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おかえりとただいま

時間は17時を少し回ったところ。
仙台発はやぶさ・こまちで東京へ向かう新幹線の中でこれを書いている。
西日が強くて、景色を見るために山がよく見える方の座席を取ったのに、結局ブラインドを下ろさなくちゃいけないことに乗ってから気が付いたが、思えば数日前東京から仙台へ向かう時にも全く同じことをやらかしていたことを思い出した。

久しぶりに実家に帰省した。去年の9月、コロナ騒ぎも地方に波及しかけていた頃に帰って以来だった。約1年(正確には10ヶ月程度だが)帰っていない間にも、実家の周辺は微妙な様変わりを繰り返しており、あったはずの家やスーパーが空き地になり、知らない道路が沿岸部を貫くように走っていた。川に新しい橋までかかっていたのは少し驚いた。

実家の自分の部屋はすっかり物置になり、辛うじて寝る場所を確保して、狭いながらも洗い立てのシーツと布団に横になったり、ユニットバスではない広い湯船に足を伸ばして浸かったり、母の料理を食べたり、犬と遊んだりすることができた。
文字通りありきたりで平穏な日常だが、これがやはり今最も得難い体験のひとつだろうと実感する。

さて、日本はオリンピックムードに浮かれず、少し疲れながらもメダルだなんだと一喜一憂する姿を見ているとこの国の人間はお祭りが好きなのだなと我ながら感心する。実際自分もオリンピックの開催については疑問は拭えないが、それでも一生懸命に己と向き合ってきたアスリートの姿というのは胸の奥に込み上げるものがある。
茶の間のテレビで色々な競技をこの短い間に見ていたが、スポーツに縁遠い自分が見てもそうなのだから、実際同じ競技をしている人からしたら色々な感情が織り混ざるものなのだろう。
それはまあどの分野でもそうだ。

どうしてこんなことをただダラダラと書こうかと思ったのかと言うと、時々こうして自分の思ったことをメモにとっておく癖が自分にはあり、それを自分の創作、音楽に転用することが多いからだ。
noteの存在は知っていたが、人に見せてどうのこうのというものでもないため、時折覗くことはあってもそれはあくまで読み手で、書き手の立場になることはないだろうと思っていた。
ところが最近になって、ある小説家のエッセイを読み、すっかりそれに感心した自分がいた。
それはその小説家が書いたブログを日本語に訳したものだったが、なんともこれがうまく説明がつかないのだがフィクションとノンフィクションの間というか、想像力を掻き立てる部分と、ものすごく身近な日常を驚くほど実直に、身近に記してあり、決して上からモノを言う訳ではないが、これなら自分にも出来そうだぞ、というかこれ俺が普段やってるやつじゃね?と思い至り始めてみたのだ。
だから、誰かに見てもらって意見を貰ったりとかはするつもりもないし、誰かのnoteに対して文句を言うつもりもない。
個人的なメモを、思わせぶりに広げているようなそんな程度だ。

新幹線はそろそろ福島の中程を過ぎた頃だろか。意外でもないが、スマホで文字を打つのは大変だ。

今自分の胸の中にある最も大きな感情は寂しさだ。それは、郷愁の思いもあれば、家族と過ごした時間からひとりの時間に戻る寂しさだったり、次いつ来られるのだろうという不安や、親が突然死んでしまったらどうしようとか、これで最後になったらどうしようとかいう漠然とした不安だったり色々な感情が混ざり合って出来ている。
そんなの当たり前だとも思うし、そう思える関係を作れていることに対して感謝はあるのだが、冷静に考えると不思議だ。
直線距離で言えば、大した距離ではない。
せいぜい500km程度か(もっと短いかもしれない)
そんなものだ。仙台までは東京からはやぶさに乗れば1時間半弱で着くし、来ようと思えば平日の仕事終わりに新幹線に飛び乗りさえすれば勝手に運ばれる。
帰ろうと思えばすぐに帰って来られるのである。

そもそも、なぜ「帰る」という表現を使うのだろうか。私はもう実家を出て数年になる。正確には大学進学で実家を出て、20代半ばに一旦実家に戻り、それからまた東京に出てきた。
トータルで考えると実家で過ごした時間と実家から離れた時間はもうあまり変わらないし、現状の生活の基盤は東京にある。
実家なのだから「帰る」という表現を使うのは当たり前なのかもしれないが、当たり前は当たり前じゃないし、そこに何か思考の余地がありそうな気がしてこうして書いている。

小休止。疲れた。
気づけば30分ぐらいこれを書いている。

いつか帰るところ、なんだかどこかで聞いたことのありそうな言葉だ。そんな意識からなのだろうか。
自分の魂が帰属する場所、しかしそれは場所に対してなのだろうか。
いや、おそらく違う。たぶん自分にとっては
家族がいる場所が実家なのだ。
母や父、兄がいるところが実家たり得るのだ。
もっと言うとおそらく親がいる場所だ。
仮にそう遠くない未来に実家が場所を移してアメリカに親が移住したとしよう。たぶんそこに対して自分は帰るという感覚を、すぐにではなくとも持つだろう。
ただいまとおかえりを言う相手がそこに存在する。そこに対して「帰る」という表現を使うのではないだろうか。

見切り発車で書き始めたせいで思考が鈍ってきたが、たぶん、なんとなくそういうことなんじゃないだろうか。
帰るって良いなあ自分は思うと同時に
行ってきますとおかえりってすごく良い言葉だなと思った。

時刻は17時48分。
太陽はまだ地平線よりも高いところで西日を撒き散らしている。
気づけば山並みの美しい景色ははるか後方に置き去りにして新幹線はぐんぐん進んでいた。
そんなことを考えながら、明日から始まる平日に頭を悩ませつつも、この平穏な日常に喜びと愛おしさを覚えずにはいられなかったひとりの人間の戯言をここに締めくくる。

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