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ありのままでいさせてよ

文芸誌に載せたいということで何か新作を、とエッセイの寄稿依頼があった。
とはいっても、全国的なものなどではなく故郷の田舎町の文芸協会のものだ。
じつのところ母が会長を務めているというだけで私に依頼が来たにしか過ぎないのだが、その地域では戦後まもなくから続いている歴史があり、1,500円で書店にも並ぶし、近隣の市町村の図書館にも備え付けになるので一目置かれている文芸誌だ。

早速、原稿用紙にエッセイ2本を書いた。編集者の方に送る前にまずは母の元へと郵送をしてみた。数日すると母から「原稿が届いたわよ」の電話。しかし母の結論からいえば、その原稿は編集者には見せられない出来だという。
理由は、エッセイに10年前からの闘病生活が今なお続いていることを記したからだった。そのうえに離婚経験者であることも盛り込んでしまったので、母にとってその原稿は、恥ずべき作品とのことだったのだ。

原稿がボツだと告げられたことよりも気にかかったのはその態度だ。もしや、と思ったことを尋ねてみる。「ねえ、お母さん。もしかして周りの人たちには私が闘病生活を送っていることを話してないのね?」母はそのとおりだと答えた。

歌人として認められている母。文芸協会の会長をしている母。そんな名誉ある地位にあるゆえに「娘は病で臥しています」とは恥なので周りの誰一人に言えることではない、と私のエッセイ作品と私の生き方を否定した。
悲しかった。
エッセイ原稿にダメ出しをされたからではなく、体裁ゆえの言動が悲しかった。娘がどんな思いで長い歳月を闘ってきたかよりも世間体を気にして優先する様子に落胆した。

しかし、母が世間を気にして周囲の人たちや親戚にすらも、私の闘病生活を隠すのならば、それはそれで仕方ない。けれども、「私」というひとりの女性が、たとえ息子と生き別れても、離婚をせざるをえない状況をくぐって来ても、幾度かの手術を経ての闘病が続いているにしても、それでも、人生に対して果敢に挑み、歩いていることまでも決して否定されたくないと思った。

「つくろわずに今の私のありのままでいさせてよ」・・・言葉を飲み込んだ。

苦難の多い人生かもしれなくても、闘病しているという現実のみっともない姿でも、私は今の私が好きだ。
ありのままの私を否定されるのならば1,500円の文芸誌に私のエッセイが載ることはなくてもそれでもいい。図書館に私のエッセイが置かれなくてもいい。
なぜなら私は毎日の暮らしに笑顔とユーモアを添えながら生きているから。「今の私」にプライドを持って生きているから。

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