「陽キャ・陰キャ」を気にして友達選びをする人へ


はじめに

こんにちは、はじめまして。TakahitoYと申します。
過去の人生のエッセイのみならず私の思想とマインドを今後noteで言語化したいと考えていて、その1回目の記事です。

初回のアウトライン


さて初回のアウトラインは「陽キャ・陰キャ論」です。
おそらく20代までの読者なら一度は耳にし、10代や学生のみなさんはこの属性的分断によって苦い思いや経験をされた方もいらっしゃったと思います。

この用語2つで人間性の分断と差別化を可能にしてしまう魔力を持ったワードではありますがこれについてこのnoteで論じていきたいと思います。

それでは始めていきましょう。

陽キャ・陰キャの定義

陽キャとは

陽キャとはみなさんがイメージされるものは一般的に所謂
一軍男子・女子」ですとか「リア充」、「根明のイケているグループ」といったところでしょうか。
類義語を並べて見ましたがその特徴としては
・明るい
・リーダーシップ
・カリスマ性
・積極性の高さ
が共通項なのかなと思います。

陰キャとは

続きまして陰キャに関してみなさんがイメージされますのは所謂
根暗」、「イケてないグループ」「3軍男子・女子」ですかね。
あくまで類義語として想起される言葉を並べて見ただけでしたので差別的な意識は全くなきことをご理解いただけますと幸いです。
この共通項としては
暗い
日陰者
マイナス思考
消極的
が共通項になるのかなと思います。

定義としてのまとめ

陽キャ陰キャのまとめとしては性質が真反対であるというところかなと思います。
この論を進めていくにあたって上記の定義を用いてこの話題を進めていけたらと思います。
それでは次へ行ってみましょう。

陽キャ・陰キャの友達選び

カテゴライズによって引き起こされる溝

おそらくみなさんは一度は経験したことがあると思います。
陽キャになりたい」の願望
それ自体は何ら問題はないと思いますし憧れがベースにあって行動し自分をイノベーションしていくことは素晴らしいことだと思います。
ですがその「ねがい」そのもの自体にコミュニケーション能力の開発といった純な動機であれば素晴らしいのですがその動機の出発点が「陰キャは立場が弱い。」であったり「いじめられないための世渡り術。」が動機であるならばそれは不純だと思うのです。
それ以上に現在進行形の陽キャのカテゴリーに属する方々のおおよそ8割は後者の動機が「陽キャキャリア」のスタートラインだったのではないのでしょうか。

ここに私の話したい本質があり、それはつまり
陽キャの8割は元陰キャだったということ。それも最悪な差別主義的思想の持ち主であるということ。

この不純な動機と思想が始まりのマジョリティの陽キャによって陰キャとカテゴライズされた属性の方々が苦しい思いを強いられるわけです。
これがスクールカーストの肯定化に寄与していると私は考えており、このマインドを悲しいかな。教育者である教員が暗黙の了解として許してしまっている現状に近頃では『陽キャとはまとめ・陽キャになる方法。」といったネット記事を掲載する不届き者メディアも存在する事態になっていて「陽キャ陰キャ論の差別思想が市民権を得てしまったこと。」が問題ではないかと文部科学省も大手を振って再考しなければならない問題だと私は捉えています。

友達選びに関しての個人的視点

私なりの友達選びの視点ですが、そもそも陽キャ陰キャどちらかの属性かを選考基準として使用したことは生まれてこの方全くしたことがありません。
そもそもこの属性は各々の持つ個性であってそれが人間的価値として値踏みできるものではないと考えているのです。
それに、陽キャ陰キャともにストロングポイントがそれぞれあるのでどちらも関わっていて非常に刺激的で楽しいと私は思っていて、
陽キャであるならば「ノリの良さ」が最大の強みなのでたまの息抜きで遭遇したらこれ以上に最高のパートナーはいないと思います。また彼らから見える世界の視点もまた面白く大変勉強になることも多いです。
一方陰キャは「専門性の高い話」が個人的に最大の強みだと思っていて彼らの話を聞くたびにあるジャンルの精通している様に尊敬の念を覚えてしまうと同時に自分がまだまだ浅学であることを教えてくださる賢者そのものだなと感じています。

私が思う陽キャ陰キャ論はこの強みの違いでしかなく、差別主義的論の観点は全くなくそれ自体は"ただの個性"でしかないということ。そう思うのです。

まとめ

「陽キャ・陰キャ」を気にして友達選びをする人へ

陽キャ陰キャを気にして友達選びをする人はきっと「陰キャである」とラベリングされたイベントひとつでその物差しが自分の中に生まれてしまったというだけでしかない、ただそれは学生時代に於いては学校🟰社会のような環境だから苦しみを抱えていること。私自身痛いほど理解していますし、そのお気持ちは物凄くわかります。
ですがそれを持ち寄って人をやり込めたがる人間性の持ち主の人もまたある種被害者なのです。でも「いますぐ慈愛の心を持って接しなさい」とは思いません。
別の視点に立って考察すると彼らはいじめられないべく、舐められないべくの終わりの見えないチキンレースに参加せざるを得なかったのだと思います。
それは、「マジョリティの陽キャ」は誰がみても悲劇なのではないのでしょうか。

私はその分断に対して苦しむ皆さんには"やさしい差別"で抵抗するのがいいのではないかと思います。
やさしい差別とは簡単です。1秒でできます。
「上記のチキンレースに自分は参戦しないと決める。」ことです。
参戦さえしなければ友達選びに差別の観点を持ち寄る必要がなくなります。
逆説的ではありますがこれが本来の差別化になりうると思うのです。
だから"やさしい差別"なのです。
人間見てくれだけは陽キャにいくらでも着飾ることはできます。
ただそれはあくまで見てくれであって個性だけは変えられません。ですがそうであるからこそ個性は素晴らしいのです。

あなたはあなたのままで。


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