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ひきこもりおじいさん#86 沈黙

隆史の脳裏には、三ヶ月前の八月の夜に、初めて美幸とこのダイニングで会った日の事が鮮明に蘇っていた。そこで少し照れながら美幸が語った信之介への愛情と信頼は偽りではなかったし、確かに存在した。少なくとも隆史にはそう思えた。でなければ、あの言葉は一体、何だったのか。隆史は目の前にいる信之介を見つめながら、悩んでいる自分を隠すように、自分を信じようとせず、美幸も信じようとしない、そんな自分の正直な気持ちに嘘をついた信之介の不貞腐れた態度には何だか無性に腹が立った。
「逃げるんですか?」
隆史が吐き捨てるように言った。
「・・・逃げる?逃げるってどういうこと?」
そう言った信之介の顔色が怒気を含んだように変わると、ラジオをオフにする。するとその場の空気が一気に緊張して張り詰めた。
「・・・だから、このまま松田さんは杉本さんから逃げるんですか?こんな部屋から、杉本さんに対して愚痴だけ吐いてないで、会いたいなら、たとえどんな結果になったとしても、直接会いに行けばいいじゃないですか?気持ちを確かめに行けばいいじゃないですか?」
本音をぶつけるよう隆史は言った。
「ぶざけるな!」
激昂した信之介が、思わずテーブルを自分の右拳で叩きつけた。ドンという低い衝撃音が部屋に響き空気を震わせる。
「お前に何が分かるんだよ!俺と美幸の何を知ってるの?たかだか一度泊まっただけで、何が分かるんだよ!」
信之介が怒りを吐き出した。
「分からないですよ!分かる訳ないでしょ、そんな事!でもあの日、松田さんと初めて会った夏の日の夜に、杉本さんが語った松田さんへの想いや言葉は、絶対に偽りじゃなかった!それだけは言えます!」
そう断言するように隆史が言い切ると、二人の間に静なか沈黙が訪れた。
「・・・もう、いいんだよ。ほっといてくれよ!」
「ほっとけないですよ!ほっとける訳ないでしょ。松田さん、そんなに悩んでるじゃないですか。それに元々、僕が財布無くして、途方に暮れてた時に助けてくれたの松田さんなんですよ。おじいさんの情報集める為に、ラジオ局まで行って大澤さんに頼んでくれたのも松田さんじゃないですか。そんな恩人をほっとける訳がないでしょ!」
信之介は何かを考えるように下を向いて沈黙していた。

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