見出し画像

マイノリティ

LGBT理解増進法の議論が熱くなっている。
私の事務所にも反対の方から電話が入るくらいである。

正直なところ、LGBT活動家の方々が権利を求めれば求めるほど、活動家ではない方々の肩身が狭くなるのではないかと懸念する。

ちょっと前にマスコミの方から、こんな話を聞いた。
「LGBTの知り合いがいるのだが、その人は不当な差別などされたことはない。だから特別な権利など求めていない。そっと幸せに生活できればいい」と。

差別に不当も正当もない。そもそもあってはならないことである。しかしながら、具体的にどのような差別を訴えているのか、仮に性自認の人たちの6割以上が、差別を感じたことがあるのであれば、具体的な差別の中身を明確にできると思われるが、そこは私が分かる限りでは明確にされていない。

あるとすれば、カミングアウトできない環境を差別と感じているのか。性的少数者であるが故の苦痛を訴えているのかもしれない。

LGBT活動家の方々は十分がんばっていると思う。何故なら、全てではないが、地方自治体において「パートナーシップ宣誓制度」が用いられている地域もあるのである。

この「パートナーシップ宣誓制度」の権利として「公営住宅の入居が認められる」ことや「家族に近い存在として公的サービスを受けられる」等。例えば家族割とかクレジットカードなど、家族カードの作成が認められる。

個人的には大した話でもないように感じる。
しかしながら、性自認の方から見れば大きな前進なのであろう。

有名な話だが、アメリカの水泳選手に性自認の選手(体は男性、心は女性)がいる。身長は190センチもあり、体は全くの男性。性転換手術はしておらず、そのまま女性用水着を着用し、試合に参加しているとのこと。

アメリカの大学の大会では金メダルを取りまくっているそうである。
そりゃそうだろう。体は鍛えられた男性なのだから。

問題は(そもそも問題なのだが)女子更衣室でも隠さず歩いたりして、他の女子選手が関係者に「何とかしてほしい」と頼んでも、「我慢するしかない」と断られる。何故なら、裁判で訴えられたら、注意した人が負けてしまうからだ。

それこそ差別である。
性自認を明らかにするのであれば、お互い「迷惑」をかけてはいけないし、「共存」するための最低限の「マナー」もあるのではないか。

今、日本でも法整備のされた諸外国に近づくための議論が続けられているが、わざわざ当事者がカミングアウトしなくても、「性自認を受入れられる社会になるのであれば法整備など必要ない」と感じている。

これ以上「差別」というワードを盾に性自認の活動家の方々は戦うのであれば、性自認ではない方々の立場からすれば、逆にそれは差別になるのではないのかと思う。

具体的には、性自認の女性が女性更衣室で着替えることに不快を表す女性の権利、性自認の男性が男子トイレで男性と共に用をすます時の違和感。

自己申告すれば平等に扱われるといった矛盾(犯罪や悪用の可能性)の整理をどのように説明するというのか。そこまでして法整備する必要があるのか疑問を感じる。

実際にアメリカでは、高校女子バスケチームの一人に性自認の方がいることから、相手チームは試合を拒否。失格になるという事態が起きている。法整備されたアメリカでは、失格になったチームは泣き寝入りするしかない。

体をぶつけ合うスポーツでは、このような事例は他にもたくさんあるのであろう。


話は変わるが、私が子どもの頃、祭りに行くと「見世物小屋」があった。
そこには身体障害者の方がいて、変なストーリーを弁士みたいな人が説明しながら障がい者を見世物にして、商売していたという時代がある。

偏見の最たるものであったと思う。

それが許された時代だったからでもあるが、今だったら逮捕されるだろう。

時代は変わり、世界の常識や日本の価値も変わり、健常者も障がい者も、互いに助け合い、補い合う。共に共存し、芸能文化・スポーツを共に行い、社会が成り立っている。


上段の話とは全く認識は違うのだが、性的少数者も、それを売りに夜の商売を行い、サービスを提供することから生活してきたという事実もある。

言いずらいのだが、これまでは色物的な売り方をする店舗もあるし、しない店舗もあるだろうが、いずれにせよ、お客を求めることから偏見や差別につながることもあったかもしれないし、なかったかもしれない。

もし、求めている差別や偏見が違うのであれば大変申し訳ないのだが、法整備を求めることから、将来的には、いわゆる「おかまバー」や「おなべの店」といったジャンルの営業形態も法律に縛られたものに変わっていくかもしれない。

または解釈によっては、性自認以外のお客が来店すること自体が、差別を認めていることになるかもしれない。


最後にひとつだけ分かったことがある。

多数派の人たちの中でも、若い人を好む人もいれば、年配を好む人がいる。性欲が強い人もいれば、弱い人もいる。ロン毛が好きな人もいれば、短髪を好む人もいる。

いわゆる、人間として生まれ持った性のアイデンティティが、たまたまそうであっただけであり、それは人間であれば誰にでも起きうることであるという認識を理解しなければならない。

理解が進んでさえいれば、LGBT理解増進法の議論など必要なかったと考えるし、進むのであれば「パートナーシップ宣誓制度」だけで良いのではないかと思うのであった。