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人権の正確な理解について 〜人権の元来の理念とは〜

はじめに

世間には現在誤った人権の理解が広まっています。それが非常に力を持っていると言っても過言ではありません。

この記事では人権の理念、その元来の意味を簡単に解説していきます。

内容に反感を覚えた方はページを閉じてください。これは個々人の独自の見解を否定するための記事ではありません。

確認可能な事実を基に、誤解が蔓延している人権の意味合いを再確認する意志のある方に向けての記事です。


人権とは誰かに与えてもらうものではありません。言い換えれば誰かに対し与えたり認めるものでもありません。また「人権は人権」といった繰り返しで意味を成立させるものでもありません。

さらには、男性の女性のといった人に備わる性質を前提にするものでもありません。

言葉による誤解が生じやすいものとも言えるでしょう。

人権とはなにか。
それは人のもつ認識の力とその使い方、そしてそれが平等であり誰かに弾圧されてはならないとしたものです。
基礎は認識論にあると言ってもよいのですが、専門的な用語をなるべく使わず簡単な言葉で解説していきます。

この解説を読まれた方に、人権に関する多くの誤解による悪影響から自分や周りの人を守る力が備わることを願います。

人権の元来の意味

それは人の認識と意志の自由のことです。それらが長い間宗教の権威を背景とする権力や世界観を元に弾圧されてきました。それを乗り越えるため、また歴史の反省として人権理念は成立してきました。

発祥はヨーロッパです。ニュートンの業績を始めとした当時の科学的発見が、正確さを検証する人の認識の力が平等のものであるという発想に大きな説得力をもたせました。この発想は階級社会の壁や更に国境や文化圏も超えて広まっていきました。この発想を土台にし人権理念は理解されていきました。

人権の理念は、国家(より詳しくはその権力や権威)が個人の認識や意志の力を否定したり抑圧したりしてはならないとするものです。
なので人権を基礎に置く国は憲法に人権を守るようにと定めています。

また、認識や人の意志とは人間観や哲学的な認識論(人は物事をどのように捉えるか)が基礎とされているため、各国の人間観が色濃く反映されるものです。同じ人権を扱っていながら、各国で制度や文化に対する捉え方が変わってくるのはこの哲学や人間観の違いの影響によるものです。
なので安易な「海外ではこうだから」といった権威的な断定に左右されてはいけません。細かい確認が必要となります。

人権が成立するまでの歴史

国家と個人の関係性について扱われる「権利」や、大きな力を持った古代の国家の「権利」の捉え方またはフランス革命での「権利」概念など、人権の提唱や取り巻く出来事などによって権利には様々な切り口があります。
この解説では現代の人権理念の直接的な由来となる、科学的な思考の基礎である理性や自由意志と権力との関係を整理するものとしての人権理念について、理解に必要なものをなるべくかいつまんだ解説になります。

16世紀のヨーロッパで宗教改革と呼ばれる出来事がありました。

これは現代のEUに当たる地域で、優れた科学技術や宗教の古い資料が東側から伝わったことにより、停滞していた科学や芸術など多くの分野で目覚ましい発展が起きたことがきっかけとなります。この発展はルネサンスという名称で有名です。

それまで何百年も、現代のEUの地域(当時は神聖ローマ帝国やフランス王国やスペイン王国など、貴族と宗教の階級社会で成り立つ国々だった)では、経典の資料研究も科学的な研究も文化的な事柄についても、個人による自由な展開が可能なものとは言えませんでした。聖書との整合性を取る方が社会的に優先事項とされていたからです。
なぜ優先されていたかというと、王の権力は神が認めたものとする名目や正当性をキリスト教の教会が保証するという形を取っていたため、聖書の解釈や聖書自体に疑念が持たれるような研究結果や意見が弾圧されてしまいました。何百年にも及ぶ停滞の原因となったものです。

そこで東側からの科学技術や宗教の古い資料の流入は、宗教組織の内部の人や貴族に大いに意識の転換を生じさせました。また航海術や印刷技術の流入によって、庶民にも豊かさと共に芸術や文学の魅力や教養の大切さなども広まっていきます。開放的な社会へと変化する兆しが現れてきました。

しかし、その開放的な方向に進んでいたはずの聖書研究や印刷物による言論活動の活発化の波に乗って行われたある教会批判が、教会と密接に結びついていた神聖ローマ帝国に反感のあった国々による主導権争いに左右されてしまいました。
その結果、大規模な宗派の分裂と共に、それぞれの宗派の後ろ盾となった各王国の大規模な対立状態を引き起こします。

開放的な空気があった頃には、王を選挙で決めたり女性の教育の重要性や言論出版の自由の原型ともいえる提唱がなされたり、また平和運動などがなされていました。しかしこの分裂はその動きに壊滅的な打撃を与えてしまいました。

その後、各国の勢力拡大と同じ意味となった宗派ごとの布教が海を超えて地球規模で拡大します。それは各国の勢力争いと直結する世界中の支配地域の獲得競争と同じ意味を持ってしまったため、現代にまで長く続く戦争の時代へと入っていきました。
その最中では魔女狩りや被支配地域に住む人々への苛烈な弾圧が繰り広げられていきます。


そうした時代の中でも、教育の重要性や平和や人間性を重視した当時の理念は細々と受け継がれるものでした。
その哲学や法律学や数学など科学の地道な探求の延長線上に現れたのがニュートンとジョン・ロックです。この二人の登場は大きな転換のきっかけとなりました。

それまでの教会が全てを決めていた様々な理論は、ニュートンを始めとする科学者の研究成果と比較されていきました。
現代の科学に通じるその厳密な検証の技術は大いに説得力を持ちます。それにより「科学的な正しさとは検証による客観的で普遍性のある確認された事実であり、その分析する力(理性)は誰しもに備わりまた磨けるもの」という考え方が広まっていきました。


そしてジョン・ロックは、それまでの法学や哲学や人権論の研究の流れを受けながら人の理性や平等性を基礎におく理論を取りまとめました。
これは国家と個人の関係性を定めた理念であり、理性と個々人の自由意志を国家が抑圧したりしてはならないというものです。これが人権です。
それまでにも人権の研究はなされていましたが、ジョン・ロックの提唱は重要なポイントと言えます。
アメリカの建国や現代の人権論などにつながる影響を起こしました。

人権とは認識論でもある

人権を言い換えると、培われてきた法律論や科学や哲学などを背景にした、戦争や宗教などによる弾圧に人々が平和を求めて立ち向かうことを正当化する理論と言っても過言ではありません。

他の特徴としては、哲学や科学を基礎にしていたため各国の当時主流となっていた人権観が反映されるものでもあります。

例えばイギリスでは、古くからの法律が国家の運営に大事な役割を果たしている場合活用していこうという発想が用いられました。これは経験的な認識を重視する哲学の影響です。

フランスでは個々人の理性による発想から生み出された共通見解を国家の運営で重視しようという発想が用いられました。これは数的な認識を重視する哲学の影響です。

このイギリスのまたは王政による国家運営に必要な要素を重視することを保守と呼び、人の平等性を重視して王政の背景となる階級制を除いた新しい手法を重視することを革新と呼びます。

フランス革命当時の議会において、議席の左右に分かれた保守的な議員と革新的な議員の様子が現代の右翼と左翼の語源となりました。
右翼や左翼とは単に重視している物事の違いではなく、認識論の違いを指すものなのです。


こうした政治に対し参加する権利も参政権として人権と定められ、理性的に取り決められた条約を重視する国際関係の波に呑み込まれないようにしたのが、日本の明治維新より始まる明治新政府の発足でした。
この頃から諸外国の文化や科学の取り入れと教育や一人ひとりの国に対する市民の責任意識などが高まっていきます。大正時代の人々の、生真面目で哲学などを重視する印象にはこうした由来があるのです。

それらは人権を理解し、出来事を正確に分析する個人の力と意志を大切にする風潮でもありました。


18世紀の人権運動が盛んとなった時代のイギリスでは、女性に詭弁を見抜くための論理学が教えられていた記録が残っています。これは人権つまり人の認識や自由意志を否定する理屈が、詭弁によって正当化されていたそれまでの歴史の反省に基づいてのものでした。

こうしたことから、人権の話をする際に詭弁を用いるのは悪質なものと捉える必要が見えてきます。


人権の誤解


人権が提唱され、階級社会からの転換(革命)が活発化した18世紀以降は、人権に対する誤解が多々生じました。

理性や意志を基礎とするため、そもそもは人自体に備わるあるいは人が基礎であるとされるべきです。しかし、欧米言語は人を指す単語がManかWoman(※例として英語で)のどちらかを用いるのが主流でした。
それまでの権力観や人種観や様々な思惑もここに混じり、人権は「男性のもの」あるいは「白人のもの」などの偏った捉え方も広まってしまいました。

ただ、それは声の大きい人の発言が力を持ったとも言えます(平等の教育の重要性を個人的に理解する人も沢山いた)。
戦争の主に命を掛けるのが男性という事柄や、それまでの制度の前提になる考え方がぐらつく事への不安なども、その誤解の社会の中での広まりを助長した要因ともなりました。

しかしこの誤解は地道な人権運動により解消されていきます。

もう一つ、最大の注意すべきものといっても過言ではない誤解があります。

それは自由意志や検証する力を否定する発想により行われる人権解釈です。

これは基本的には「人間は精神も物質でできているため、必ず社会は支配と被支配に分かれていく」といった、未来は決定しているという発想が特徴です。
「必ずそうなる」という結論の土台となるのは、心までも物質的なものと見なす唯物論と、未来は決定的なものであるという決定論(運命論)の2つが大きなものです。
注意すべきはこれらの理論が土台でありながらも、これは「人権の正しい解釈です」というように、既存のものの定義を入れ替える形で広められる特徴があることです。

具体的には「必ず社会は支配被支配の関係になるから、支配者を打倒すべきだ」という思想などです。こうした発想が自由に政治や哲学を学んで社会をより良くするための個人の自由のを指した人権の、広まりと同時に中身を入れ替える形で広められていきました。隠れ蓑にするような形です。

なので一見して自由のための革命を唱えているようにも見えるのですが、中身が違うものには非常に注意しなくてはなりません。


この発想が基となる誤解の具体例としては

・女性の権利運動は生活に余裕のある女の道楽である
・フェミニズムは「男並みを求めた」ものである
・必ず支配する○○(国、人種、性別、宗派などが入る)を打倒しなければならない

などが挙げられます。

人権は自由な意志の存在を基礎とします。性別や人種など様々な要素には左右されません。人自体に、保つべき大切にすべきものがあるとするものです。

必ず人はそうする(そうなる)といった決定論を正しいと信じて他人に広める行為は、「自分はそうなる」という決定論を認めていると表明しているのと実質的には同じです。

なので「○○を打倒せよ」といった理屈とセットとなる解釈が行われた人権観の流布は、自由意志や解釈の検証の余地を認めない、その思想信じて広める手先を増やすことと同じとも言えるものです。


この発想を広める理屈の特徴としては、三段論法で他人の意志や立場などを否定しながら断定を繰り返すところです。
それは「検証の余地のないほどの正しい事実」を口にし広める様子と言ってもよいでしょう。
明らかに、科学的な検証を重視し権威に惑わされない個人を重視する人権的な考え方ではありません。

しかしそうしたものでも「これが人権だ」広め続けます。
つまりは社会の、人権を大切にしようという人々の善意や共感を逆手に取った広め方とも言えます。


この動きの一例としては、ヨーロッパで大規模に人権思想(革命思想)の広まりを抑圧した、ウィーン体制という指導者間の連携が行われた最中に現れました。

抑圧する支配者層を暴力で打倒しようという思想が人権を求める人々の中で広められたのです。それにより暴力的な革命運動が行われ、武力による鎮圧が繰り返されました。

この経緯によってヨーロッパの人々に暴力革命思想に対する忌避感が備わりました。それは後の人権運動の平和と穏健を旨とした運動につながり、それが女性参政権運動へと発展し世界的な動きとなって今に至る成果を残すこととなります。

そして今なお、その女性参政権運動まで「男並みを求めた」といった解釈がし広められて大きな力を持っているのも現状なのです。


誤解への対策

大事なことのまずひとつ目は、人権を基礎にしなければならないというルールの存在とその成立の理由を念頭におくことです。
成立の理由は、弾圧から人を救おうとした無数の人々による、「国は人権を守るべきもの」という社会のルールとしてきた努力の成果ということです。

これはルールに縛られろという意味ではありません。

人権とは、権威主義や戦争への働きかけに対する具体的な対策を示しているものです。それだけでなく、個々人の発想や勉学や芸術活動の可能性を保つ具体的な指針もまた示されているからです。その元来の理念を大切にしなければなりません。


認識論、つまり観点や考え方の切り口の違いによる対立の容認でもありません。それも一つの誤解と言えるでしょう。
お互いの認識の違いを理解するために抑えるべきことの指針でもあります。

学問の自由や義務教育は、こうした認識の力や基礎的な制度の理解を育み後押しするものとして存在します。表現の自由は、異なる観点では一見間違いに見えるものも大事な事実を示すものかもしれません。よって、万人が検証可能な形で表明する権利が守られるべきものとしてあるものです。この視点で言えば表現言論出版の自由とまとめて言ってもよいものでしょう。

誤解を見抜くための具体的な特徴と対策を以下に述べていきます。

権威主義的な「これが正しい」と強調されるもの

科学的な発想を人権は重視します。科学的な発想とは皆の検証する力に耐える(言い換えれば支える)事実を重視するということです。

「海外では」「○○学の最新の学説では」などの前置きは検証ではありません

具体的なその中身が大切です。
政治家や学者などが検証の余地を認めない「権威的に正しいとされること」を示してきた時には、検証過程が存在しているのか、誤った三段論法による結論づけがないかなどを見極める必要があります。

言い換えると、正否を安易に断定しない、個人の毅然とした態度が重要であるということです。

時系列が入れ替えられた理屈や証明にならない証明(詭弁)が使われているもの

人権の話で詭弁はNGなのは先程述べた通りですが、それは法律や条例などの正当化に使われた場合にも要注意です。
結論が一見正しく見えるもの、あるいは既に一般的に常識とされているものでも、人の認識や意志の自由を否定するための論法が入っているかもしれません。

自説を正当化するための時系列や因果関係のすり替える論法や、証明されていない結論をさも証明されたかのように見せかける論法に注意する必要があるということです。

言い換えれば、「その結論を導いた具体的な検証があるか」という質問が力を持つ(大勢が重視する)社会にならなければいけないとも言えます。

いずれにせよ、不当な決めつけが行われていれば注意を払う態度が大切だと言えます。


なぜ人権が大切なのか

「なぜなら人権だから大切である」というぐるぐると定義の参照が循環する理屈によるものではありません。

なぜ大切かを示す具体例としては魔女狩りが分かりやすいものです。


魔女狩りは当時の法学や悪魔学や神学などの様々な当時の学問的に正しいとされた理屈が組み合わされて作られた魔女狩りの手引本が、大規模な虐殺とそれを正当化する理不尽な裁判の根拠とされました。

各地で「権威的に正しい」とされた(誤解した)その本を根拠に行われる裁判や処刑に、いくら法学者や悪魔学者や魔術学の学者が異を唱えても救えたのは全体の一部にしかなりませんでした。
よって、そうした経緯を知るための教育や、事実を検証する慎重な態度、適切な裁判を受ける権利などの大切さを明確に指している人権は具体的な指針として有用だから大切なのです

もしいかなる思想が目の前に突きつけられても、人権理念を理解している人にとっては思想と自身は別であることや、それが何らかの背景により生み出されたものであるから「誰かの研究材料として」放置しておこうという賢明さを示すことができるでしょう。
だからこそ人権の曲解へと導く世論や盲信には非常に注意深くならなければなりません。


それは「人権は大切」と既に言われている今の社会であっても変わることはありません。

なぜなら言葉そのものは本質を意味するものではないからです。トマトという字の書かれた紙をトマトとして食べることはできないことからも明らかです。つまり人権もトマトも、その言葉が何を指しているかを理解していなければならないということです。

むしろ常識とされる社会であれあるほど、「何を指しているのか」を厳密に確認する必要がでてくると言えます。

例えば、時たま見受けられる「表現の自由とは誰もが嫌う表現でも存在権利である」には厳密には間違いがあります。

「好きか嫌いか」という、表現を認識した(見聞きして意識に捉えた)ことで生じる感想は前提には来ないのです。あくまで個の意志により発表することの自由です。

「表現の自由は公共の福祉に反しないものに限られる」という理屈による特定の表現の否定も間違っています。まず表現の自由に条件が付いていたのは大日本帝国憲法までのものであり、現代の憲法には無い発想です。また個人の感想を公共の福祉と同一視する発想でもなければ、感想を排除の論拠とする理屈でもありません。


その表現言論出版が行われたこと自体を権利の行使として守る態度が大切だということです。
いかなる内容の感想や世論でもそれによる社会的な排除が引き起こされたなら、問題の核は感想や理屈が真っ当かどうかではありません。
他者の内面や意志の決めつけによる排除は、多種多様であるはずの個々人の認識や表現または経済活動などの権利の阻害という人権否定であるから問題なのです。

排除の根拠となる感想の真っ当さなどは重要ではないのです。

いかなる感想を持つのも自由です。その感想が元となる他者の自由や権利の否定が起きるということは、人権や法律よりも上位の価値基準が社会に生じたということに他なりません。

魔女狩りに様々な当時の学者が「おかしい」と声を上げてもひたすら理不尽な裁判や虐殺が続き止められなかったことと同じです。そのような悪しき実績が積み上げられるほど、反人権的な発想の発信元とそれを信じる人による上下関係の強要は止めようがなくなっていくのです。

道徳としての人権と権利としての人権

この2つの捉え方はよく議論を引き起こす原因となる視点の違いです。

どちらも正しいものでありかつどちらも正しいとは言えません。これは人権の歴史を辿ると訳が分かってきます。

人権が大切だと広く理解されたことにより起きたのが革命です。そのことからも分かるのが階級社会や考え方の縛りを拒否するものであるということです。

国が人々が助け合って生きていく枠組みや機能として必要なものと認めつつ、それが人を抑圧し戦争などの殺し合いの号令を発する機能を持つことも理解するからこそ、国が個人の権利を侵害してはならないものであり万人に備わる客観的な事実(科学的な検証や発見)を基にした運営を行うべきとする人々から権力者に対する動きが生じたのです。ここから、人々の協力する仕組みの一つの基礎として王族を認める国と王族を廃して理性に基づいた市民による運営を求めた国など、違いが生じていきました。

これらは各国の哲学、つまり人の認識の力である見聞きし確認できたものの範囲の確実さを重視する経験論や星の運行などを予測可能とする数的な論理性を重視した大陸合理論などの、哲学、認識論の違いが現れたものです。

そしていずれにせよ神の存在も万人に平等のものでありながら宗教やその解釈が、政治権力を左右し個人の意志や科学的探求の抑圧にまで働いていたため、近代国家では政教分離が必須のものとされました。

なおかつ古い聖者の尊い教えの肝心なこととは、宗教組織やその権威に彩られた権力者あるいは一方的な正しさを押し付ける学者の言い分ではなく、資料の確認や個人の誠実かつ理性的な教えを吟味したことで身につけられる「人としての徳目にある」ともされました。それが国を運営する責任を一人ひとりが担うこれからの民主主義社会に、反映していこうとする動きが19世紀後半からの人権運動の広がりと哲学や美徳を重視する風潮につながっていきました。それは啓蒙時代と言われるもので、日本でいえば大正時代の生真面目な人々の姿を想像すると分かりやすいものです。海外の哲学や言語や自国の文化を大切にし、なおかつ世界各国の人々の交流も非常に盛んになったものでした。

そのような文脈を持つRights Of Man、Human Rightsは、理性や徳目や個人の自由意志を大事にするという意味合いを持つものであり、それが人権と翻訳されたのです。

よってどちらも正しいとは言えますが、「こっちの方が正しい」という討論をするのは不毛ですし、また相手にどちらかを(ある意味両方でも)押し付けるのも不毛というものです。

元来の意味合いを理解することに努めなければなりません。


人権のそれぞれの意味を再確認する

人権として様々なものが学校では子供達に、社会では誰しもに紹介されていますが、それぞれに独自の解釈が加えられそれが一人歩きを起こしているのも事実です。

元来の意味合いを簡単に解説していきます。


表現、言論、出版の自由

 これらは個々人の意見の発信が権力や理不尽な理屈による妨げを受けることはないという意味です。公のルールとして大切とされる理由は、国や人々が間違いを正しいと思い込んでいる際に気づいた人がそれを指摘している可能性があるからです。

これは少数や多数の意見の正しさを意味するものでは断じてありません。いずれにせよいかなるものも吟味されなければその正しさは証明されないのです。

更に言えば不当なレッテル貼りやいじめなどによって自分自身は意見を発信してはならないと思い込んでしまうのも、突き詰めていくと自分に対する人権侵害であるとも言えるでしょう。人権とは理念自体が人に勇気を与えるものなのです。


信教の自由

 これは前述の宗教が政治や個人に多大な影響を及ぼしたことにも関連していますが、個人に対してであれば神やいかなる教えも自分の意志で選びまた学ぶことができるものと言えます。古代の聖者が儀式や名目よりも精神性を大事にしたように、形ではなく本質を見極めることが大切であることを示す大事な理念と言えます。アメリカ合衆国が真摯なキリスト教徒達の移民から始まりながら信教の自由を掲げたことからも、信教を何よりも重んじながら大切なのは自身と心のあり方だと示す、毅然とした態度が偲ばれる深みがあるものです。

経済活動の自由

 これは財産を持つことや経済活動が権力者などに抑圧されたことに由来するものです。単に商いや蓄財が阻害されたからというだけではなく、異様な振る舞いをする権力者に対する抵抗する力を蓄える自由ということも表しています。これも個人の話へと突き詰めていくと、例えば家庭内で家計のために勉学を諦めて働くよう命じられることがおかしいと理解する糸口ともなるものです。こうした問題は勉学をさせないことに注目がいきがちですが、個人が自由な意志や可能性を発揮するためには経済的な豊かさも勉学も、両輪のように大切なものです。適切な経済観念を身につけることの重要性を意味するものでもあります。

学問の自由

 これは正確な事実とは何かを検証するための権利で、ガリレオが宗教裁判により見解を撤回させられたエピソードと関連すると捉えると分かりやすいものです。この一連の説明が正しいものかどうか、確認や推論を立てる手法や認識の正確さの追求や文献を確認する方法などが今でも磨かれ続けています。それらの技術や認識の力を身につけるのは人権を基礎にした民主主義社会で必須であるのはこれまでの説明によっておわかりになるかと思います。

義務教育は単に知識の出し入れ方を身につけるためあるいは高収入への道に乗るためのものではありません。それらの学問において現段階で検証に耐えうる事実を子供達に伝えるものであり、目的は正しい認識の力を身につけ事実を確認し人としての自由を更新し続けるためにあるものです。それが先にあるものであって、学歴などで自分や他人を格付けるのは人権理念には反するものと言えます。基礎的な意味を知った上で、身につけた技能を用い収入を得ることをおかしなものではないという理解が適切だと言えるでしょう。


参政権

 これは国家と個人の関係性を整理している人権において重要な権利なのですが、「所有している権利」のような捉え方をしている日本において、これまで説明してきた元来の文脈に基づく「人権」として参政権が扱われる場面は非常に少ないと言えます。「政治が悪いのは政治家が悪いから」という他人事あるいは他人の責任として捉えるのは個人の理性や自由意志を基礎にする国家の運営という理念から見た場合、全くその本質を分かっていないということになります。

科学の分野では常に様々な事柄の検証が行われ身体や生活に関わる技術も更新されていきます。社会にそれらを新しく反映させる努力とともに、捻じ曲げられがちな人権という言葉の本来の理念を守るためにも、人権を基礎とする社会の私達は常日頃から努力しなければならないとされています。

個人を弾圧し得る国家権力を左右するわけですから参政権の扱い方には注意を払わなければなりません。

政治や政治権力のおかしな扱い方を見つけた際には毅然とした態度で適切に参政権を行使しなければなりません。もしその時おかしな解釈や思惑を通すために行使すれば、それは泥沼の討論と対立を引き起こしかねないものです。疑問の起きる主張や解釈などには適切な距離をもって確認を重ねるのが肝心です。

常識的な基礎について再確認する態度を共有していることの大切さが際立つ権利と言えるでしょう。


自由権と社会権

人権はその概念として大きくこの2つの分け方があります。

人間の理性や意志の力そのものに立脚する個人の振る舞いに関するものを自由権といい、

その活動によって作り出された社会制度の恩恵を受ける権利を社会権と呼びます。

例えば、子供達の教育に役立つオンライン教育の仕組みを作り上げるのは自由権を行使した結果と言えます。その仕組みが国や地方自治体の公共サービスとして採用された場合は社会権として皆にそのサービスを受ける権利が発生するということになります。

時代毎に様々な技術が生まれ社会問題も複雑化していくことから、2つの視点に基づく再確認を適切なタイミングで行うのは非常に大切なことです。

またこの2つの分け方は一般的な捉え方ですが、人の認識の仕組みや哲学が大きく影響するのが人権ですので多様な解釈があります。ただ基本的に人の認識の力と自由意志を発揮する個人の自由(成長し力を発揮していく)ことを基礎とし、それを不当に抑圧してはならない、公のサービスは皆が受けられるものといった基礎的な部分は、様々な解釈の中でもそう大きく変わりはありません。

これらのことでも調べていて疑問が生じた場合は、解釈で安易に断定せず事実確認を進めましょう。


人権を守るには

ひとつは上記のような人権の基礎となる要素を理解することです。

簡単にはわからない人権の否定やそうした風潮に気づく力となります。

もうひとつは、人権侵害に対する適切な対策は法律でまとめられていると理解しておくことです。

なぜなら、お互いの人権を否定してしまう主観的な理由による争いを避ける傾向が人権理念にはあります。それは歯止めの効かない暴力の追求に至った過去の反省でもあります。

様々な法律は誰か特定の人だけに限定されたりはしていません。法的な手段は煩雑なものが多いとは言えますが、難しい言い方ですが人の心の理解する力と矛盾しないようにできています。地道な確認で必ず誰しもが恩恵を受けられるようになっているということです。

自分が自分や他者の人権を守る意味があると理解し適切な方法(法律や制度)について確認し、それを実行に移すことが大切です。


また、世間にはびこる人権の曲解を受け入れないよう注意しなくてはなりません。

人権について嘘を信じさせる行為もほぼ人権侵害であると言えるのではないでしょうか。

「お前には人権は無い」から「表現の自由は制限される(だからお前のは出してはならない)」とは、言われた人の多くの可能性を奪うものです。言われた側が独力で乗り越えることは大変ですから善意の第三者が助けることも大切ではあるものの、やはり言葉の理解や成立の歴史を知るといった「学ぶ」ことの重要性がここで再確認されます。


まとめ

現在、世間には人権に関する様々な誤解が満ち溢れています。

人権は性別を前提とする、(特定の表現を標的に)人権は制限される、他人を犯罪を助長するあるいは犯罪者予備軍であるとするなど様々です。


目に入ったものへの反感や好意などの感想、また情報の内容や伝聞などではなく、「そもそも権利自体が侵害されていないか」という吟味が重要です。

その話し合いをする中では、あいつは悪だあるいは善だといった2つの結論(二元的と言います)に向かう議論に意味はないのです。できる限り事実を確認し、適切な方法(法律や制度)を用いて個人の人権が守られているかを大事にする必要がでてきます。

そうした態度を進めていくと、政治や議会などで起きることや複雑な法律の手続きによってようやく声を挙げられることなどが出てきます。その時に私達の中から代表として選ばれた議員や、弁護士や司法書士などの法律の専門家の手助けを受けることもできます。


このように私達は人権を守るためにお互い助け合う仕組みのある社会に生きています。

「とにかく人権は守らないといけない」道徳的あるいは循環的な定義付けでの人権観はそれらの大事な要素を覆い隠してしまいます。

なので記事を読んでいただいた皆さんに、人権の具体的な意味合いとその有用性について再確認していただければと思います。

今回の記事がそのきっかけになれば幸いです。
お読みいただきありがとうございました。


※バナー画像は国立国会図書館「本の万華鏡」 (https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/28/3.html)「鐵骨組立全景」を加工して作成しました。

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