドアを開けなくちゃいけないだろ?」
なるほど、と僕は思った。
「それに窓も割らなくちゃいけないしな」僕が答えると青山は笑った。
レストランの奥のテーブルに青山一家は座っていた。お母さんには会ったことがあったが、お父さんに会うのは初めてだった。僕は少し離れたところから様子を見ることにした。
「親父、電話がつながるようになってる。はしご車を煙の上がっていない面の10階に手配してくれ」青山の言葉にお父さんの目が鋭くとがった。
「お前に指図される謂れはないな」重く冷たい言葉だった。
「じゃあどうする?このまま全員ここで死ぬか?」青山が食い下がった。
「考えている。ここには一般のお客さんもいる。危険に遭遇させて取り返しのつかないことになったらお前はどう責任をとる?」
「時間がないんだ。もう煙がそこまで来てる。このまま何もしなかったら本当に全員死ぬぞ」
「消防も救急も出動している。我々が動いてはかえって彼らの迷惑になりかねん。そんなことも分からんか」
言葉を荒げる青山に、お父さんの声も大きくなった。
レストラン中の人がその様子を見守っていた。
「普段の行いのせいで親父が俺の言葉を信用できないのはわかるけどな、今は人の命がかかってる。助けられるかもしれない人が死んでいくのを黙って
見てるために政治家になったのかよ」青山の手が震えていた。
お母さんが不安と心配が織り交ざったような顔で二人をみていたが、今はどうすることもできずにいるみたいだった。周りの人間も止めるに止められないといった様子でただただ二人の言い合いを眺めるばかりだった。
「青山くんの作戦は、実に理にかなっています」
僕は二人の間に割って入った。
青山の驚いた顔とは反対にお父さんは不審人物を見る視線を僕にぶつけた。
「誰だね君は」
「青山君の友人の倉田です。たまたま、今日はここに来ていてさっき会いました」
「ふん、こいつに友人なぞいたのか」
「はしご車を10階につけてもらえればそこから避難ができます。煙の方向は風で流れていて今は南向きになっています。急げば全員助かります」
お父さんは僕と青山の顔を交互に見据えた。
「若者の声に耳を傾けるのも政治家の務めじゃないの?」
お母さんが助け舟を出してくれた。
お父さんは小さくため息をついた。
「お前のお友達に免じてその態度は許してやる」
そう言うとお父さんはどこかへ電話をかけ始めた。
僕は先行して安全なルートを確保しに下の階へ降りた。余震が小刻みに何度もホテルを揺らした。階段は煙で視界が悪くなっているが、体制を低くすれば何とか行けそうだった。
青山とは電話を繋いだままにして、僕はハシゴ車をつけてもらう客室までの道に危険物や、取り残された人が他にいないかを見回った。
準備が完了したので、青山に合図を送りまずは半数の10人を10階まで下ろした。
消防の人たちがはしご車のバスケットに乗ってきてくれたおかげで誘導もスムーズだった。
上層階に比べて煙が更に視界を奪った。
どうやってドアを破壊したのか消防の人が若干怪しんでいたが僕はそれについては無視した。
青山もそうするのが正しいと思っていたみたいで特に何も言わなかった。
はしご車のかごは4人乗りだったから3往復する必要があった。途中風が強く吹いてはしごが大きく揺れた。悲鳴が上がったが、持ち堪えたはしごに乗せられて最初の4人が避難できた。
僕は残りの人の避難を消防の人たちに任せて、他の人たちを誘導するために上の階へ戻った。
残りの10人が10階まで辿り着く頃には、はじめに誘導した10人の避難は終わっていた。
残る10人のうち、最初の4人が降りた。あと6人、この調子ならなんとか上手くいきそうだと思った矢先、風向きが変わった。
はしご車が黒煙に包まれてしまった。
僕はあわてて飛び出しそうになったが、青山に止められた。現状僕たちにできそうなことはただ見守ることだけだった。
青山のお父さんの携帯が鳴った。
下にいる警察の人からの電話みたいだった。
風向きが変わったせいで今の位置にもう一度はしごを伸ばすことはできない。それは当然だった。煙が開け放たれた窓の外から部屋の中に入ってきた。僕と青山は残された6人を連れて一旦その部屋から離れることにした。
「鎮火作業は進んでいるらしい。上の階に留まっていても助かるかもしれん」
青山のお父さんが電話を切りながら言った。
僕たちは1つ上のフロアである11階に上がった。
僕と青山は顔を見合わせた。老人や子供はいなかったが、女性もいるし、待っているだけで事態が好転するかなど、今や誰にもわからなかった。
僕は階段を使ってどこまで降りれるかを確認しに行った。
10階を過ぎ、9階、8階と降るとどんどん煙の色が黒色に近づき、やがてすぐに視界が完全に暗幕に覆われたみたいに真っ黒になった。おまけに熱も感じられるようになっていた。火は少しずつだが上へ上へとその舌を伸ばしながら這い上って来ていた。目と喉の奥、それから鼻に痛みを感じながら僕は手探りで上の階に戻った。
このままだと全員がやがて燻製にでもなってしまう。僕は青山のところに戻って、下はもうだめだと話した。
僕と青山はダメもとで今度は上に登った。屋上救助ヘリを待つことはできないかと考えていた。
屋上への扉は頑丈な鉄の扉で閉ざされていたけどさっきの防火扉よりは薄かったから、今度は1発で破壊することができた。
ドアを弾き飛ばした瞬間、逃げ場を与えられた煙がすごい勢いで外へと流れ出して行った。屋上には大型の空調の室外機や、見慣れない機械が並んでいた。風が強く、黒煙がすぐそばを勢いよく空へ向かって流れていった。
屋上から眺めるとやはり街の色々な所で火の手があがっているみたいだった。
僕と青山は屋上を見回したが、風が強過ぎてヘリでの救助は難しいと感じていた。
「ん、あれなんだ?」
青山が屋上の一角を指差して言った。近づいてみるとどうやら窓拭きなどに使われる昇降型のゴンドラのようだった。
これは使えるかもしれないと僕は思った。幸いゴンドラが設置してあるのは黒煙が上がっている面とは反対側だったから、このまま下に降りることができるのなら全員助かりそうだった。
「これ、どうやって操作するんだ?」
僕は風の音に負けないように大声で青山に尋ねた。
「そんなもん、俺が知るわけないだろ?」
あまりにも危険な賭けのような気がした。ただでさえ風が強いせで、はしご車なんかよりもよっぽど危険に思えた。大人しく救助を待つべきか、そう考えていたら青山が何か思いついたらしかった。
「そうだ!」
「どうした?」
「俺たちはついてる!松下さんがいる!」
僕は青山が何を言っているのか分からなかったが、急に走り出した青山に続いて階段を降りた。避難客が残る11階へ降りる途中、青山が言うには、残された6人の中にホテルの設備関係の責任者である松下さんという人物がいて、その人なら操作方法について知っているはずだということだった。
松下さんは青山のおとうさんたちよりずっと歳が上に見えた。まさか自分の務めるホテルでこんな目にあうとはという混乱を目に浮かべた、メガネをかけた男性だった。
「いや、危険です!」
松下さんは僕たちの作戦を開口一番ばっさりと切り捨てた。
ゴンドラはそもそも窓拭きように設置されていて、大人数が乗るようにはできていないし、この強風だとワイヤーが絡まったり、多きく揺れたりしてとても危険らしかった。
それについては僕らも同意せざるを得なかった。だがこのままここにいたところで
助かるかどうか分からなかった。
「火の手が上がっている4階部分よりも下に行けさえすれば、そこからはホテルの中に入って自力で逃げられます。お願いします、松下さん。このままだと全員死んでしまう」青山が頭を下げた。僕もそれに続いた。
「ゴンドラは2人乗りです。操作する人を除けば1人しか乗ることができません。それでも良いんですか?」松下さんが訊いた。
僕と青山は頷いて、周囲の人に作戦を説明した。屋上のゴンドラで3階部分まで降りこと、そこまで行けば救急隊の人たちに助けてもらえること、風が強くかなり危険だと言うことを伝えた。
青山のお父さんは何か言いたげだったが状況を鑑みてもはや猶予はないと判断したのだろう。僕たちの作戦について文句はあれど、代替案を提示することはできずにいた。
僕たちは屋上への階段を登った。吸い込んだら火傷しそうな煙が、その色を濃くしていた。なるべく体制を低くしながら、僕たちは階段を登った。
松下さんは19階の奥の部屋に行って、命綱等の装備を身につけて戻って来た。
時間はあまり残されていなかった。松下さんは手早くゴンドラの様子を確認すると大丈夫そうだと合図をした。
乗降部分を降ろし、まずは青山のお母さんを下へ降ろすことになった。3階に待機していた救急隊員に青山のお父さんが電話をして窓ガラスを外しておいてくれた。
風が強く吹いていたが、松下さんはこれぐらいななんとかと言ってくれた。
松下さんと青山のお母さんははゴンドラに乗り込んだ。
ゴンドラの中に操作盤があり、松下さんはそれを操作した。強風の隙間を縫って
2人は下層へと降りて行った。僕と青山は身を乗り出してその様子を上からじっと見つめていた。
少しずつゴンドラは小さく、遠くなって行った。時々風が強く吹いて揺れてはいたが、真っ直ぐ着実に降りて行った。
やがて3階部分に到達すると、青山のお母さんが中へ入るのが見えた。
その後は残りのホテルの支配人である男性と、青山のお父さんが続いた。
屋上に残っているのは僕と青山と、松下さんだけになった。
僕はまず青山を先に行かせた。僕なら最悪1人でもなんとかなるからだった。
2人を乗せたゴンドラを僕は先ほどの数人同様見送った。屋上はさっきよりも風が強くなって来ていた。ホテルの階段に続くドアからは先ほどまでは灰色がかった煙が上がっていたが、今ではすっかりドス黒い煙に変わっていた。
2人の乗ったゴンドラが3階部分に到着し、青山が降りるのを見た。僕はほっとした。火はホテル全体を中から焼いていた。僕は松下さんを待つ間、遠くで同じように煙を上げる街を見回した。あの一つ一つに助けを待っている人がいるかもしれない。自分にできることを考えていた。今すぐにでもあの煙に向かって飛んで行きたかった。
その時、携帯が鳴った。青山からだった。
「どうした?」僕は電話に出て言った。
「悪いニュースだ。ゴンドラが誤作動を起こした」青山が答えた。
「ここへはもう来れないということか?」
「ああ、多分電装系のトラブルらしくてすぐには直せない。そこから飛び降りれるか?」
「分からない。でもなんとか脱出してみせる」
僕は通話を切った。屋上から飛ぶことは不可能ではなかったが、多くの人がこのホテルに注目しているなかで飛ぶのはかなりリスキーな行為だと僕は思った。
そして何より、先ほど避難した人たちが僕のことを気にするはずだった。
僕は使えるものがないか18階へと戻った。階段の煙の中をなんとかくぐり抜けながら戻った18階はほとんど視界がなかった。僕は口元をタオルで押さえてあたりを見回した。バックヤードの方へ続く道があった。
そこから裏に回ると、ゴミを投下するダストシュートを見つけた。これで下まで行けるだろうか。だが、中がどうなっているのか全く分からなかった。下手をすれば蒸し焼きにされる可能性すらあった。
僕は青山に電話をかけた。
「松下さんは近くにいるか?」
電話に出た青山に尋ねた。
「いるぞ。どうした?」
「18階のダストシュートはどこに通じているか訊いてくれ」
「わかった、待ってろ」
受話器の向こうで青山が何か喋っているのが断片的に聞こえてきていた。
「地下のゴミ集積所に真っ直ぐ通じてるらしいけど…」
「わかった。あとで会おう」
僕は電話を切ってポケットに携帯をしまった。
ダストシュートの扉を手前に開けた。煙が中から溢れ出ていたが、勢いはそれほど強くなかった。僕は思い切り息を吸ってその中に飛び込んだ。

ダストシュートの行き止まりまで滑り落ちたが、扉が閉められていたので僕は蹴飛ばして開けた。視界が開けて、蛍光灯の鈍い灯りが目に飛び込んだ。
ゴミの匂いと、煤の匂い、カビか何かのよく分からない匂いが混じりあっていた。
すぐに青山がやって来た。ゴミまみれにもかかわらず、青山は僕に手を差し伸べてくれてた。
外に出ると、大勢の人が集まっていた。救急隊や消防の人が消火活動を続けていたがあまり効果はあがらず、支配人と松下さんが肩を並べてただその様子を眺めていた。
「うまくいったな」
後ろから声がして振り返ると青山のお父さんとお母さんが立っていた。
「ああ、みんなのおかげだよ」
青山が答えた。
「危険なことをしたということには変わりないが、子供の言うことを聞くのも親の務めだ」青山のお父さんが言った。僕はこの人のことが少しだけ好きになってきていた。素直じゃないだけなのだ。
青山は両親と共に家に帰って行った。お父さんの方はこれから市役所へ向かわなければいけないと言っていた。あんな目にあってもすぐ働かなければいけないことに僕は驚いていたが、そういう世界なのだと思った。
「また連絡する。とにかくお前が来てくれて助かった」
青山は車の後部座席の窓を開けてそう言った。お母さんが小さく会釈をしてくれた。どこまでも丁寧な人だった。
僕も帰ることにした。今頃母が心配している頃だった。
家までの道すがら、困っていそうな人の手助けをしていたから家に着くころには完全に日が暮れてしまっていた。
電気は復旧していたが、水がまだ断水していたし、ガスも安全装置が作動していて使えなかった。
母は僕を見据えるとこんな時間までどこをほっつき歩いていたと叱ると同時に、着衣の煤汚れを見て無事でよかったと安堵したみたいだった。
カップラーメンを夕食にして、辛うじて残っていた風呂の水で体を拭いた。電話が通じるようになってから、姉貴から母に電話があったららしく、姉貴は無事みたいだった。僕は疲れていたので、人助けの続きは明日また再開することにして、早めに眠ることにした。
テレビではホテル火災のことが大々的に取り上げられていたが、僕のことは特に触れられていないようだった。
自分の部屋に戻ると、丸の内がいた。
とても自然に、ともすれば不自然にベッドの縁に腰をかけて、部屋に入った僕の顔を見ていた。
「遅かったね」
丸の内が言った。僕は言葉が出なかった。5年振りに会ったのに、昨日のまま時間が止まっているみたいだった。
「外へ行こう」僕は丸の内を連れて外へ出た。
電気が復旧してはいたが、街の中はいつも以上に暗く見えた。
少し歩いた所に公園があったから、僕は丸の内を連れて公園のベンチに座った。
「大変な時に来てしまったかな」
丸の内が言った。
「今すぐ僕の体を元に戻せ」隣に座った丸の内の顔を見ずに僕は言った。
「すまないがそれはできない」
「なぜだ」
「君に打ち込んだ薬品はもう君の遺伝子情報と紐づいている。分離することは我々の技術をもってしても不可能だ」
公園には僕ら以外には誰もいなかった。改めて丸の内の顔を見た。
男か女か分からない中世的な顔立ちに、明るい金髪、服装は地球によくあるナイロンのパーカーをTシャツの上に羽織っていて、下は黒のジョガーパンツを履いていた。どこからどう見ても地球人にしか見えなかった。
「どうして今さらやってきた?」
「たまたまだよ、別に意味なんてない。3年ぐらい前までは君を観察していたけどあんまり面白くないから観察はやめたんだ。で、久しぶりに近くまで来たから地球に寄ってみたら君がちょっと面白いことをしていた」
「面白いことだって?」
「力を使いこなしている。過去の例を見ても君は面白いタイプだ。その力を与えた生き物は基本的にその力を振り翳してきた。良い意味でも悪い意味でもね。だが君はひたすらに臆病だった」
「急にこんな力を与えられてまともでいられる奴なんかない!」
こいつを殴ってやろうかと思った。僕がどんな思い出この5年を過ごして来たかを少しでも分からせてやりたかった。
僕はそれでも自分の怒りを抑えた。丸の内に当たっても何も変わらないことは十分理解していた。
「確かに君の言う通り、その力は必要のない者にとっては毒でしかないが、それでも人類のレベルを飛躍的に上げることのできるものだ。それは素晴らしいものだと思わないか?」
「心の底からどうでもいいよ。僕は人類のことなんて気にしない。けどまあ手の届く範囲の人助けができるのなら、この力を使うのは悪くないかもしれないと、そう思うけど」
「けど?」
「今日だって、火事の現場を救ったのは実際青山のアイデアだった。僕ひとりだけじゃどうしようもなかった」
「君はまだその力の100分の1も引き出せていないのさ」
例えそうだとしても僕は残りの99を振るいたいなんて気持ちはこれっぽっちもなかった。
「人助けも、良いことばっかりじゃない」僕は立ち上がってブランコに向かった。
丸の内はそれについてきた。ブランコに乗るなんて数年ぶりだった。
「自分がやるべきことだと思ったことが人に感謝されるとは限らない。行動と結果が、自分の想像した通りにいくわけじゃないことを僕は思い知った」
僕が頭の中に浮かべていたのは祥子さんと教授のことだった。
丸の内はだまってそばに立ったまま僕の話を聞いていた。
「父さんみたいな人がこの力を持つべきだったんだ」
「我々の技術でも死者を蘇らせることはできない」
「ああ、そうだろうね」
ブランコを勢いよく立ち漕ぎして僕はジャンプした。10メートルほど先に着地した。ブランコが鎖ごと音を立てて揺れていた。
「過去へ戻ることならできるがね」
丸の内が言った。
「なんだって?」
「過去へ戻って、歴史を書き換えることはできるよ」
「何で今まで黙ってた?」
「訊かれなかったからさ」
僕はため息をついた。
「じゃあ、たとえば過去に戻って父さんが死なないようにすることができたら」
「まあ、歴史が変わるね」
丸の内はさも当たり前のように言った。地球の常識と宇宙の常識とは僕が思っているよりもずっと大きな隔たりがあるみたいだった。

時間を超えることはそれほど難しいことではないみたいだった。
ただし制限があり、24時間が経過すると強制的に元いた時代に戻されるらしい。これは時間というものがものすごいエネルギーを持っており、その時代に存在しなかった異物が混入すると弾き出されるということみたいだった。
丸の内の後について街外れまで行くと、宇宙船があった。小型のセスナ機ぐらいの大きさで、夜の闇の中でも薄く銀色に光り輝いていた。中に入るように促された。
中はぼんやりとした明かりが灯っていて、暗くも明るくもなかった。
丸の内が少し待てというので僕は手近なところに座った。宇宙船の内壁はほんのり暖かくて、柔らかいクッションみたいな材質だった。
「地球時間での5年前、場所はどこがいい?」
丸の内が何かを操作しながら尋ねた。
「場所はあの河原でいい。ただ日を一日前にしてくれ」
父は確かあの日、僕の誕生日の2日前のその前の日は1日中厄介な仕事をするために店にこもっていた。僕はその日も父と釣りに行く約束をしていたから、父が仕事で行けなくなったことが不満だったことを今でもなぜか覚えていた。
「了解、時間は適当に設定するからあとは上手くやりたまえ」
丸の内がそういうと、宇宙船は強烈な光に包まれた。
次の瞬間、目を開けると僕は河原に立っていた。
夏の日差しが肌を突き刺した。一気に汗ばむぐらいの熱気が体を包んだ。
僕は誰かに見られてはいないか辺りを確認したが、周りには誰もいないみたいだった。川の水は濁っていた。明日、つまり父が亡くなるその日、川の水は増水していた。その予兆がすでに川面に見られていた。
僕はすぐに河原の土手に上がって、父の店を目指し始めたが、まだここが5年前の世界だとは信じられなかった。そのぐらいあっさりとしたものだった。
丸の内の姿はどこにも見えなかった。
父の店までは河原から歩いて20分ほどで着いた。歩きがてらコンビニに入って僕は新聞の日付を確認した。日付は確かに5年前の僕の誕生日の3日前だった。
街はまだ陽が高いせいか、歩いている人は多くなく、ひっそりとしていた。
蝉の鳴き声が、どこまでも届きそうなぐらい大きく響いていた。
白くて巨大な雲が建物の間から見えた。遠くで雷の音がしていたけど、今は突き抜けるような青空が頭の上に広がっていた。
父の店の前まで来る頃には僕は上着を脱いでいたけど、下に着ていたのが長袖のTシャツだったから背中からは汗が滴っていた。
父の店はシャッターは上がっていて営業していた。広く取られた窓から店内が見渡せた。車道を挟んでレンガ調の歩道が伸びる通りだった。僕は反対側の歩道に立って、店の中を見た。店の奥に父の後ろ姿があった。
僕はすぐには店に入ることができなかった。父が数メートル先で、あの日の姿のまま、僕の記憶の中のままの姿でそこにいた。
陽がもう少し傾くまで待つことにした。
自転車に乗った子供達が数人僕の目の前を通り過ぎて行った。
どこへ向かうのか知らないがどの子も汗まみれになって必死になってペダルを漕ぎながら、何がそんなに楽しいんだというくらいに笑っていた。
真っ黒に日焼けした女子校生、皮の鞄を抱えた汗だくのサラリーマン、まだ暑いのに散歩に連れて来られた犬、何もかもが今の僕からは5年前に失われてしまった世界がそこにあった。
やがて陽が傾きはじめた。建物や道路標識、植え込みの影が伸びていくのを僕は黙ってみていた。額の汗が頬を伝って襟からTシャツの内側に垂れた。喉がカラカラに渇いていた。
頃合いを見計らって僕は店のドアを開けた。
木製の古く重たいドアの軋む音と、ドアに取り付けられた来客を知らせる鈴が混ざり合った音がした。
隙間からすでにエアコンの心地いい空気を感じていたから、中と外の温度差に少し体が震えた。
父は奥で作業をしているみたいで、僕が店に入ったことには気づいていなかった。
店の中には靴の修理用品やケア用品、父が実際に作業をした仕上がりの説明等、狭いながらも父の仕事ぶりがよくわかるものがいくつも並べられていた。
作られてから時間が経った店内チラシは日焼けしてたり所々セロテープで補修がされていたり、長い時間の経過を静かに伝えていた。
「いらっしゃい」
僕は壁のチラシを眺めていたから父がカウンターに戻っていたことに気が付かなかった。
父は僕が何かを伝えるのを待っているみたいだった。
「あの、修理をお願いしに来た訳じゃないんですけど、その、ここが懐かしくて」
「以前にお越しになられたことがありますか?」
「そう、ですね随分前に」
「そうですか…」
父は怪訝そうに僕を見た。
「失礼ですが、どなたか親御さんに連れられて来たとかでしょうか?」
「そうですね、姉と母と一緒に」
「そうですか、すみません、歳のせいか忘れっぽくなってしまっておりまして、よろしければお名前を頂戴してもよろしいですか?」
「あー、えっと、その…」
僕は言葉に詰まってしまった。
父を前にして、嘘をつくことも本当のことを言うことも躊躇ってしまった。
一から全てを説明しても信じてもらえる可能性の方がずっと低いし、嘘をついたとしてその先は袋小路であり、また堂々巡りでもあった。
「失礼ですが、何か私に用があったのでは?」
父が口を開いた。僕は驚いて父の方をぽかんとした顔で見つめた。
「いえ、息子によく似ているなあと思いましてね。言いたいことがあるのにはっきり言わずに肝心なところをいつまで経っても話さずに、もじもじしている。そういえば、君は私の息子に似ているな」
「似ている?」
「ええ、上手く説明は出来ませんが、似ています。なんというかこう、『感じ』が似ているんです」
父は話しながら店じまいを始めた。
「あの、実はそうなんです。僕はあなたに用があって来ました。懐かしいと言ったのも嘘ではありません。でも、普通の人が抱く懐かしさとはちょっと違うんです」
父は黙々と片付けをしながら僕の話に相槌を打っていた。
「店を閉めた後で、少し話せますか?」
僕は正直に話した。
父は手を止めて僕を見た。その目は相手が何を求めているのかを見定めるような視線だった。
「時間はとらせません。大切な話なんです」
父はじっと僕の目を見つめた。
「店を出て左に行くと、肉屋があります。その横に自販機とベンチがあるからそこで待っていてください。10分ほどで向かいます」
父はそう言うとまた手慣れた手つきで片付けを再開した。
僕は頷いて店を出て左へ向かった。
辺りは薄暗くなってきていたが、まだ夜に色はついていなかった。
少し行くと肉屋があった。3年後にここは潰れてコンビニになる。
その景色も僕はたまらなく懐かしくなったし、胸の奥がぎゅーっと締め付けらた。今はもう失われてしまったものだ。
自販機には小型の虫が灯りに群がっていた。
僕はベンチに座った。古い錆びついた鉄製ベンチで、塗装が剥げてボロボロになっていた。
カラスが数羽、同じ方向へ飛んでいった。
人通りは少なかった。
父がほとんど10分後に自転車を引きながら現れた。
その自転車は父が死んだ後も、母が乗っていたが、2年後に駅で盗まれた。母曰く鍵をかけていたかかけ忘れたから覚えていないみたいだった。防犯登録はしていたけど、未だに見つかったと言う連絡はなかった。
外で見る父は少しくたびれていた。
夏の盛りだったからか、少し疲れて見えたし、夕暮れの中だと堀の深い顔に影が落ちて、岩山みたいだと僕は思った。
一番驚いたのは、父が思いの外背が低かったことだ。5年前は僕が見上げていたのに今では頭1つ分、僕の方が大きかった。
帰り道がてら河原を歩きながら話をすることにした。
「それで、話というのは」父が切り出した。
「その、信じられないかもしれませんが時間もあまりないので単刀直入に言います。あなたは明日、亡くなります」
僕は歩くのを止めた。父は数歩先を行ってから立ち止まって振り返った。
「亡くなる?」
「はい」
「それは、死ぬということかい?」
「そうです」
川原でキャッチボールをする親子が目に入った。子供の投げたボールが父親の頭上高く超えていった。慌てて父親はボールを追いかける羽目になっていた。
「そうですか」そう言うと父はまたすたすたと歩き始めた。
すっかり古くなった自転車が時々骨組みを軋ませる音がした。
「そうですかって、死ぬって言ってるんですよ!」
僕は父を追いかけて食い下がった。
例え信じてもらえなくても伝えなければならない。そのために来たんだ。
「君は私が明日死ぬことをどうして知っているんだね?」
「僕は、未来から来ました。5年後からです。あなたの息子です」深呼吸をして僕は一気に捲し立てた。
父はまた、店でしたようにじっと僕の目の中を覗き込んだ。まるで嘘か本当かを判断できると言わんばかりに、その視線は僕の心の奥の奥まで見透かしてるみたいだった。
「ひとつ、問題を出します。これに答えることができたら君をの話をそっくり信じます」
「わかりました」
「去年の夏、私と息子は2人で山登りに出かけた。その山で私が母さんと姉さんには秘密だぞと言ったことがあった。その内容は?」
「高山病にかかった父さんを助けてくれたお兄さんに、山小屋でアイスを奢ったことと、その口封じに僕にもアイスを買ってくれたこと」
その日は今日みたいによく晴れていた。僕と父さんは地元から電車で行けるところにある低山に2人で登山に行った。母は用事があったし、姉貴はもうその頃には家族で出かけることに対して興味を失ってしまっていた。
父は常に家では威厳を保ちたがる人だった。だから、低山で高山病にかかって頭が痛くてふらふらになったことを吹聴されることを嫌がり、僕を買収した。助けてくれたお兄さんは、たまたま通りがかった人で、余分な酸素ボンベをひとつ分けてくれた。おまけに頭痛薬までくれたから、父は何度もお礼を言っていた。
おかげで登頂ができた僕たちは山頂付近の山小屋でそのお兄さんにまた会うことができ、一緒にアイスを食べた。僕はその時食べたアイスが今まで生きて来て一番美味しかった。ちなみに僕は高山病にはかからなかった。
この話は僕と父の秘密だった。母や姉貴、それ以外の誰にも話したことがなかった。
「そうか、信じるしかないみたいだな」
父さんは遠くを見つめながら小さくため息をついた。
「明日、僕が釣りに行こうって言うから、絶対に行かないで」
「そこで何が起こる?」
僕は一瞬明日何が起きるのか伝えることを躊躇ったが、それでも全部話すことにした。
溺れた人を助けようとしたこと、それが実は助ける必要のない宇宙人だったこと、そしてその後僕の身に起こったこと。
非現実的な力を身につけて、人を助けたこと。その力を持て余していること。
父さんが亡くなってから、今日までのことをかいつまんで説明した。
僕らはどちらからともなく、河川敷の草の上に座って、川を見ながら話していた。
太陽が大きさを増してビルの向こうに沈んで行こうとしていた。
「そうか」
父さんは一通り話を聞くとそれだけ言った。
「僕は、ただただ父さんに生きていてほしい。母さんや姉貴もそう思ってる。僕たちの時計は父さんが死んだ日で止まったままなんだよ」
「お前の話はわかった」
父さんは声に力を込めて言った。
「お前の話は、痛いほどわかった。だが生き方を変えることは難しい」
父が何を言っているのか僕にはよく分からなかった。
「俺も明日死ぬなんて言われたことが初めてだからなんと言っていいかわからん。だが、人には自分の役割があると、俺は思う」
「役割?」
「ああ、仮に明日死ぬことが決められていたとしてもそれが俺に与えられた役割なら、甘んじてそれを受け入れることもまた正しいことなんじゃないかとも思う」
「死なずに済むのに死ぬって言うの?家族がこんなに辛い思いをしているのに?」
「それについては、申し訳なく思う。だが俺は、少なくとも自分が正しいと思うことをして生きて来た。それは明日死ぬとしても変わらない」
僕は父の顔を横から見ていた。父の表情からは感情が読み取れなかった。
川面を夕陽が照らしてキラキラと反射光っていた。
「それに、もし俺が助かってしまったらお前に助けられた人たちはどうなる?」
「そんなの、僕には分からないよ。たまたま僕がその場にいたってだけで、もしかしたら他の人に助けてもらえる可能性だってある」
「でもそうじゃなかったら?お前しかもし助けられる人がいなかったら?」
「そんなもしもの話しても仕方ないだろ!」
僕は声を荒げた。
「そうだ、もしもとかたらればの話なんてしても意味がないんだ、だから父さんが明日死ななくても運命が変わるとは限らない。死ぬのが1日延びるだけかもしれない。もっとひどい未来が待っているかもしれない。それは誰にも分からないんだ。俺にも、お前にも」
父さんが言うことももっともだった。仮に明日助かっても、その先がどうなるのかなんて分からなかった。
「それに、俺が死ぬたびにお前が戻ってきて運命を変えるなんて、そんなことは許されることじゃない」父さんは自分の運命を受け入れていた。
と言うより運命なんてどこ吹く風といった面持ちだった。
「僕は、ただ父さんともっと一緒にいたかっただけだよ」
夕闇が深くなってきた。とんぼが川の方へとふらふら飛んでいくのが見えた。僕は黙っていた。父さんが言う役割について考えていた。
どうしてか分からないがそのとき杉原老人のことを思い出した。
「それについては、すまん。母さんにも夏美にも、悪いと思う。俺がいなくなったことで辛い思いをさせたんだろうな」
「姉貴は好きに生きているよ」
「あいつは俺に似たからな。自分の力で生きていける子だ。それでも父親として俺はあいつにしてあげられたことがほとんどなかった。それは申し訳なく思っている」
「説得してももう気持ちは変わらない?」僕は草をちぎって風に乗せて飛ばした。いくらか風が涼しくはなって来ていたが、それでも纏わりつくような熱気が残っていた。
「ああ、今更生き方は変えない。いつか別れは訪れる。遅いか早いかだ。
俺は俺が思うまま、正しいと思うままに生きた、ただ」
父さんはそこで言葉を区切って立ち上がった。
「お前たちの成長を見られなかったことだけが悔しい」
明かりがもうほとんどなかった。父さんは泣いているように見えた。僕はそれについては何も言わなかった。
僕と父さんはすっかり暗くなった道を並んで家まで歩いた。歩き慣れている道が、全然知らない場所に思えた。歩きながら父さんと色んな思い出を話した。山の方に鱒釣りにでかけたこと、母さんに黙ってこっそりパフェを食べに行った日のこと、宿題を手伝ってもらったこと、その年の広島カープの戦績、海で僕が溺れたとき助けにきてくれたけどその時足が攣って父さんも溺れかけたこと、とにかく思い出せるだけの思い出をおもちゃ箱をひっくり返すみたいに話した。
20分ほどで、家に着いた。家には明かりが灯っていた。たぶん中には12歳の僕と母さん、14歳の姉貴がいるはずだった。
「じゃあ、ここで」僕は父さんが家に入るまで見送ることにした。
「変な気分だな、明日死ぬというのは」
「怖かったらやめてもいいんだよ」
そう言うと父さんは笑った。父さんの笑った顔をちゃんと見たのはいつ以来か思い出せなかった。
「お前の力についてだが」父さんはまじめな顔を取り戻して言った。
「危険なものだ。それに、お前にとっては迷惑極まりない力だと思う」
「うん」
「だが、お前なら正しく扱うことができると俺は思う。それについては何も心配していない」
「うん」
「この世界は、たくさんの理不尽なことや面倒なことで溢れている。大切なことほど複雑で厄介で面倒くさいことが多い」父は淡々と続けた。
「それでもこの世界は生きるに値したと、今では思う。母さんと出会えたこと、お前たちという子供をもてたこと、小さいながらも自分のしたい仕事ができたこと」
僕は涙を我慢するのをやめて、顔をぐしょぐしょにさせながら聞いていた。
泣かないと決めていたのに、できなかった。
「お前に会えてよかった。5年後の息子が会いに来てくれることなんて中々ないからな」
父さんが冗談を言ったから僕も笑った。
じゃあな、と言って父さんは家の中に入ろうとした。
「そうだ、父さん」
「ん?」
「誕生日プレゼント、ありがとう。カープの帽子、大事にとってあるよ」
父さんは世界一優しい顔で僕の方を見た。僕はその姿を目に焼き付けた。
「ハッピーバースデー、賢人。母さんと夏美のこと、頼んだぞ」
そう言って父さんは家の中に入った。僕はドアが閉まるその最後の瞬間まで見送った。

そのあとのことはあんまりよく覚えてなかった。
丸の内に元の5年後の世界に戻してもらって家に帰った。丸の内は何も言わなかった。多分、あいつは僕が過去へ行ったときには既にこういう結果が待っていることを分かっていたみたいだった。家に帰ってみると、地震の後片付けで疲れ切った母が出迎えてくれた。姉貴が帰って来てたけど、僕とは一言も言葉を交わさなかった。仲が悪いとかではないけど、姉弟というのはそういうものなのだきっと。
部屋の壁にかけられた広島カープの赤い帽子は、地震の揺れでも落ちることなくあの日のままそこにかけられたいた。僕はそれを手に取ってみて眺めた。小学校6年生にくれるにはぶかぶかすぎたその帽子は今では僕の頭にぴったりとおさまった。
今にして思えば、僕はあの日過去に戻ることでようやく父にさよならを言うことができたのだった。
それからの日々は、今となってはもう上手く思い出せない。
僕は今35歳になっていて、結婚して子供もいる。青山とはその後も数えきれないほど人助けをした。危ないことも何度も経験した。僕らは同じ東京の大学に進学して、高校の延長みたいなことをさらに4年間続けた。
青山はその後お父さんの後を継ぐような形で地元に戻り、政治の道に進んだ。お盆とお正月しか僕は実家に帰らないから、青山に会えるのは年に2回だったけど今でも僕たちは親友だ。その関係は変わらない。
今となっては力を使うことは日常生活ではほとんどない。僕はしがないサラリーマンをしていて、妻と子供を守ることで頭がいっぱいだから、人助けに身を投じる暇があまりなくなっている。それでも困っている人がいたら、それが自分の手が届くのであれば、手を差し伸べることを心がけている。父がそうしたように。僕は僕が正しいと思うことをしたい。
丸の内にはその後一度も会っていない。単純に地球に来てないだけなのか、僕から興味を失くしたのかは分からないけど、僕としてはどちらにせよ一向に構わなかった。
母はあれからずいぶん心も体も元気になったけど、時々寂しそうに父の仏壇の前に座って何時間も黙って遺影を眺めている時があった。
姉貴が実家に戻ってきたおかげで話し相手ができたことが功を奏したのか今ではもう、あまり長い時間父の遺影の前にたたずむことはなくなった。
そういえば、過去から戻ってきたあとで、母がこんなことを言っていた。
父が亡くなる前日、家に帰ってきて初めてお礼を言われたらしい。
一緒にいてくれてありがとう、と短く父が言ったらしく、母はそんなことは結婚する前からも言われたことがなかったと気味が悪かったみたいだけど、後になってみれば父は自分の死期を悟っていたのかもと、そう語っていた。
まぎれもなく僕との会話のあとだったから、そのことについては黙っていたけど僕はとても父らしいと思った。
父にちゃんとお別れを言えたことは僕にとっても大きくて、その後の自分の人生を受け入れる要因のひとつとなった。
世界を変えるほどの大きな力を持っていても、所詮その中身はひ弱な12歳の少年だった僕が、自分の運命を受け入れられるようになったのは、たぶん父とちゃんと話ができたからだった。
息子がもうすぐ12歳になる。息子は僕の子供時代とは違って野球に興味はない。けれどあの真っ赤な帽子をあげるのは悪くないと思った。
そしていつか川へ釣りにでも連れて行ってあげて、父の話をしてあげられたらと思う。正しいお別れの仕方を僕がどうやって覚えることができたかを。


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