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フェルメール展に行った話

鉛色の空が広がり、真冬に逆戻りしたような気温の中、上野の桜は既に葉桜へと変わっていた。4月になったばかりで季節はちょうど冬と春の間を行ったりきたりしていて、まだどっちつかずな歩調を辿りながらも、見事に咲いた桜はあっけなくその花びらを水溜りに浮かべていた。
そんな日曜日、私は上野にいた。フェルメールの絵画を見るためだ。

日曜日かつ、展示の最終日ということもあって人は多く感じたがそれでも当日券がすぐさま完売したり、コロナの影響で入場を制限されているせいかそこまでの混雑は感じられなかった。
むしろ上野動物園に並ぶ列の方が長く、小雨の中で順番待ちをする色とりどりの傘たちが、灰色の景色に咲いて揺れているのを眺めながら足早に私と連れは東京都美術館に滑り込んでいった。

館内は老若男女世代様々な人でひしめいていた。
音声案内の器具を受け取るために並んだり、コインロッカーに荷物を預けたり、鑑賞後だろうか、すっかり疲れて椅子に腰を下ろす人も多く見受けられた。

展覧会の内容自体は調べれば大体出てくるだろうから割愛するが、オランダのドレスデン国立古典美術館が所蔵する絵画が複数展示され、その中のひとつ、同館が所蔵するフェルメールの「窓辺で手紙を読む女」が目玉の展示だ。

オランダ人の写実的な絵画は確かに見事だった。当時の貴族たちの生活、画家の社会的地位が垣間見え、歴史や文化的背景を学べばより深くこれらの絵画を鑑賞することができるのだろうが、生憎私はそのような知識を持ち合わせていなかった。
ただ、ズブの素人の私が見ても明らかにそれらの絵画は忠実に現実をキャンバスに落とし込んでいることが感じられた。
特に光の当たり具合、ライティングに興味をそそられた。
おそらく専門的な解説がこういうものにはあるのだろうが、そういったものをひけらかす批評家になるつもりも私には毛頭ないため、こちらも割愛する。
ただひとつ述べるなら風景画は些か私には退屈に見えた。

多くの絵画の前には人だかりができており、みんな思い思いに鑑賞し、次の絵の前で立ち止まり、また次の絵画へと移っていく。
5歳ほどの小さな女の子を連れたお父さんらしき男性が、しきりにその子に絵を見せて説明を施していた。女の子はそんなお父さんの言葉をよそに
今目の前に掲げられた絵に一体何が描かれているのか、爪先立ちで覗き込んでいた。
薄暗い展示室に落ちた照明の灯りが、大きな影や小さな影を伸ばしていた。
すっかり慣れてしまったマスクをした人達の横顔や、頭越しに時代を空気ごと封じ込めたみたいな絵画を時間をかけて眺めた。
写真以上に写真のような絵画の中の人物たちは、その時を待っていたかのように
こちらを向いたり、あるいはこちらの世界からは見えない場所に視線を投げかけていた。
まるで冷凍保存されているかのように、本物よりも本物のようで、時間の経過すらも感じさせられないほど、それはそのまま切り取られてそこに置かれているかのようだった。

次第に一際大きな人だかりが目の前に現れた。フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」の絵画が飾られていた。
その手前には今回の展示で最も大々的に打ち出していた修復の模様が、映像とともに解説されていた。
絵画の修復とは気が遠くなりそうな作業と、緻密な計画の上に成り立っているものだった。
その手順はかなり原始的というかシンプルで、フェルメールの描いた絵画を文字通り削り落として、下に隠されていたキューピッドの画中画を蘇らせるというものだった。
自分がもしそんな大役を命ぜられたら、胃が痛くなりそうな日々を送ることになりそうだという想像と、おそらく今回修復に当たった人物はそんな苦悩よりも、歴史的な作業に携われたことへの喜びの方が大きいような顔をしていたのが印象的だった。

さて、この絵画というと確かに他の絵画とは明らかに内包する佇まいが違っていた。レンブラントたちが描いた当時の最高レベルの絵画の中でも、異質であり、その絵の周りだけ時間が止まってしまっているかのように静かだった。
それは私のような素人の目にも明らかだったが、どこがどう違うか説明してくれと言われたとしても上手く説明がつかないような、そんな異質さだった。
今回、展示にあたり我々鑑賞する人間は2パターンの窓辺で手紙を読む女の絵を見ることになる。
1つは何者かが画中画であるキューピッドの姿を隠したパターン。
もう1つは、汚れを落としたり、修復が施され、キューピッドの画中画を露にしたパターンである。
現在、この世界に存在する窓辺で手紙を読む女は後者の方である。
X線検査や途方もなく緻密な修正の結果、何者かが消したとされるキューピッドの画中画をその絵の中に復活させ、フェルメールが書いたとされる紛れもなく本物の窓辺で手紙を読む女が、今我々のこの世界には存在している。
そしてキューピッドが消されている方の窓辺で手紙を読む女は永遠に失われてしまった。

私としてはどちらも非常によく描かれた絵に思えた。当時の画家の興味深いところは(現代でもそうかもしれないが生憎私は頻繁に絵画鑑賞に出かけるタイプの人間ではないため、現代の絵画をあまり知らないためでもあるが)日常の何気ない風景を切り取ることに全神経を研ぎ澄ませているような気がしたことだ。
ドレスデン国立古典美術館所蔵の絵画を描いた画家たちは、市井の暮らしぶり、貴族の生活、そういった日常を切り取ることに長けていた。
とりわけ興味をそそったのは、歯医者での治療の様子や、鶏を売る女などの絵があったことだ。

果たして現代でそのようなシーンをわざわざ油彩を用いてキャンバスに起こす人間がどれほどいるのだらうか。0ではないかもしれないが、美術館に所蔵されるレベルの絵を描く人たちがそのようなシーンを題材に選ぶことが私としては非常に興味深かった。窓辺で手紙を読む女も、そんな日常の1シーンを切り取ったものだった。
画の中には一人の女性が手紙を読んでいる姿が描かれており、発色の良い黄色の衣服と内開きの窓から入る光源、そして私にとって印象的だったのは鮮やかな黄色で塗られたカーテンだ。
フェルメールの絵画はしばしば色について取り出されることが多い。
真珠の耳飾りの少女や、牛乳を注ぐ女に見られる鮮やかな青、それは普段我々が目にする青とは少し違っている、いわゆるフェルメールブルーが有名だ。黄色と言えばゴッホのゴッホイエローが有名だ。画家の名前がついた色はさすがの私も耳にしたことがあった。
今回フェルメールの窓辺で手紙を読む女を鑑賞した際に、私の胸に残ったのは紛れもなくこの黄色だった。構図の妙や専門的な視点から鑑賞すればもっと気にするべき部分はあるのだろうが、一瞬で私を魅了したのは何よりもその黄色の顔料だった。
陰影のはっきりとした絵画の中にその鮮やかすぎる黄色は、画中画のキューピッドよりも私の脳裏に焼きついた。
その理由は全くもって定かではなかった。理由がない、というのが最も大きな理由であるような気さえした。

そんなことを考えていたら、
件の絵画の複製画を眺めながら私の連れが、これは本当にそもそもフェルメールが描いたものだったのかという話を私に耳打ちしてきた。
当時、この作品はレンブラントのものだと言われて発表されていたらしい。
さまざまな時代背景から「そういうこと」にされ、そして後年になって
フェルメールの作品ということが広く世に知らしめられたそうだ。
他の画家たちが描いた窓辺で手紙を読む女の複製画もその近辺に飾られていたが、
やはりフェルメールの描いたものとは異なっており、
正直言ってその足元にも及んでいないようなものばかりだった。

私の連れが言うには、そもそもこのフェルメールが描いた窓辺で手紙を読む女も
誰か描いたものの複製で、大元を描いたのは誰か別にいるのではないかという話だった。
これを読んでいる人や、絵画をかじったことのある人なら、いやそんなバカなことがあるわけがないと思うかもしれないが、
彼女がそう言った瞬間に私も全く同じことを考えていた。その理由もまた、先述の黄色に魅了された件と同様、上手く説明をつけることができないのだが、
もしも本当にそうだとしたら、一体誰がその大元なるものを描き、
なんのために当時の最先端の画家たちがこぞってそれを真似たのか、些か気になるところではあるが、あくまで我々の愉快な妄想に留めておくべきだろう。
(いや、だが本当に私はそう思ったし、なんだかこれをテーマにお話しがひとつ書けそうだなと思ったのはまた別の話だ)

そんな風に時間は過ぎて行った。
美術館を出る頃、再び雨足が強くなっていた。
それでも上野には多くの人が傘をさしながら、今まさに散りゆこうとしている桜を眺めたり、どこかは向かったりとひしめいていた。
窓辺で手紙を読む女はその頃今もまだあの場所で手紙を読んでいるのだろう。
そしてまたオランダのドレスデン国立美術館に戻り、そこでも同じように手紙を読み続けるのだろう。
これからもずっと。


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