【短編小説】輪っか

朝起きたら外は冷たい雨が降っていた。窓ガラスの内側には結露した無数の水滴が姿を表し、外気温と室内の温度差を、時に雫を垂らしながら訴えていた。
作業机代わりのダイニングテーブルの上には昨日飲んだハイボールの空き缶が2缶、中央付近から凹ませられて無作為に転がり、中身が3分の1程残った1缶は、虚空へとその口を向けたままPCのキーボードの横に静かに佇んでいた。
とにかく静かな朝だったから、目を覚ました時一瞬ここがどこだか上手く判別がつかなかった。自分の部屋なのに、自分の部屋ではないような感覚に襲われた。よくある二日酔いに近い感覚だった。
部屋の中のあらゆるものが息を潜め、まるでここにあるはずのない何かを、いるはずのない誰かをじっと観察するかのように、耳を塞ぎたくなるぐらい静寂が満ちていた。
時計は朝7時を少し回ったところで、意味もなく時計をじっと睨みつけたのは昨晩寝たのは何時だったかを思い出すためだった。
長く続いた仕事を片付け、金曜日だったこともあり酒を飲んで風呂に入らずに寝たことをぼんやりとした頭で思い起こしながら、上半身を起こした。
部屋の空気は冷えていて布団の外に出した腕が寒さを感じていた。そう思うのも無理はなく、季節は冬へ冬へと押し進められていた。
11月も終わりに近づき、街路の木々が俄かにその葉をカラフルに染め上げる季節だったが、元々出不精な上、あまり外出することのない仕事をしているためつい季節感を無視した格好で過ごしてしまう。
半袖短パンもそろそろ限界かと思いながら、椅子にかけた黒のカーディガンを寝巻きのTシャツの上に羽織り、のそのそと洗面所へと向かった。胃の奥にアルコールのせいか多少の気持ち悪さを感じていたが、お腹は空いていなかった。二度寝するのに丁度いい時間だったが、そのまま起きることにした。
洗面所の鏡に映った自分の顔は、どこか他人のように見えた。そう言えば自分の顔などここのところまともに見ていなかったことを思い出した。
三十路を過ぎて数年、少なからず老いと向き合うことの、その階段の1段目くらいには足をかけたかと思うようになっていた。
30代と言えばまだ働き盛りだし、人生はここから更に長く、あるいは遠く続いている。
一方で、時間の経過ともに老人へと変貌することもまた当然の事実だった。

歯ブラシに手を伸ばした時、手が止まった。
いつも歯ブラシを刺しているコップに、自分のものともう一本、歯ブラシが刺さっていた。1本は青いラインの入った白い歯ブラシで、もう1本はピンクのラインが入った白い歯ブラシだ。
おそらく同じメーカーから販売されていると思われるその2本の歯ブラシは、1本は間違いなく自分のものだった。
ブラシ部分が広がり(僕は歯を磨く力が強かった)、見覚えのあるそのブラシに寄りかかるようにして、見慣れない歯ブラシがそこにはあった。もちろんそんなものは昨日の朝はなかった。夜は歯を磨かずに寝てしまったため、そのピンクの歯ブラシがいつからそこに現れたのかは、皆目検討がつかなかった。
数歩後ろへとさがって、リビングの方を覗き込んだ。相変わらず部屋は静まり返っていた。
外からも音がほとんど入らず、窓の外が見えない場所にいると今が昼なのか夜なのか分からないほどだった。
洗面所から、可能な限り物音を立てずに寝室の方へ向かった。
しんと静まり返ったリビングを野生の生き物の如く慎重に、それでいて素早く通り抜けた。寝室はリビングと繋がっており、薄い引き戸の向こう側だったが、引き戸は開け放ったままだった。寝室にも人影らしきものはなく、自分のよく知ったいつもの寝室がそこにはあった。
タオルケットと毛布を乗せたベッドと、読書用のベッドライトを乗せた小さな机、微かな音を立てながら動く壁掛け時計がそこにあった。
見慣れた部屋のはずがなぜかひどく物寂しい景色に感じた。
クローゼットのドアに手をかけ、思い切り引いてみたが、そこにも特に変わった様子はなかった。
大して多くない衣類と、いつか行こうと準備しておいた山登りの道具が、所在投げに放置されていた。
これは一体どういうことなのだろう。物盗りかと思ったが、盗まれて困るようなものは生憎持ち合わせていたなかったし、何より歯ブラシを置いていく物盗りがいるとは思えなかった。
自分の記憶を辿ってみたが、ここ数日誰かを部屋に入れた記憶はなかった。
それ以前にこの部屋に住み始めて訪ねて来た人など、両親と妹、それから親しい友人数名程度だが、いずれもここ数ヶ月は訪ねて来てはいなかった。
念の為と思い、リビングからベランダへ出ることにした。
ガラス戸を開けると細かい雨が吹き込んできて、カーテンを濡らした。
常設してあるビーチサンダルを履いて、ベランダに出てみたが、そこにも何も変わったことはなかった。
寝室側と地続きになっているベランダからは
陰気な雨に浮かぶ街がそれなりによく見えた。雨はまるでガラスにつけられた細かい傷跡みたいに降り注いでいた。
部屋を借りる時の外せない条件として、僕が第一に掲げたのは眺望の良さだった。
小高い丘の中腹付近に建てられたこの賃貸マンションは、比較的築浅ながら駅から離れていることもあってことのほか家賃は控えめだった。
ライターを生業としていると、時々自然に触れたくなることがよくあった。
人と付き合うことは嫌いではなかったがそれでも自分の住環境にそれなりに自然を求めるのが僕の癖だった。
遠く建物と建物の間に、晴れていれば微かだが海が見える位置に僕のマンションはあった。今は茫漠とした灰色の中に沈んでしまっていた。
聞こえるのは風の音に混じって吹き荒ぶ雨の音だけだった。
素足のままビーチサンダルを履いていたため、足がびしょびしょになり、たまりかねて室内へと戻った。
ガラス戸を閉めると、先ほどよりもより静けさが深くなった気がした。
時計は7時30分の少し手前でこちらの様子を伺うように、秒針を走らせている。
洗面所へと戻ってみても、相変わらず正体不明の歯ブラシが先ほどと同じ場所に鎮座していた。まるで僕が住むよりもずっと前からそこにあったかのように、至極当然のよう。
やれやれ、と思いつつそれでも口の中に気持ち悪さを感じたため歯を磨いた。
洗面所を見渡しても他にこれといって変わったところはなかった。
歯を磨き、顔を洗うと幾分気持ちはすっきりしたが、それあくまで肉体的な部分のことで、今目の前に横たわる問題が解決したわけではなかった。
リビングに戻り、空いた缶と中身の入った酒の缶の処理をした。目覚めた時には感じていなかった空腹を感じたので朝飯を作ることにした。
こんな時に空腹とは我ながらなんと大胆な胃袋をしているのだろう。
冷蔵庫を開け、卵とベーコンを取り出し、1枚残っていた食パンをオーブントースターへ突っ込んだ。気がつけば随分食材が減ってきてしまっていた。
目玉焼きとベーコンを焼いている間に、コーヒーメーカーでコーヒーを入れた。
仕事の日と変わらない朝のルーティンだった。
それは言うなれば判を押したように洗練された手際と自負していた。
皿を出し、焼き上がった目玉焼きとベーコンを同じく焼き上がったトーストに乗せ、人齧りすると少しだけ冷静になれたとともに、思考を巡らす元気が湧いた。
淹れたてのコーヒーの香りが鼻の奥をくすぐった。翡翠色をしたスタッキングマグに口をつけながら、思案してみた。しかしすぐにその思考は行き止まりにぶつかって、目の前のマグから立ち昇る湯気のように、脳の裏側の暗闇に吸い込まれていった。

知らない間に妹が来ていたのだろうか。
考えながらそれはすぐにあり得ないことだと分かった。妹は2ヶ月前に結婚して今は旦那の故郷の秋田県で暮らしていた。
その妹が、なんの連絡もなしに来ることなどないし、ましてこの部屋を訪れるなら連絡のひとつは必ず寄越すはずだった。ともかくそういう奴だった。
リビングの明かりをつけずにいたせいで、部屋は外の灰色と同じくらい沈んで見えた。
時計は8時を5分過ぎた位置まで進んでいた。
PCの横に無造作に投げ出された携帯を手に取ると、不在着信が2件表示されていた。
1件は友人のFで、もう1件は知らない番号からだった。
昨晩、酒を飲みながらFに電話をかけていたこと、そして自分が酷く酔っ払っていたことをぼんやりと思い出した。
考えるよりも先に指先が動き、その不在着信に掛け直す。着信があったのは昨夜午前1時ぐらいだった。
数コール掛けてみたが電話は繋がらなかった。
無理もなかった。まだ朝の8時を少し回ったところだし、今日は土曜日だった。
少しぬるくなったコーヒーを口に含むと、寒々しい外の景色も相まって部屋の温度が随分下がっているような気がした。雨は依然として強い風に押しつぶされるようにして、外の世界に撃ち注がれていた。時々、妙な鳴き方をする鳥が電線の方から鳴く声がした。普段なら特段気にもとめないような鳴き声だったが、やけに不吉なものに感じられた。
左手に握ったままの携帯に着信があり、相手も見ずに電話に出た。
「よお、起きたか」
Fの声は特に朝早く電話してきた人間にある、ある種の寝起きのような声はしておらず、既に活動を始めて数刻といった具合だった。
「昨日お前と電話してたよな?」僕は尋ねた。
「ああ、してた。そしてお前は途中で寝た。覚えてないのか?」
定かではない、というのが本音だった。
かろうじて電話をしていたことぐらいは思い出せて来たが、電話をかけた経緯も内容も全く思い出せなかった。
「だいぶ酔ってたからな、お前」
そう言い終えると同時に何かを落としかけたのか、Fはおっと、と携帯から少し離れた位置で呟いた。
「なんでお前に電話したんだっけ」
「いや俺が知るかよ。でもなんか長めの仕事が終わったとかなんとか言って喜んでたけど、俺も昨日は少し疲れててさ。話半分に聞いてる時もあったからそこまで覚えちゃいないよ」
再びFの声が近づいてそう答えた。
「実は少し変なことが起きてさ。家に自分のじゃない歯ブラシがあるんだが、それについて俺は昨日お前に何か言ったりしてなかったか?」
「俺が知るかっての。寝ぼけて新しい歯ブラシを出してそのままにしたんだろ?そんなアホみたいなことで電話してきたのか?」
Fの言い分は最も過ぎて反論の余地はなかった。
「俺が寝落ちするまでに話した内容は覚えてるか?」
「…いや、大したことは話してないさ。いつも通り仕事の愚痴と、昔の話、それから家族の話とかあとはくだらない話だったり。まあそんなもんだな」
そこまで聞くとこれ以上Fからは新しい情報はもたらされないような気がした。
「おい、いくら酔ってたと言っても覚えてないにも程があるぞ」
Fは多少僕のことが心配になったようだった。
しっかりしろよ、と言われて謝った。
「それより、いやに朝早いな。どこか行くのか?」
「キャンプだよ。家族でな。昨日も話したがやっぱり覚えてなかったか」
Fは何か重たいものを運んでいるようだった。
言葉の合間にふぅとか、よいしょとか、がちゃがちゃと何かをどこかへ運んでいる様子が伝わってきた。
「そうか、悪かったな。そんな時に変な電話して。また連絡するわ」
「ああ、了解。これも昨日言ったことだが、たまには嫁さん連れてお前も出かけた方がいいぞ」
じゃあな、と言ってFは電話を切った。
嫁さん?確かにFはそう言った。
絵に描いたような、悪夢を見たあとの気分だった。
心臓の鼓動が、というよりは血圧が上がったのかこめかみのあたりの太い血管がどくんどくんと大きく脈打っているのがわかった。
口の中は渇いて、唇がかさかさになっていた。
立ち上がり、玄関へ向かった。
靴箱を開けるとそこには見慣れない女物の靴とパンプスが、上から4段目くらいに並べられていた。
僕の記憶ではそこには特に何も入れていなかったはずだった。というより、入れるほどの履き物を所持しておらず、基本的に玄関に普段履きの靴は出しっぱなしにしてあった。
自分の身に何が起きているのか全く理解できなかった。
夢を見ているわけでもなければ、壮大なドッキリにかけられているわけでもなさそうだった。
なによりFのあの態度は長年の付き合いから僕を担ごうなどというようなものでないのはすぐに分かった。
改めて洗面所へ戻った。やはり歯ブラシ以外に不審な点は特になかった。
鏡に映った自分の顔にも見覚えはあった。
背中を嫌な汗が滴るのを感じた。
いくら考えてもこの状況を説明できそうな推論も考察も導き出そうにはなかった。
極めてSF的な力が働き、自分の意識だけをよく似た並行世界で暮らす自分に植え付ける、それが最も現状から導き出せる仮説だったが、思い直してやめた。余りにも現実的ではなかった。
作業机代わりのダイニングテーブルへ戻り、冷蔵庫から水を取り出してコップに注いだ。冷えた水をたっぷり喉に流し込んでも、渇きが潤う感覚はなかった。
時計の針は9時30分を指そうかと言うところだった。
流し台に腰を当てるように立ち、外の景色に目を映した。
雨は相変わらず強く降り注いでいたが、風は少し弱くなったような気がした。
遠くでトラックがゴミを回収する音がしている。燃えるゴミの日だった。
不意に玄関の方からガチャガチャという音が鳴り、心臓が音を立てて跳ね上がるほどドキッとした。重たい鉄製の扉を開ける音がして靴音がコツコツとコンクリートの床を跳ねると同時にビニール袋が擦れる音がした。
僕は視線を窓の外から玄関の方へずらしたが、覗き込む勇気が出なかった。
固まったままでいるとビニール袋を右手と左手両方に下げた女が、リビングの部屋に入ってきた。
さも当たり前のような挙動で僕の目の前のダイニングテーブルに、食材と思しきビニール袋を置いて、彼女は僕に一瞥を投げかけると洗面所へと行って手を洗った。
その間僕はその挙動のひとつひとつ観察していた。全く見覚えのない女だった。
年は20代だろうか、若過ぎず歳をとり過ぎてもいなかった。服装はカジュアルで、レザーのジャケットにグレーのスウェットパンツを履いていて長い髪を後ろで一つに結んでいた。
首元に宝石がついた小ぶりなネックレスをしており、彼女の動きに合わせて小さく揺れていた。
戻ってくると女はテキパキとビニール袋から、食材を取り出し始めた。慣れた手つきでそれをダイニングテーブルの上へ並べ、冷蔵庫へ入れるものは冷蔵庫へ、常温保存のできるものはしかるべき保管場所へ移動させた。その手つきは明らかに昨日今日この部屋に来たことのある人間のそれではなく、少なくない時間をここで過ごしている証明でもあった。忙しなく体を動かしていたが、無駄な動作はなかった。運動をしているのだろうか、女の体には贅肉といった類の肉が、服の上からではあったがまるで見られなかった。
「珍しいわね。朝にコーヒー飲むなんて」
彼女は手を動かしながら、こちらを見ずに言った。
「珍しい?」
「いつも朝は紅茶じゃない」
そう言い終えて彼女はコーヒー淹れるけど飲む?と僕の方を見た。
僕は無言で首を縦に振った。
2人分のコーヒーを淹れ、僕らはダイニングテーブルを挟んで向かい合った。
コーヒー豆は数日前に近場のコーヒーショップで挽いてもらったものだった。僕は比較的浅煎りのものを濃いめに淹れるのが好きだったが彼女が淹れてくれたコーヒーは間違いなく僕好みの淹れ方だった。2000円ぐらいで買った安いコーヒーメーカーだったが、僕は割にそれを気に入っていた。
テーブルについてあらためて女を見たがやはり見覚えなどなかった。
彼女はコーヒーを口にしながら自分の携帯電話に目を落とした。
長いまつ毛と切長の目が細かく画面の情報の上を右に左に滑っていた。
僕は急に見慣れたこの部屋が自分の家なのか自信がなくなってしまっていた。
「お腹空いてる?」
彼女は僕を見ることなく尋ねた。
「いや、さっき朝ごはんを食べたから空いてないよ」
「そう、お昼どうしよっか。適当に作っちゃうけどいい?」
まるでいつもそういう会話が行われているかのように滑らかな会話だった。
そこにはある種の調和みたいなものがあって、僕は自分の混乱はさておき、その会話に不自然さは抱かなかった。
「ねえ、変なことを聞いてもいいかい?」
部屋はコーヒーのいい香りで満たされていた。
「なに?」
彼女は自分の携帯に目を落としながら、やはりこちらを見ずに短く答えた。
「もし、僕が君のことが誰だか分からないと言ったらどうする?」
言い終えるかどうかのところで彼女は目だけを僕の方へ向けた。やはりその眼差しに見覚えはなかった。
彼女は僕の問いに答えず、思考を巡らせながら天井の方へ視線を移した。
「それは、どれくらい本当のことなの?」
「どれくらい?」
「ええ、つまりそれはあなたの言葉通り私のことだけがわからないのか、それとも自分についても分からないのかってこと。後者なら脳に何らかの異常が起こればそういうことも起こるかなって思うけど、専門外だから何とも言えない」
そういうと彼女はまた携帯の画面に視線を落とした。僕は彼女が携帯の画面を操作する指を見ていた。装飾の施されていない爪は綺麗に切り揃えられていた。規則的に動く指はピアノのハンマーが動くのに似ているなと思った。
「少なくとも自分のことはわかるみたいなんだ。君が誰でなぜ僕の部屋にいるのかだけが分からない。そのせいで僕はひどく混乱している」僕の言葉は虚空に飲み込まれ、静寂が朝の水辺に降り立つ大型の鳥のように、静かに降り立った。
そこまで行ってようやく彼女は僕の目を正面から見据え、僕が冗談でそんなことを言っていないということを確認できたみたいだった。
それと同時に本心からの戸惑いの表情と、少しの恐怖に似た感情が湧き起こっていることをその目は物語っていた。
「本当に私が誰かわからない?」彼女は短くため息をついたように見えた。
「正直言って記憶障害なんかじゃないと思えるぐらい、君の情報だけがぽっかりとないんだ。そしてそれは僕にとって本来あるべき記憶だとも思えない。この部屋とか、それ以外の記憶については昨日から地続きって感覚が確かにある。でも君のことだけが、君とそれに付随する情報のみが全く存在しない。ドーナツの輪っかみたいにね」
口の中はやけにねばつく唾液で不快だった。
そこまで喋ってなお、彼女にも僕のその言葉が信じられないといった目で僕を見ていた。
見るからに言葉に詰まっていた。
「ごめん、えっとね、こういう時にどうするかなんて習ってないし、私も混乱してきてる。でも私の記憶だと昨日の夜いつものように夜勤に出て帰ってきただけなの。私にしてみたらね。そしたらあなたは私を覚えていないと言う。そんなことって普通に考えたら…」
「あり得ない?」僕は答えた。
「そうね、そう思いたいけどまあ、可能性が0だとは言えない。人間という生き物には時々自分達でも想像ができないことが起こるし、私も仕事柄そういう人たちをたくさん見て来た」
「仕事柄?」
「看護師」彼女は短く答えた。その答え方には少しだけ不満げなところがあったが深くは考えないようにした。
彼女はコーヒーを口に含むと鼻腔から息を少し長めに吐き出してから飲み込んだ。
「自分のことがわからなくなる人って、けっこういるものよ」
彼女の言う言葉に僕は同意せざるを得なかった。僕自身、ライターの仕事をしていてたまにそういう人の話を聞いたことがあった。
突然それまでの自分のことが思い出せなくなった人や、自分がなぜそこにいるのか思い出せないという人の話を聞いたことがった。それらは前触れがあったり、あるいはなかったりした。
強い衝撃を受けて記憶障害が発生するケースが一般的だったが、昨今では健忘症の一種として自分に関する記憶が抜け落ちるということもあるみたいだったが、どうも自分にそれを当てはめてみようとしても合点がいかなかった。
仮にこれを記憶障害の類というならなぜ彼女の記憶だけが抜け落ちてしまっているのか。まるで描かれた絵画を誰か別の人間の手で塗りつぶすような感じに思えた。
「そういえば」彼女は不意に顔をあげた。
「昔、叔父にこんな話を聞いたことがあったわ。その時はよくある子供向けの怖い話か何かだと思ったんだけど」そう言うと彼女は叔父がしてくれたというアメリカのある片田舎で起きた出来事を話し始めた。

ブライアンという男がいた。1960年代のアメリカの片田舎に暮らしていた。公民権運動の影響はアメリカ全土に広がっていて多くの人々が人種差別の撤廃に向けて声を上げていたり、ベトナム戦争の影響を受けて多くの若者が戦地へ駆り出されていた。ブライアンは39歳で、中西部の比較的裕福な家庭で育った彼は17歳で警察官となり、22歳で地元の同級生と結婚して4人の子供を授かった。仕事ぶりは真面目で、警察官として評判も高くて街のみんなから好かれていた。
ある日、4人目の子供の5歳の誕生日で彼は早めに仕事を終えて、街のおもちゃ屋でプレゼントを買おうとしていた。小さな街ではあったが、老舗のおもちゃ屋があった。
ブライアンは店に入り、プレゼントを物色し始めた。
去年までは上の3人の子供のおさがりをプレゼントにしていたが、今年こそはおさがりではないプレゼントを、それもできるだけ大きなものを渡したかった。
店は郊外にあって木製の昔からのおもちゃが主な商品だった。
ブライアンの目に留まったのは古い大きな木でできたパズルのようなものだった。それはちょうどドーナツみたいな輪っかの形をしていて、組み木された小さなパーツがうまい具合に輪っかの形にを成していた。車のハンドルの一回りほど小さいそれは表面に塗られたニスが部分部分で禿げており、作られてから長い時間が経過していることを物語っていた。内側に錆びついた鈴が付けられていて、手で持つとその鈴が小さく鳴った。りんっと短く、ほんの些細な音だったがブライアンの心を惹きつけるものがあった。
彼は店主にこれはどういうものかと尋ねた。
店主は古い樫の木でできた大きなカウンターの向こうから顔を上げると
深く刻まれた皺の間の黒い真珠のような目を大きく見開いた。
店主はそれは売り物ではない、とぶっきらぼうに言った。
小さくため息をしたと思うと、店主は真っ直ぐにブライアンに向かっていってそのドーナツ方パズルを取り上げた。
ブライアンはそんな店主の態度が癪に障ったと同時に、このパズルには何かあると感じた。警察官としての長年の経験から、人が真実を隠そうとする態度によく似ていたからった。
「すまない、売り物だと思ったんだ。その、実によくできていると思って」
ブライアンは再びカウンターの奥に引っ込んだ店主の方に近づきながら言った。
「下の子が誕生日なんだ。良かったらそれを売って欲しいんだが」
ブライアンがそこまで言うと店主はきつく彼を睨みながらこんなことを言った。
「申し訳ないがこいつは売りものじゃないし、誰にも渡す気はない」
店主のあまりの迫力にブライアンは一瞬たじろいだ。長年警察官として、片田舎ではあるが年に数件発生する事件に対処してきた。その中には今目の前にしている小柄な老人より恐ろしい人間を多く見てきた。銃を向けられたことも1度や2度ではなかった。
だがこの老人の気迫はそのどれよりも威圧的だった。
「売り物じゃないなら、どうして店に?」
ブライアンは尋ねたが、店主からは言葉は返ってこなかった。
店主はブライアンの言葉を無視し、そろそろ店を閉めたいと言った。
時計はもうすぐ午後6時に差し掛かるところだった。店にはブライアンと店主しかおらず、静まり返った店内はまるで森の中に建てられた小屋みたいだった。
外へ出るといつの間にか雨が降っていた。急いで車に乗り込むころには
店の電気は消えており、店主は奥の自宅へと引っ込んだようだった。
一番下の子供の誕生日まではまだ数日あった。ブライアンは後日出直すことにし、その日は家へと帰ることにした。
それから何日かたったある晩、飲酒運転で捕まった男が署に連れられてきた。ブライアンはその日隣り町の応援へ出ていて、町に戻ってきたのはすでに日が沈んだあとだった。取調べのために使っていた部屋から大きな声がしたのでのぞいてみると、部下が飲酒運転で捕まった男の取り調べをしていた。男の名前はデレクと言い、年は20歳で自分はワシントンに住んでいてさっき仕事を終えて車で家に帰る途中だとしきりに訴えていた。すでにその問答は何度もなされており、部下の横顔には疲れが見え、デレクの方ももういい加減にしてくれといった様子で声を荒げていた。
部下を廊下へと促し事情を聞いたブライアンは、部下に代わりデレクの話を聞くことにした。名前と生年月日を尋ねてみたが、部下に対して答えたように、自分の名前と生年月日、それからワシントンにある職場から帰るところだったのに自分がどうしてこんなところにいるのかわからないと、怒りと嘆きを織り交ぜながらブライアンに捲し立てた。ほとんど泣き叫んでいると言っていいぐらい取り乱していた。
ブライアンは一旦席を立ち、部下にデレクの車を見せるように伝えた。
この時はブライアンがアルコール以外に非合法的なドラッグを使用している可能性を考えていただけだった。
デレクの車はシボレーだった。中古で購入したのか、はたまた親に譲ってもらったのかすでに数十万キロも走っただいぶ年季の入った代物だった。
ブライアンは運転席に乗り込み、ダッシュボードや助手席の下を隈無く探した。部下は懐中電灯を片手にその様子を照らしながら見守っていた。
特に妙なものがあるわけではなかった。
今度は後部座席に周ってあたりを調べてみた。助手席側のマットの下に何かがあるのをブライアンはすぐに見つけた。暗闇に手を伸ばした。部下はその手元をなんとか懐中電灯で照らそうとしていたが、かがんだブライアンの後頭部が照らされるだけだった。
ブライアンはそれに触れた瞬間にそれがなんなのかわかった。そんな馬鹿なと思いながらそれを拾い上げ、部下から乱暴に懐中電灯を奪ってその拾った”モノ”を照らした。
それは間違いなく先日あのおもちゃ屋で見た木製の輪っかだった。ブライアンはその手触りをはっきりと覚えていた。
暗闇の中からそれを拾いあげた瞬間にそれがなんなのか一瞬でわかったほどだった。持ち上げた瞬間、パズルの内側にぶら下がった錆びた鈴が小さく鳴った。まるで太古の昔に翡翠に閉じ込められた昆虫みたいに、それは先日聞いたあの音と同じで心を揺さぶる何かを感じさせた。
ブライアンは急いでデレクの車から降りると取調室へ向かった。
警察署の前の灯りが彼の影を一瞬長く伸ばしたが、すぐに小さくなって消えた。部下は一体何が起きたのかわからないといった顔を浮かべながら、
早足でブライアンの後を追いかけた。
ブライアンはデレクにこれをどこで手に入れたと尋ねた。
デレクはそんなものは知らないと言う。正直に言えと珍しくブライアンは
声を荒げた。彼が取り調べで声を荒げることなどほとんどなかった。
部下は目を丸くしてただその様子を見ていることしかできなかった。
デレクの顔には次第に恐怖の色が浮かんでいた。それは自分のしでかしたことに対してというよりも全く身に覚えのないこの状況に対してのようだった。
埒が明かないとブライアンは部下にデレクを見張るよう依頼し、自分の車で例のおもちゃ屋へ向かった。警察署からおもちゃ屋までは大通りを通っても10分とかからなかった。ブライアンは乱暴にパズルを助手席へ放り投げるとアクセルを思い切り踏み込んだ。
おもちゃ屋の灯りは消えていた。無理もなかった。その時すでに時間は夜9時を回っていた。
助手席に放られたパズルを取り上げるとブライアンはおもちゃ屋の扉を叩いた。大声で店主の名と自分の名を叫んだ。すぐに店に灯りが灯され、中からあの店主が顔を出した。ブライアンの顔を見ると店主は中へ入るよう促した。そこには小さな町の警察官に対する礼儀だとかはなかった。こんな時間に警察が訪ねてきているところを近所に見られたら困るといったようなものだった。
ブライアンは経緯を説明し、パズルをカウンターの上に置いた。
「これはこの間、あなたが売り物ではないと言ったパズルですね?」
ブライアンがそう言うと店主はそのパズルを手に取り灯りに照らしてまじまじと眺めた。わざとらしい、とブライアンは思った。このパズルを手にしたことがある者ならこの肌触りを忘れるわけがないと彼は考えていた。
間違いなくうちのだと店主は言った。が、奇妙なことが判明した。
ブライアンが去った先日の夜、店主はこのパズルを鍵付きの箱に入れて戸棚の奥にしまっていた。言葉通りこれは売り物ではなかったから。
ブライアンはその戸棚を見せてくれと頼んだ。戸棚にも鍵ついていて、店主は小さな目で鍵束からその鍵を取り出すと、戸棚の奥から金属でできた大きな箱を取り出した。薄い鉄か何かでできているのか、表面には錆が目立っていて南京錠でその口は閉じられていた。
店主とブライアンが開けてみるとその箱の中は空っぽだった。
ブライアンには店主が嘘を言っているわけではなさそうなことはわかっていた。彼も長い間この町に暮らしており、言葉を交わしたことは少ないが、店主にこれといって犯罪歴もなければ近所とトラブルを起こしたこともなく、何より何十年も片田舎でおもちゃ屋を経営する男がブライアンをからかおうなど思うはずがなかった。
店主はブライアンに椅子を差し出し、座るよう促した。自分も古い木製の丸椅子に腰掛け、タバコに火をつけた。店で喫煙をするのはどうなのだろうとブライアンは思ったが、自分もタバコに火をつけて吸い始めた。
二人とも言葉はなかったが、混乱していることは明らかだった。冬を前にして空気は乾燥しきっていたのにじっとりといやな汗が額や背中を満たすのを感じていた。
「わしらはあれを穴と呼んでおる」
タバコを吸い終えると店主が独り言のように話し始めた。
「わしは親父から、親父はわしの爺さんから、爺さんはそのまた爺さんから、代々受け継がれてきたもんだと聞いておる」
ブライアンは黙ったままその言葉に耳を傾けていた。タバコの煙がランプの前を横切って小さな埃が音を立てず舞っていた。
「この店はおもちゃ屋になる前は古物商だったらしい。らしいというのもわしの爺さんが父親から店を譲り受けた時におもちゃ屋にしちまったらしくての。わしが生まれた時にはすでにここはおもちゃ屋だった」
店主は再びタバコに火をつけ、深く息を吐き出した。
「小さい頃、あれで遊んでいたらひどく親父が怒ったことがあった。それはおもちゃに見えるが触ってはいけないと言った。わしはその時は何も知らんかったからの。後にも先にも親父があんなに怒ったのを見たのはあれが最初で最後だった」
「おもちゃではないんですか?」
ブライアンが尋ねると、店主が小さく頷いたようにも見えたし、首を振ったようにも見えた。
「わしも知ったのは親父が病気で寝たきりになってからだった。ある日親父が珍しく町外れの病院にわしを呼び出した。不思議なもんでわしにはそれが親父に会う最後の日になると、なんとなくだがわかった」
「それで、お父さんはなんと?」
「親父がわしに言ったのは3つ。あれは穴と昔から呼ばれていること。そして決して人に譲ったり、捨てたりしてはいけないということ。それから」
店主は言葉を区切って一瞬戸棚の方を見た。まるであのパズルに聞かれていることを恐れているみたいだった。
「何が起きても自分を信じろと言った」
「どういうことです?」
「わからん。その時は、親父がボケちまってんだとわしは思った。こう言っちゃなんだが、親父はあまりその、いい生き方をしなかった。若い頃は詐欺まがいのことや盗みもやっていたらしい。わしが生まれて心を入れ替えたとは聞いていたがな。粗暴が荒いというか、子供のわしから見ても親父のようになりたいとはとても思えないような人間だった」
店主の父親についてはブライアンも少しだが聞いたことがあった。かつては札付きの悪党で町で煙たがられていた。ところがある日を境に真っ当な道を歩み始め、立派におもちゃ屋の店主として勤め上げたと。
「それで、あれは一体なんなんです?」
「わしにも詳しいことはわからん。だがあれがただの輪っかではないことはわかる。まだわしが若い頃この店も今よりずっと繁盛していてな子供から大人までがひっきりなしにやってくるような時代もあった。あれはそうじゃな、親父が死んですぐぐらいだったかの」
店主は虚空をじっと睨むようにかつてそこにあった日々を回想していた。

店主の父親がその役目を終え、諸々の手続きが終わったのち、正式におもちゃ屋は店主のものとなった。その年のクリスマス、店は例年に比べて大きく繁盛した。まだおもちゃ屋という機能がそれなりに力を持っていて、今で言うインターネットやらアマゾンやらがすぐにおもちゃを届けてくれる時代ではなかったし、もちろんテレビゲームなんか登場するもっとずっと昔のことだったからシンプルなおもちゃが飛ぶように売れていた時代だった。
雪とみぞれの間みたいな雨が降る冷たい夜だった。
レジのお金を数え終えた店主は店を閉めようと、店内の明かりをひとつずつ消していっていた。父親から譲り受けたとは言え、幼い頃から手伝いでカウンターに立たされていた店主にとって店はもう自分の体の一部のようなものだった。
最後の明かりを消そうとした時、ドアを叩く音がした。
もう店は終わっている、明日にしてくれと店主はドア越しにその音の主に伝えた。すると、扉の向こうからどうしても今日プレゼントを買わなくちゃいけないという男の頼りなさそうな声が聞こえてきた。
少し迷ってから店主はドアを開けた。そこにはメガネをかけた若い男と小さな男の子がずぶ濡れのまま立っていた。
ひどく寒そうに見えたので、店主は急いで二人を店の中に招き入れ、奥の自宅からタオルを持ってきて二人に渡した。
メガネの男は店主に礼を言った。男の子の方もタオルで体を拭くと小さく礼を言ってタオルを返した。
店主は二人に店を閉めながらでも良いかと尋ね、その間に店内を見ると良いと言った。親子だろうか。その日は朝からずっと雨が降っていたのに傘も差さずに来たことが気に掛かったが、店主にとってはここらで早く店をしめてはやく一杯やりたい気持ちの方が強かった。
親子と思わしき二人の姿が店内を右往左往するのを眺めながらそんなことを考えていた。父親の方は子供にいくつかおもちゃを手に取って勧めているが、どうやら子供の方は気に入ったものが見つからない様子だった。
店主はそんな様子から痺れを切らして、店で人気のおもちゃを数個見繕ったがそこにも気に入ったものはない様子だった。
父親がもう今日は遅いから明日また出直すと言って子供に帰宅を促そうとした。すると子供が徐に何かを手に取った。それは例の木製の輪っかだった。
店主は驚いた。父親に言われた通り、それは誰にも渡すことがないよう鉄の箱に入れて鍵をかけていたからだった。店の商品とともに並ぶはずがなかった。これはなに?と子供が尋ねた。
それは売り物じゃないんだ、と店主が答えた。父親は慌て、子供に元の場所へ戻すよう促すが、子供は聞こうとしなかった。これが良いと、駄々を捏ね始めた。
参ったなと、店主は思った。父親の言いつけを破るのは気が引けるが、
よくわからないものだし、早く切り上げたかった。
店主はそれを二人に売ることにした。そうすれば今日の仕事は終わりだ。
酒と飯を食い、野球を見て風呂に入って寝る。いつもと同じ日常を早く取り戻したかった。
親子は店主に例を言い、いくばくかのお代を支払ったあとで店を後にした。
嬉しそうな子供の顔と、これでやっと帰れると安堵する父親の横顔が印象に残った。
外の雨は止んでおり、ぬかるみに二人の足跡はっきりと残っていた。
それから数日が経ったのち、また父親の方が店を訪れた。よく晴れた週末の午前中で、数日降った雨のせいで店のまわりの土がひどくぬかるんでいた。
先日とはどうも様子が違っていて、心ここにあらずといった感じで彼は店内を見渡した。おや、今日は一人かいと店主が尋ねた。途端、メガネの男は店主の方へずんずん向かってきた。
自分はここへ来たことがあるのかと彼は店主に問いかけた。
あまりの勢いに店主は数歩後ろへ下がった。その拍子に店にぶつかっていくつかの商品が床へ散らばった。
つい数日前に子供と一緒に来たことを伝えたが、要領を得なかった。
店主は彼が何か精神的な問題を抱えていて、一時的にそう言う風に、要するに今で言う鬱だとか、あるいは薬でもやっているのか心配になった。
幸い店内には他に客はなく、店主とメガネの男の姿しかなかった。
メガネの男が言うには、朝起きたら自分は結婚していて妻と息子とともに暮らしていた。だが自分の記憶の上では、結婚などしていないしまして息子を設けてなどいなかったと言う。
店主にも彼がふざけている訳ではなく、心の底から混乱していることが見てとれた。
店主は詳しく話を聞くためメガネの男を丸椅子に座らせ、温かいコーヒーを一杯淹れてやった。
店主は彼が嘘を吐いている訳ではないと思ったが、それでも彼が言うことを鵜呑みにはできなかった。
詳しく話を聞いたところ。彼は28歳で隣の街のドラッグストアに勤めていた。昨日は同僚と食事をすませてから家に帰ったため、遅くなった。
風呂に入らずにベッドに入り、気がつくと朝を迎えていた。
寝ぼけた頭でリビングへ行くと知らない女と子供が朝食を食べていた。
メガネの男は彼らに見覚えはなく、ひどく混乱した。目の前の光景が受け入れられず、そのままの状態で家を飛び出してきたらしい。
勤務先は隣町だが、家は近所らしく、先日と同じメガネと白いシャツに黒いスラックス、足元はサンダルだった。この季節には似合わない明らかに寒そうな服装だった。
店主はどうするべきか思案していた。警察に通報するのが最も簡単な解決方法だった。ところが彼にも客商売を営むプライドがあった。一度客として来た人間を無碍にはできなかった。
店主はメガネの男に自分も行くから家に案内して欲しいと言った。
少なくともあの日店主は子供の顔を見ていたから、家に言って子供の顔を見たら多少はこの問題に説明が着く気がした。最もそれはメガネの男の頭がどうかしてしまったという結論に帰結するということだったが。
男の家はおもちゃ屋から歩いて10分ほどの所にあった。大きな樫の気が横に植えられた立派な一軒家で、一見すると古そうな見た目だったが手入れが行き届いていた。ガレージには2台車が停まっていて1台は男のもので、もう1台はその女のものらしかった。
店主は家の前で他に何か変わったところはないか男に尋ねた。
男は自分の家の周りをきょろきょろと見回したが、いつもと同じだと言った。胸中の混乱が動作にも現れており、もし一人だったらこれから空き巣に入ろうとするヘタクソな泥棒に間違えられてもおかしくなさそうな挙動だった。
家の中は静かだった。玄関に入ると廊下があり、その先から微かにテレビの音が聞こえて来ていた。よく整理されており、廊下には2階へつながる階段があった。店主は男の先に立って家の中に入った。
リビングでは男の子がテレビを見てくつろいでいた。女の方の姿は見えなかった。出かけたのか、それとも2階にいるのか、とにかくリビングにはいなかった。メガネの男がただいま、と小さくつぶやいた。
すると男の子は振り返っておかえりと言った。店主はその男の子が先日店に来た子ではないことがわかった。年の頃は同じくらいだったが、全くの別人だった。一体何が起きているのかわからなかった。
店主は少年に、この人は君のパパかとか、ここの家の子だよな、とか質問をしたが少年には何を言われているのかさっぱりと言った感じで、すぐにテレビへ視線を戻してしまった。
不意に鈴の音が聞こえて玄関の方で音がした。女が帰って来たようだった。
女は買い物袋を持っており、店主とメガネの男が呆然と立ちすくむ間を縫ってキッチンへ行き、買い物袋から物を取り出しはじめた。
その動作はいつも通りと言わんばかりの慣れた動作で、誰がどう見てもこの家に長い間暮らしていなければ身につかない手振りだった。その間女は特に何も言わず、こちらも何も言わなかった。
店主とメガネの男は家を出た。とにかく外の空気を吸いたかった。
今では男以上に店主の方が混乱していた。この男は確かに先日店を訪れた男だったが、子供の方に見覚えはなかった。
男の方は、店を訪れたことも覚えておらず、自分には妻と息子はいないと言った。
メガネの男は心配そうな眼差しを店主に向けた。かと言って店主の方にもなすすべがなかった。
2人は一旦店に戻って、あらためて状況を整理した。メガネの男が言うには
妻と子供の存在以外はすべて昨日までと同じに見えたようだった。
昨日までも特に変わったことはなく、それまで同じように隣町のドラッグストアで働き、週に5日それを繰り返す生活だった。
同僚と食事へ行ったがそこでも特に変わったことはなかった。妻と息子と思われる存在についての情報だけがぽっかりと、まるでそこだけ穴が空いたかのように抜け落ちてしまっていた。
店主はなぜ最初にこの店へ来たのかを尋ねた。男は家を飛び出して、足の向くまま歩いていたらここへ着いていたと言った。だが訪ねたのは今日が初めてだと言った。
その様子もまた、嘘偽りではないことを店主は感じ取った。
ふとあの輪っかのことを店主は思い出した。先日あんたの息子に(もっとも今となってはその息子の所在も分からなかったが)渡した輪っかのことはどうなったかと問いただしたが、それについても男は全く覚えていなかった。
店主は直感的に、何かあるのだとしたらあの輪っかではないかと思った。それはほとんど確信と言ってもいいほど確かなものだった。
店主は再び男を連れ、彼の家へと戻った。つい数十分前に訪れたばかりだったが、手入れをされた庭も、家に寄りかかるように生える大きな樫の木もこの世のものとは思えないような威圧的な雰囲気を漂わせていた。
ガレージの車がなくなっており、玄関の靴もちょうど子供の靴と女ものの靴が1セットずつ消えていた。どうやら出かけたらしかった。
メガネの男に輪っかの特徴を説明し、店主は家の中を探し回った。
ところがすぐに見える場所に輪っかは見当たらなかった。男は2階へ上がり、店主は地下室へ降りた。
男の性格だろうか、地下室も薄暗いながらよく整理され、災害用の備蓄や庭仕事用の道具やらが丁寧に棚に並べられていた。
店主はひとつひとつ棚の中を確認していったが、輪っかは見当たらなかった。
カビのような匂いが満ちているが特に変わった様子もなく、諦めて地下室を出ようとした時、小さく鈴の音が聴こえた気がした。
リビングに戻ってみると、テレビの前にメガネの男が立っていた。2階から降りて来ていたことに気が付かなかったので店主は少しだけ驚いた。
店主が男に声をかけると男の手には例の輪っかが握られていた。彼が言うには
2階から戻って来たらソファの上にこの輪っかが置かれていたらしい。
妙な話だった。つい今しがた地下室と2階に別れる前にリビングの捜索をしていたからだった。
店主と男はまた店へと戻った。時間はすでに昼をまわっており、不気味なほどよく晴れた空が広がっていた。冬の乾燥した風が吹き抜け、本格的に雪が降り出しそうな予感を店主は感じていた。現に天気予報では明後日ごろから天気が崩れるらしかった。
店へ戻った店主は男に熱いコーヒーを淹れてやった。2人は黙ったままカウンターの上に置かれた輪っかに目を合わせながら、コーヒーを飲んだ。
店主にはもうその輪っかが何か普通のものではないことがはっきりとわかっていた。父親がなぜそれを譲ったり捨てたりするなと言った理由はさっぱり分からなかったが、それでもこれをひと目に触れるような場所に置いておくべきではないことがわかっていた。それはちょうどここから先へは立ち入ってはいけないと、山の中で直感的に感じる本能のようなものみたいだった。
メガネの男は立ち上がって、店を後にした。コーヒーカップの底には乾きかけた水溜りみたいな茶色いシミが残っていた。店主は男の背中を見送り、その輪っかを鉄の箱に入れて鍵をかけ、戸棚の奥深くへと閉まった。

ブライアンは黙ったまま店主の話にずっと耳を傾けていた。
「わしが知ってるのはそこまでだ。そのメガネの男も子供のほうもそのあと見かけることはなかった。先日お前さんがあれを見つけるまではその後はずっとあの箱に入れておったはずだった」
ブライアンは輪っかについて考えていた。穴、と呼ばれていたそれのことと、あの小さな鈴のことを考えていた。
店主から話を聞く前と後ではあの輪っかについての考え方が全く変わっていた。
デレクはどこであの輪っかを手に入れたのだろう。ブライアンは考えていたが、とてもその考えも馬鹿げたものな気がしていた。
あの日自分も店主が鉄の箱に輪っかを仕舞うのをみていたし、今の店主の経験談から彼が軽率にあれを扱うことはないだろうと思っていた。
店主は言葉もなく立ち上がると再び例の鉄の箱を持って戻って来た。
重そうな南京錠を外して蓋を開けた。当然だが中身は空っぽだった。
店主は輪っかを箱に収め、
「これはもっと深いところへしまった方がいいかもしれんな」
店主は独り言のようにそう言った。夜もだいぶ老けていたのでブライアンは署に戻ることにした。
コーヒーの礼を言い、店を出た。来客を告げる鈴の音が夜の闇に小さく囁いて消えていった。

「この話をしてくれたのは私の叔父さんなんだけど、ずっと小さかった私にはとても怖かったの。大人になってからネットで調べてみたら、確かにその期間にブライアンという警察官がその町にいたこと、それからそのおもちゃ屋が実在したことを知ったわ」
僕は黙って彼女の話に耳を傾けていた。外の雨は止んでいて分厚く垂れ下がった灰色の雲が海の方まで押し流されては消えていった。強い風の音が窓を叩いていた。
「その後は、どうなったの?」僕は彼女に尋ねた。
「さあ、叔父さんが話してくれたのもずいぶん前だし、その後を話してくれたのかも覚えてないわ。 昔、その町に行こうと思ったことがあったけど、色々タイミングが合わなくてやめた。けど、たまに病院で働いてるとね、そういう人がやってくるの」彼女は僕の分ももう1杯コーヒーを淹れてくれた。
「そういう人っていうのは例えばメガネの男みたいな人?」僕はあるいは
僕みたいな人と聞きそうになってやめた。
「そう、自分のことははっきりわかるのに何か重要なその人の情報だけがぽっかり抜け落ちちゃってるのね。そういう人ってなんていうか、言葉で上手く表現できないんだけど見ただけでわかるのよ。ああ、この人何かを失くしちゃったんだって」
「あるいは、喪失を得たってことなのかも」
「そうね、確かに元々もあったものを失ったというよりは、上書きされちゃったって感じに近いのかもしれないわね」
彼女は髪をかき上げた。香水の匂いが僕の鼻の辺りをくすぐった。名前は知らない香水だったけど、どこかで嗅いだことがあるようで懐かしさを覚えた。
僕は今もおもちゃ家の戸棚の奥深くで鉄の箱に入れられた輪っかのことを考えた。その後ブライアンは、デレクは、あるいはメガネの男とその家族はどうなったのだろう。彼らのことを考えた。まるで突然違う世界へとやって来てしまった来たかのような彼らと僕自身のことについて考えていた。あるいは中心だけがぽっかり抜け落ちてしまったドーナツの真ん中のことを思った。それはもうお前はどこへもいくことはできないと僕に言っているような気がした。
時計はもう昼前に差し掛かろうとしていた。僕は途方に暮れ、一体このあとどうしたらいいのだろうと思ったが、全てはもう遠い彼方に押し流され二度と取り戻すことはできなかった。
昨日までの世界とは何もかもが違ってしまっているように見えた。自分自身を証明する方法をよく考えれば僕はこれと言って具体的に持ち合わせていなかった。
耳元で小さな鈴の音が鳴ったような気がした。僕にできることはとりあえず何が起きても自分を信じるしかないということだけだった。

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