見出し画像

ひきこもりおじいさん#18 本妻と妾

「・・・そうか隆史が親父さんに対して、ずっとそんな思いを抱いてたのは知らなかった。いまさらだけど、気付いてやれなくてごめんな」
優しい深みのある声で伸一が言った。
「ちょっと父さんやめてよ。そんなつもりで言ったんじゃないから。それよりもさ」
思いがけない伸一の言葉に隆史も少し動揺していた。
「ああ、うん。実はそもそも親父さんは生まれは長野だけど、育ったのは東京なんだよ。まぁ、東京って言っても、今の東京じゃなくて、戦争前のずっと昔のことなんだけどな」
ゆっくりと思い出すように伸一が話し始めた。
「へぇ、東京・・・」
「うん。それで当時は親父さんの親父さんがな」
「親父さんの親父さん?」
「う~ん、ちょっとややこしいな。つまり隆史のひいおじいさんが、今の上野辺りに料理屋を開いていたんだ」
「え?そうなの?」
「ああ。で、その料理屋っていうのが『西雲閣』という料理屋でな、当時はけっこう繁盛してたらしいんだよ」
「西雲閣」
隆史はその初めて聞く言葉を口から出して呟いてみる。
「それで、その西雲閣を経営しながらひいおじいさんは、当時東京の府議会議員なんかもやってたみたいだから、まぁかなりのやり手だったんじゃないかなぁ」
遥か彼方の記憶を探るように伸一が言った。
「そのひいおじいさんは、何ていう名前なの?」
「確か、田中喜一郎だったと思うな」
「田中喜一郎・・・」
予想を超える言葉の濁流が隆史を呑み込んでいくようだった。
「じゃあ、おじいさんは戦前の長野で生まれて、すぐに東京に引っ越して、田中喜一郎さんが経営するその西雲閣で育ったっていうこと?」
「まぁ簡単に言うとそういう事になるけど、実際はもっと複雑だった思う」
「どういうこと?」
訝りながら隆史が聞いた。
「まず田中喜一郎さんは、当時西雲閣を経営しながら議員をするくらいだから、今とは違って本妻とお妾さんがいたんだ」
「お妾さん?」
「今でいうところの内縁の妻とか愛人みたいなものかな。まぁ、奥さんが二人いると想像すればわかりやすいと思う」
「うん・・・」
「で、それはつまり喜一郎さんが両方養えるだけの経済力を持っていたという事でもあるんだけど、本妻は長野にお妾さんは東京にいて一緒に住んでいたらしいんだ。だから親父さんもそのお妾さんと一緒に生活をしていたと思うんだが、ある日、親父さんはそのお妾さんの養子になる。それで田中姓から島村姓になった。親父さんが高校生ぐらいのことで、はっきりとした理由はわからない。ただ、当時の親父さんには兄弟が五人いて、親父さんは三男だったから、もしかしたら長男ではないというのも理由のひとつではあったかもしれない。そして当時親父さんは、東大を目指して勉強に励んでいたらしいんだが、受験に何度も失敗したらしくてな。それを喜一郎さんやお妾さんに叱責されて本人も相当の責任を感じていたんじゃないかなぁ。
結局、他の兄弟は皆優秀で大企業や銀行に勤めていたらしいんだけど、受験に失敗した親父さんはその事でさらに劣等感を持ち続けることになった。喜一郎さんは親父さんに西雲閣を継いで欲しかったみたいだけど、本人に店を引き継ぐだけの意欲も器量もなくて、加えて時代が戦争に向かっていたというのも影響して、店を畳んで長野に戻り、従姉だったおふくろさんと結婚して俺が生まれた。それがちょうど太平洋戦争が始まる直前だった」
そこまで話して伸一はじっと隆史の顔を見つめたが、隆史はそんな伸一の視線と言葉をどう処理していいのか分からず、目は泳いだままだった。

#小説 #おじいさん #ひきこもり #東京 #本妻 #妾

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?