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高田マル編著『忘れられない絵の話 絵画検討会2020-2021』試し読み

ーー54人が語り言葉で描いた、図版の無い「記憶の絵画集」

高田マル編著『忘れられない絵の話 絵画検討会2020-2021』を2022年2月に絵画検討社より発売しました。
本書には、画家の高田マルが1年かけて聞き集めた、さまざまな「絵を見る人」の「忘れられない絵の話」54編を集録。ハンディな新書サイズながら、全944ページ、厚さ4cm、と大ボリュームに仕上がっています。

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そもそも、絵と私たちはどう関係し、絵のなにを覚えているのでしょうか?
1対1の会話で記憶の絵画を描き出す本書は、それを緩やかに浮かび上がらせる試みです。

全国の書店でご注文、ご購入が可能です。ネットショップでは、下記でのご購入がおすすめです。

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このページでは、冒頭の文章と目次、54編のうちの3編を試し読みできます。ずらりと並ぶ目次は本書の特徴のひとつ。たっぷりお読みいただける試し読みです。では、どうぞ!



「見えない絵画と言葉で踊る」 高田マル

絵は、人々に見つめられながら川をくだっていく。絵はある人の前を通り過ぎ、ある人は絵の前を通り過ぎていく。過ぎ去ったあとにはなにが残っているのだろうか? あるいは、なにかが残るのではなく、土が削り取られ川が流れを変えるように、なにかが変容しているのだろうか? 

わたしは画家として活動し絵画作品を展示発表しながら、本書の版元でもある「絵画検討社」という出版社を運営している。なのでこれまで、自分の絵画を作ろう作ろう、話そう話そうとしてきたけれど、あなたの絵画を知らない。しかしそもそも、絵を描く人より、絵を買う人より、絵を見る人のほうが圧倒的に多いはずだ。絵を描くという行為の川下には、絵を見るという行為がある。わたし自身も、自ら絵を描いたあとにはその絵を見るように、人と絵の関係の半分は絵を見るという行為によってかたちづくられている。そんな当然のことに気がついたのは、苛烈にひとりぼっちになったコロナ禍だった。

2020年の初夏、わたしは絵画検討社の一冊目となる本を刊行するにあたって、4月中旬に東京・池袋での出版記念展示を予定していた。しかし、新型コロナウイルスの蔓延によって、その予定は崩れ始める。展示は延期に延期を重ね、感染拡大と緊急事態宣言にもとづく休業要請によって会場が休業となり、やれるやれないの繰り返しに疲れ切った頃、開催日未定のまま無期限延期することとなった。さらに、本の発売日が多くの書店が緊急事態宣言を受けて臨時休業する時期と重なってしまった。

長く準備してきた本を手に取ってもらえる機会がほぼ無くなったこともショックだったけれど、それ以上に、展示という、画家として作品を発表し人と関わる数少ない機会を、なんの目処も立たない状況で失ったことは大きかった。一人暮らしの部屋に引きこもり、いつ始まるともわからない展示に向けて絵を描きながら、いずれそれを人に見せることだけが遠くにひかる日々が突然始まった。

生きる意味を記すように、毎日、日めくりカレンダーに草花を描き続けることにしたわたしは、小さな部屋のなかで自らを孤独に肥大させ、パンパンに膨らんだ自らにとっての絵画観をこね続けた。そして自家中毒のようになったある日、ふと、自分以外の人、あなたにとっての絵画を確かめてみたくなった。絵を描くこと、絵を見せることは、わたしにとってどんどん重大になっていくけれど、では、みんなにとってはどうなのか? これまでわたしの絵を見た人、これから見る人、そしてわたしの絵に限らず世の絵に目線を注ぐ大量の人々にとって絵はどういう存在なのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていたときに「忘れられない絵」という言葉が思い浮かんだ。

お涙頂戴の、いい話が聞きたかったわけではない。そこにはわたしの知らない絵の、もっといえば人とともにある絵画の「最初の姿」がある気がした。こねあがった自らの絵画観は自室に置いて、わたしは美術の河原にいる人たちに話しかけ始めた。

本書には、筆者が2020年7月から2021年8月にかけて話を聞いた54人の「忘れられない絵の話」を集録している。話を聞かせてくださった人は以下のとおりだ。
(1) 延期の末、2020年7月に行った出版記念展示を見に、池袋のオープン・スペース「theca」へ来た人(23人)
(2) わたしが個人的に声をかけた人(16人)
(3) 手紙に書いて送ってくれた人(2人)
(4) 2021年8月に東京・恵比寿の美術書店NADiff a/p/a/r/tで3日間かけて聞き取りを行ったときに来た人(13人)

(1)は会場で聞き取りを行っていることを告知していなかったので、その場で思いついて気が向いた人が、会場で座って待っているわたしに話を聞かせてくれた。よく展覧会を見て回る人や、コレクター、自らも作家活動を行っている人が比較的多く、8割は初対面だった。

(2)は作家の家族や、額縁店の店主、美術メディア関係者、学芸員、作家、批評家などさまざまで、やはり8割が初対面か、挨拶したことがある程度の人だった。

(3)はわたしが配り歩いていた「忘れられない絵の話を教えてください」というハガキに話を書いて送ってくれた人だ。

(4)は「忘れられない絵の話を教えてください」と銘打って告知をしたため、唯一、自ら話をしようと来てくれた人がいた。ただ、そのような人は3、4人で、通りすがりに話していってくれる人のほうが多かった。このうち11人は初対面で、たまたま会場へやってきた理系の大学生や、研究者、学芸員、展示を見て回ることがライフワークになっている人など、話し手の立場にもっともバリエーションがあった。

忘れられない絵の話だけ数分話して、急いでいるので、と足早に去っていく人もいれば、普段の生活や考えとともに1時間以上話していく人もいた。話を聞くときはかならず一対一で、話の流れのなかでわたしの考えを話すこともあったけれど、基本的にはわたしが質問し傾聴するよう努めた。そして、話を聞き終わったら、お礼に水彩絵の具で描いた小さな石の絵をその場で渡した。この絵は、会場で話をしてくれる人が現れるまでのあいだ、わたしが待ちながら描いていたものだ。

お聞きした話は録音をもとに文字起こしし、整理した原稿を話し手に送って内容を確認してもらった。そのままでいいです、という人や、私の思い違いや話し手の言い間違いを少し修正する程度の返事がほとんどだった。間違えていたとわかっても、それを前提に話をしていたからと、修正しなかったケースもある。プライベートな、あるいは今現在の話し手とすでに乖離した話が多いため、希望者以外は匿名で、話を聞いた順番に時系列で集録している。

ところで、ここまで「絵」と「絵画」という言葉を混ぜながら書いてきた。そうせざるを得なかったのは、絵画という言葉の出生、そしてその出生が今も尾をひいていることにそもそもの原因がある。忘れられない絵の話とは直接的に関係のないことではあるけれど、忘れられない絵の話をのせようとしている器の話なので、少しだけ書かせてほしい。
そう、わたしは忘れられない絵の話を絵画という、すでに用意されている言葉で話そうとしている。忘れられない絵の話は、非常に個人的で、ぎりぎり固まって揺れているゼリーのようなものなので、のせる器にも注意が必要だ。54人が語り出すまえに、「絵画」という言葉の出生について少しだけ点検させてほしい。

「美術」もそうであるように、「絵画」は明治時代に翻訳語として新しく作られた日本語だ(*1)。明治には、美術用語に限らずさまざまな翻訳語が生まれたが、natureにあてがわれた「自然」のように、natureとは矛盾する意味で日常的に用いられていた日本語が翻訳語として選ばれることもあった(*2)。

一方、「絵画」はもともとあった言葉ではなく、色彩を意味する「絵」と、もののかたちを意味する「画」を組みあわせて作られた(*1)。つまり、当時すでに名付けられていたやまと絵や漢画だけではなく、西洋からやってきた油絵なども含めて名指すことができる、pictureやpaintingといった英語の翻訳語にふさわしい既存の日本語は無い、と当時の人々は考えたのだ。

そうして作られた「絵画」は明治15年に官設展である「内国絵画共進会」の名前に入り込み、言葉としての経済政策内での地位を確立。明治20年に設立した東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)でその中身が論議されるようになった。つまり、絵画という言葉がまず作られ、なにを俎上にのせるのかはあとから検討されたのだ。(*1)

それは、名指すべきものを模索することを前提として、明治期に入ってきた西洋の油絵などを包括し、描(えが)かれたものすべてをのせうる器として「絵画」は用意された、とも言えるのではないか。

つまり、いまも昔も、「絵画」とイコールで結ばれる確固たるなにかがあるのではなく、絵画という言葉のうえで検討され続ける動きがあるのみだとわたしは考えている。だとすれば、どの時代でもまずは自分たちが否応なく描いてしまうこと、見てしまうこと、そういった絵画をめぐるやりとり、動きに目をこらすところから始めなければならない。

本書の副題にある「絵画検討会」とは、それぞれのやり方で絵画を検討している作家にわたしが声をかけ、不定期で展示などを行っている企画で、2016年から開催している。シンポジウムのようないっときの集まりで、グループではない。2018年に開催した絵画検討会の一部として作った前著『21世紀の画家、遺言の初期衝動 絵画検討会2018』では、絵と絵を描く人のやりとりを扱ったが、今回は、本書を舞台に絵と絵を見る人のやりとりに目をこらす。

画家として活動をしていると、絵画という言葉は、非常な圧を持って感じられる。たとえば、「これはいい絵だけど、絵画ではない」などという言葉を耳にすることもあるが、これは翻訳語としての絵画、日本にはなかった概念として覆いかぶさっているように思える「=picture」としての絵画への畏怖が続いていることによるのではないか。

けれど言葉は、その言葉を使う時代に生きる人のものであるはずだ。絵画や美術は研究分野でもあるので、学問用語として引き継がれていく文脈があるのは当然だが、描く人と見る人という絵をめぐる最初の登場人物は、自らの実感に敏感に、絵を描き、絵を見て、影響しあい、言葉をかわし、とにかく絵をめぐって動き、踊り続けなければならない。その動きが無くなったときが、言葉が、絵画が死ぬときだ。

本書のやわらかさとはほど遠い、ずいぶん堅苦しいことを書いてしまったが、わたしはただ、忘れられない絵の話を聞きたかっただけだ。絵画という言葉の圧がこのような文章を書かせている。けれどここまで書いたように、絵画という言葉はそんな圧を持つべき言葉なのだろうか?

どうやら、絵画という言葉は公的なものになりすぎてしまったようだ。冒頭での絵と絵画の使い分けは、公私の使い分けでもある。「絵画」は、確固たるものがあることを前提として人々が口にする公的なものとして、「絵」は、絵画という言葉より手前に、つまり「私」から「公」へ向かって引かれた直線上で絵画より「私」寄りにあるものとして使った(わたしは「私」なので、「私」寄りのものが手前になる)。

絵画は、実態より先に言葉が作られたことによってなにかを置き去りにしてしまっていて、取り残されたそれは、とても私的ななにかなのではないか。取り残されたものを「いい絵だけど、絵画ではない」などとわたしは言いたくない。語義を超えたものを絵画という器に投げ込んだっていいはずだ。なんでもあり、ということではなく、それを跳ね返すことも受け取ることもできるように用意されるのが言葉だ。言葉は、それがあることも示すし、それが無いことも示す。少なくとも絵画という言葉は、語義を狭めるための型ではなく、現代でも描(えが)かれ続け、見られ続けるものを受けとめ、自らの意味を刷新していく器に思えてならない。

あなたの忘れられない絵を聞いてみようと思ったとき、わたしは変わらずひとりだったが、とてもワクワクした。それは、忘れられない絵が収納されているのが、あるひとりの人の記憶という、とても私的な場所だったからなのかもしれない。とにかく、そこにある絵が、というよりも、そこにきっとある絵画が見たいと思った。その時点で、わたしとまだ見ぬ話し手、そして話し手の「記憶の絵画」とのやりとりが始まった。

個人の記憶は、写真や動画の急激な一般化や、打ち寄せる大量の情報などによって他人の目や自分の目といった客観性に誰もがさらされざるを得なくなった現代で、わずかに残された「私だけの場所」なのかもしれない。だからこそ絵がそこにある可能性があり、その絵を絵画と呼ぶことにあかるさを感じる。個人の記憶としての絵画、つまり「私的な絵画」は、倒錯なく使える言葉だろうか?

「私だけの場所」では、わたしがこれまで書いたようなことも、絵画という言葉の都合もまったく意味をなさない。そこには、話し手にとっての記憶の絵画があるだけだ。だからこそ、そこへ行き、お願いをするのだ。
「忘れられない絵を教えてください」



(*1)佐藤道信「絵画と言語(一)「画」と漢字」(『美術研究』第三百五十三号、P17-33)1992年
(*2) 柳父章『翻訳の思想』ちくま学芸文庫、1995年


目次

見えない絵画と言葉で踊る 高田マル

01 カンディンスキーも、そのときまでほとんど知らなかった。
02 いい影響だったかはわからないですね。
03 糸杉のひとタッチひとタッチをすべて鉛筆で模写していったんですけど、
04 それ以上見たくなかったのかもしれないです。
05 その絵がなににも負けていなかったんですよね。
06 どんどん忘れていくし、相手も変わるじゃないですか。
07 同じようには戻れないから、
08 自分の水彩画がけっこう好きだったな。
09 あの世とこの世だったら、あの世みたいな。
10 絵を見て、鑑賞しただけのはずなのに、
11 この絵もむくわれた。
12 売れちゃってたら嫌だなって。
13 絶対こいつら俺に石を投げてるって思った。
14 思い出すのは、そのとき撮った写真なんです。
15 見たとき、この絵好きだなって思ったんですよ。
16 でも、バーネット・ニューマンの絵だってそうなのかも。
17 頭にくるくるキャンディーがささった棒人間みたいな、
18 圧倒的な体験だったから、こういう絵でもいいじゃんって。
19 そういうさみしさがあるところが好きなんです。
20 季節が変わったから替えるとかなくて、置きっぱなし。
21 そう、それが思い浮かばないから、さっきから困っている。
22 鑑賞? 美術鑑賞というか。
23 忘れたくないもの、ならあります。
24 助け合っているわけ、絵と額が。
25 中学は思い出そうとしてもつらい記憶しかないけど、
26 私の頭のなかか脳のなかに瞬間からやきついている
27 春の感じだったんですよ。ちょっとあったかくて、
28 なんか奇蹟めいていたから。
29 死んじゃったんだって。
30 なんとなくさみしいですね。
31 「そんなに描くほどなにかあったの?」という感じ
32 つまり、光を描いているんです。
33 それを見たとき、美術は見るものじゃなくてやるもののような気がした
34 っていうのは、僕が作家だから言っている
35 がっかりしている自分にがっかり。
36 一遍に関わるすべてを描きたかったのだろうと思うんです。
37 もうリヒターも怖くない!って
38 そのとき反応した自分がいるだけ
39 シスターたちの身のこなしとかね。
40 本物のゴルコンダの印象はあまり残っていなくて
41 修業みたいな感じだったんです。
42 同じものが必要なら、有性生殖すべきではない。
43 それはそれでおもしろいですよね。2つ一緒じゃなくて、
44 でもじゃあ、なんで河原温はほかの絵と違うように感じるんだろう
45 言えるのは、いまは見えない、ってこと。
46 依然としてわからないものですから
47 本当にそのアニメは大好き中の大好きなので。
48 誰しもある程度、自分のことが好きじゃないですか、
49 ハハハッ(笑)
50 ほら、名刺もガンプラ。
51 見たら満足しちゃう、あるいは失望しちゃう、
52 空の色だけ、覚えていて。
53 やっぱり僕は駄目だと思った。
54 無くなっちゃうともう話にものぼらないというか。

こわれながらうまれる  高田マル

忘れられない絵の話①

高校の美術の教科書にベルナール・ビュフェの石打ち刑の絵があって、それが好きだったんです。高校生の頃、その絵をずっと見ていた。俺、岩手出身なんですけど、上京して青山を歩いていたら、その絵がたまたまギャラリーに飾ってあって。それで、あ、あれだって。ずっと動けなくなると言ったら言い過ぎですけど、しばらくギャラリーでその絵をずっと見ていたことがあります。

高田マル(以下―)どういう絵なんですか?

う~~ん。

―教義に背いた人を石打ち刑にしている絵、という感じですか?

あ、まさにそうですね。

―最初にその絵を知ったのは、その高校の美術の教科書ですか?

はい。あ、これだ(スマートフォンで画像を見せる)。

―初めて見ました。高校生のときに教科書で見たというのは、先生がその絵を説明しているのを聞いて授業内で見たということですか?

いや、授業中って、暇つぶしに教科書をばーっと全部見たりするじゃないですか。教科書というか、資料集だったのかな。俺は当時いじめられていて、学校に、特に教室にいたくなかったんです。最後の1年間は保健室登校。そういう感じだったので、その絵の感じが、俺、リアルにこの感じだわって。絵のなかで石を投げているやつらがいて、絶対こいつら俺に石を投げてるって思った。だから高校生のときは、いますぐにでもここを出て行きたい、という気持ちでいっぱいでした。石打ち刑を受けている人のように縛られていなければ、経済的に自立していれば、ここを出て行くことができるはずだって。結局、高校生のあいだに抜け出すことはできなくて、でも大学に受かったので東京へ行ったんです。教育学部のマルチメディア課程というところ。半分がプログラミングで、半分が映画、漫画、小説、アニメとか。いまはもう無くなってしまった課程なんですけどね。その頃から映画が好きです。懐かしい。12、13年前のことですね。

―そのギャラリーで石打ち刑の絵を見たのはいつ頃の話ですか?

大学一年生のときです。岩手から東京に来てすぐ。たまたまなんです。いまもあるのかな? 「ぐるっとパス」という東京のいろんな美術館とか博物館の入場券とか割引券が一冊になっているやつがあって、夏休みを使って東京を回ろうとしていました。で、当時、代々木で東京アートなんとかっていうのがやっていたんですよ。明治神宮前の公園だったかな。それを見に行ったついでに、青山を歩いていたらギャラリーがあったのでなんとなく入ったら、その1階に資料集で見ていたあの絵がどーんとあって。

―複製とかではなくて?

複製だったのかもしれないですね。でも、結構大きくて。そもそもあれはギャラリーだったのかな? 宝石店だったのかもしれない。20代後半のときに会社の先輩とニューヨークへ行ったとき、MoMAのベルナール・ビュフェルームに入ったんですけど、そこには石打ち刑の絵は無かったんですよ。だから僕もその絵がいまどこにあるのかは知らないんですけど。静岡県の三島にベルナール・ビュフェ美術館というのがあって、そこにも行ったことがあるんですけど、たしか無くて。教科書に載っていたから代表作だと思っていたんですけど、そうでもないみたいで。

―ギャラリーで偶然見たときにはどういう気持ちでしたか。

そのときは経済的にギリギリの状態で。高校から抜け出して解放されたはずが、お金という別の問題が生じて大変な時期でした。本当は学費免除もらえるはずが、保健室登校だったので高校の成績が悪くてもらえず、25万円を自分で払うことになって、親に電話して5万貸してくれっていったら、出せないと言われて。うちってそうなんだ!って。大学行っちゃいけない人間だったんだって。だから結局は自分の貯金から払っていたんですけど、貯金の底がつき始めていて。大学の同級生と自分の違いを感じました。

―そういうときに、つらかった時期に見ていた絵を再び見るというのは印象的ですね。

そうですね。絵画を見るって…、うーん、俺はもともと映画が好きなんです。時間芸術というか、ずっと座って見る芸術。でも絵画だと見るのは一発じゃないですか。で、それに関して、なんだろ、言い方あれですけど、よくやるなと。いま、いろんな表現方法があるなかで絵画を選ぶ人って、鑑賞者をコントロールしたくない人だと思うんですよ。コントロールしたいと思う人は、演劇とか映画とかで、もっと見た人に明確なメッセージを伝えようとする。これが植物だと言ったら植物だ! これをそれ以外のものだと言うなんてだめだ!って。もちろん演劇・映画にもコントロールしようとしない人はいますよ、でも絵画を選ぶ人って、あまりそういうことをやらないと思う。

―たしかに、そうかもしれません。

僕が映画を一番好きなのはやっぱり、高校、大学のつらいときに助けられたから。これはあとから言語化されたんですけど、なんでこれを撮った人は僕のことをこんなに知っているんだろう、って思っていたんだと思うんです。僕しか知らなかったはずのことを、なんでこの人は知っているんだろう、映画として撮られているんだろうって。それは嫌な思い出だから自分でも忘れていることだったりするわけですよ、でもそれをなぜか映画のなかのこの人は知っている。なんでだろうって。あとから知った言葉づかいでいえば、僕が映画を見ているんじゃなくて映画が僕を見ている。
僕はいま、シナリオライターとして映像作品とか短編の演劇を作っていて、自分が作った演劇や映画を見た誰かのなかでそういうことが起きたらいいなと思ってます。意図的に起こそうとするのは気持ちが悪い気もしますけど…。劇作家で演出家の松井周さんが「あるある」と「ないない」の話をされているんですよ。「あるある」というのは、普通のトレンディドラマとか家族ドラマで普遍化できることとして表現されていますよね? でも俺は「ないない」のほう、こんなこと自分以外の人にはないはずなのに、あるのかもって見る人が感じる、そういう世界が見えてきちゃうっていうのをやりたいなと思ってます。「ないない」の共有というか。俺は両親が好きだけど、この状況だったらやっちまうな、みたいな。

―ありがとうございます。絵の話を聞いたような、絵以外の話をたくさん聞いたような。

いえいえ。


忘れられない絵の話②

15年前くらいに、渋谷のBunkamuraでやっていた、19世紀くらいのロシア絵画を集めた展示で、タイトルも作家さんも忘れちゃったんですけど、1900年代の初め頃に描かれた空の色が、北海道の空の色に近いなと思って。私、地元が北海道なんですけど、その絵はいまでもときどき思い出します。空の色だけ、覚えていて。
知り合いの写真家の人が、東山魁夷のあの色が風景が一番美しく見える色だっていう話をしていたんですけど、私はあんまりピンとこなかった。北海道と本州って緯度が違うから、北海道にいるときの光の感じ方が、本州よりもロシアに近いのかな。だからタイトルとか作家さんも忘れちゃっているんですけど、その絵のことはたまに思い出します。

高田マル(以下―)北海道と東京の空の色って、普段から違うなと感じますか?

違うと思いますね。北海道のほうが、オレンジとか黄色が強い。で、東京はちょっと青みがかった色。

―晴れた日の、昼間の空の色ですか?

そうです、そうです。私の個人的な感覚かもしれないんですけど、冬の東京の西日の色が、私が感じる北海道の昼間の光の色に近いかも。

―15年前にそのロシア絵画を見たときには、すでに東京に住んでいたんですか?

大学生になるタイミングで上京してきて、東京で暮らして少し経った頃に見に行きました。

―その展示はなんで見に行ったんですか?

なんとなく、おもしろそうだなって。たまたま。

―その絵っていうのはどういう絵だったんですか?

桟橋がかかっていて、桟橋と、海と、空。みたいな感じの…ほんとになにも覚えていないんですけど、その空の色だけ。これで大丈夫でしょうか? これから約束があって…

忘れられない絵の話③

人生で一番かどうかはわからないんですけど、一番最近で印象に残っている絵だと、息子が描いた絵。いま4歳なんですけど、1歳くらいから絵を描くようになって。でも、1歳以前はただ線を描くとか色を塗るだけとかだったんです。2歳くらいから、丸とかなにかのかたちを描こうとしだして。意味ない絵のほうが見ていておもしろいと思っていたからあまり教えないようにしていたんです。

高田マル(以下―)教えないって可能なんですかね、学校とか行くと授業で教えられたりしちゃいますし。

息子はいま4歳で、3歳から幼稚園に通ってます。

―いろいろな描き方の情報が入ってきそうですね。

かなり。みんなで絵を描く時間とかあるから。いまは人の体までがっつり描いている。そういうところで教えてもらったのかな?

―1歳の頃、初めて絵を描いたのはおうちでですか?

おうちかな…? 保育園かもしれない。保育室っていう、いまは廃止されているんですけど、保育園にもれた人が入る場所みたいなのがあって、そこに3歳まで入っていました。いまは幼稚園なんですけど。その保育室で描いたのが初めてだと思います。砂場に掘って描いたりはしていたと思うんですけど、ちゃんと紙にクレヨンで描いたのは…ダーッと塗っただけなんですけど、そういうのを描いたのは初めてだったと思います。そのクレヨンの絵は保育室の先生が教えたわけではなくて、道具だけ置かれていたのを使って勝手に描いたみたいです。

―その絵は迎えに行ったときに先生から渡されたんですか?

いや、持って帰ってきた持ち物バッグの中に入っていたのかな。

―それは保育室で描いた最初の一枚が印象に残っているんですか? それともその時期に描いた絵が何枚かあって、それ全体が印象に残っているんですか?

その時期の絵は、だいたいどれも一緒なんですよ。ほんとに線をダーッて描いただけ。色も1色しか使っていなくて。たぶん濃い色を選んで描いていたんだと思います。

―印象が一番強かったのは、初めて見たときですか?

はい。それまでほぼしゃべらない状態だったので。ちょっとはしゃべるんですけど、意思疎通はできない。ちょうど1歳になったときに保育室に通い始めたんです。絵を描き始めたのはほかの子より早かったのかな? 初めて見たとき、結構、ワーッ!てなりました。個体?というか個人として意思があると思っていないから。いまはケンカもするし憎ったらしいんですけど、1歳くらいまでは意思を感じられなかったから。

―でも、おむつ換えてほしいとか、おなかすいたとかのアピールはあるわけですよね。

それもあんまりなかった…。ぐずるとかはあったけど、それは意思じゃない。生理的欲求なのはわかるけど、意思がある感じではなかった。だから、初めて描いた絵を見たときには意思を感じたというか、そういう色使うんだ、そういう描き方するんだって驚いた。

―その絵はどうしたんですか?

たぶんファイルとかに入れていると思う。

―取っておきたくなりますよね。

でもだんだん忘れていっちゃうんですよね。いまのところとっておいてます。あと、実家のある静岡へ行ったときに私のおばあちゃん…だから息子のひいおばあちゃん、が、かたつむりの絵を教えて、それを真似して息子が描いたんですけど、それが意外と描けてて。絵の描き方を教えるのはあまりよくないかなと思っていたんですけど、教えてもらって真似して描くのが息子は楽しかったみたいで、それ以降、顔に目を描くようになってきました。

―目を描くのも、誰かが教えたんですかね?

誰かがもしかしたら教えたのかもしれないんですけど、いつのまにか描けるようになっていて。だから、そのカタツムリの絵も印象に残っています。おばあちゃんが描いた手本のカタツムリの絵と息子のカタツムリの絵をセットで覚えている。もしそのまま教えなかったら、あの線のままだったのかもしれないけれど。その頃は月一くらいで実家へ行っていたので。最初は丸の描き方を教えてもらって、なんでかわからないけど、そのあとカタツムリになって。目の描き方もそこで覚えたのかな?

―ひいおばあさんと息子さんは仲がいいんですね。

要所要所で、おむつ外すときとかやってもらっているので。行くと息子はちょっと進化して帰るみたいな感じで。祖母は習字教室かなにかをやっていたんですよ。塾だったかな。

―教えるのが上手なんですね。でも。そのカタツムリの絵は、当初いいと思っていた息子さんの絵とは違ったわけですけど、いいなと思ったんですね。

それはそれでいいと思いました。同じのをいっぱい描くんですよ。それまではかたちがないから同じのを描くことはなかったんですけど、同じかたちのカタツムリを描いて…、カタツムリって頭と尻尾があるじゃないですか。だから進むのはこっち、うしろはこっち、っていうふうに、どこかへ向かっているという話を少しつけていて、それがよかった。

―カタツムリの絵を描くようになった時期にはおしゃべりはするようになっていたんですか?

2歳頃だったんですけど、おしゃべりしていましたね。普通にしゃべっていた。

―じゃあおばあちゃんもこれがカタツムリだよって。

そう。でも、本人はそのとき本物のカタツムリを見たことはなかったと思うんです。いまわかったくらいだと思います。カタツムリが実際どういう生き物なのか。

―そのダーッて線を描いた絵とカタツムリの絵をよく覚えているっていうのは、息子さんの絵だったから、というのが大きいんですかね。

大きいと思いますよ。ほかの子の絵を見てかわいいとは思っても、そこまでワッ!とすることないから。あとはそういう感じのデザインとかもあるじゃないですか、子どもが描いたふうのデザイン。そういうのを見てもワッ!とはならないから、やっぱ息子だからなのかな。

―絵っていうと普段どういうのを見る機会が多いですか?

双子の姉が描く絵と、あとは幼馴染の双子の男の子が描く絵くらいかな。高校生頃までは姉とよく見に行っていたんですけど。そっからあとはもう全然。一切なにも絵には触れてきていない。

―でも好きな時期もあったということは、そんなに好きじゃないと思うきっかけがなにかあったんですか?

いま、映像のシナリオライターをやっているんですけど、映像のほうがやれることが多いと思ったんです。高校生の頃に友だちと初めて映像を撮って、そのときにひとりで絵を描いているよりこっちのほうがおもしろいと思ったんだと思う。ひとりじゃないですか、絵を描くときは。だからたぶん、映像のほうがいろんな人に会えるから、私は映像だってなったんだと思います。

―映像を作る部活とかに入ってたんですか?

入っていなかったんですけど、商業高校のデザインコースみたいなのに通っていて。姉も同じだったんですけど。そこのデザインコースの商業美術部でなんかやっていた気がします。ジオラマ使って河原で撮ったり。

―それはどういう映像だったんですか?

どうだったかな、忘れちゃった。たしか、河原でガラクタみたいなジオラマを置いて燃やす、というのを撮っていた。そのあいだ姉はこつこつ絵を描いてたわけです。

―それで映像のシナリオを書くようになったわけですね。

はい。専門学校に行っていて、その講師の映画のシナリオを書いたり。低予算Vシネみたいな、ちょっとエロっぽいものであればなに書いてもいいっていう。それで書いていたんだけどわりと行き詰まって、息子が生まれたタイミングで勉強をし直していて、いまもその最中。最近はコンクール用のやつを書いています。

―監督までやるわけではなく、あくまでもシナリオが書きたいんですね。

監督だと、夫が助監督なんで。かぶるというか。子育てできなくなっちゃうんで、どちらかは家の中でできる仕事がいいのかなと。

―高校生くらいからそういう趣味趣向というか、好きな表現の仕方が出てくるものなんですね。

はい。でも姉が絵の学校かなにかに行くって言い出したときに、私は映画にしようって思ったから、たぶん一緒にならないようにしたのかなとも思う(笑)

―そういう、カブリたくない、という気持ちがあるんですね。

やっぱ、一緒のところには行きたくない、みたいな。高校は一緒だったんですけど。

―一緒で嫌なことがあったんですか?

たぶん絵を描く人として一緒になりたくなかったんだと思います。その幼馴染の双子兄弟は一緒にやっているから、すごく不思議。だって同じ育ち方して同じ価値観で同じ絵を描いちゃったら相殺することになる気がする。そんなことないんだろうけど(笑) たぶん高校のときにそう思って。私はかぶらないようにっていうのが結構大きかったかも。でも息子は、シナリオとか映画よりも絵を描く人になったらいいなと思いますね。

―なんでですか?

なんかよくわからないけど、姉とか見て育ってくれたほうがいいなって思います。映画よりは。

―息子さんの成長を見ていてどう感じますか? お話を聞いていると、絵も成長の一端として見た、という感じなのかなと。

最近、ひらがなとか字も書くんですけど。ちゃんとしたひらがなを書くようになってきました。ほかの人も読めるような字。ちょっと前までは、字といってもぐちゃぐちゃって書いてある、なにかわからないけど記号みたいなのを書いていたんですけど、いまはひらがなをちゃんと書いちゃってて。なんか、ちょっと、なんか嫌なんですよね、ちゃんと書いちゃうのが。ぐちゃぐちゃの字のほうがよかった。いまは…、うーん、前のほうがよかったなって。

―ぐちゃーって描いた絵を初めて見たときは、息子さんの意思を初めて感じられて驚いた、という話でしたよね? その流れで考えると、字を覚えて書くようになる、言葉を使うようになる、というのは、より意思疎通ができるようになって嬉しいものなのかなと想像するんですけど、そう単純な話ではないんですね。

なんですかね。言葉に、ひらがなになっていないほうがおもしろかった。

―それは絵面(えづら)として? それともなにか別の面で…

絵面もひらがなになっていないほうがおもしろいし…なんか、なんかなってなるんですよ。うーん…まだ子どもではあるんですけど、同じ感じになるんですよね、みんな。それがちょっと微妙に見えちゃうことがあります。前のほうが……

―息子さんが書いたものっていう感じが薄まってしまうんですかね。

そうですね、だんだん息子じゃなくても書ける文字になっていく感じはあります。絵も最近はそういう感じになってきている。

―最近の息子さんはどういう絵を描くんですか?

なんか…人? 手と足と目と口がある、普通の人、を描いてますね。

―描くのが好きなんですね。

好きなんだと思う。

―それは誰かに教えてもらったり、幼稚園でほかの子が描いているのを見て真似しているんですかね?

そうなんだと思います。ふたつ結びの女の子とか、目のにっこりした描き方とか、片目をつむってウインクしている顔とか。こういうのどこから?って見ていて思います。ウインクも教えないと描けないじゃないですか。

―どういうウインクですか?

くの字みたいな。でも、ウインクってそういう描き方じゃなくてもいいのに。ほんとにそれ自分で思って……いや、まあ、いいんですけど、全然いいんだけど。ちょっと不思議。成長なのかなって。

―そういうのはちょっとさみしいなっていう感じなんですか?

ちょっとさみしい。嫌じゃないんですけど。ちゃんと育ってるなって思うから。でもなんとなくさみしいですね。最初に殴り描いたやつよりかは、あ、すごいね、かわいいね、という感じで。

―描いたのを見せにきたりするんですか?

見せにくるし、あとは幼稚園に飾ってあるのを私が見たり。みんなの絵を教室に飾って、それを月に一回、お母さんたちが見る、という時間があるんです。飾られた絵の写真を撮ったり話を聞いたりする。だから見られるというのをわかって描いているのかも。

―親御さんたちが絵を見ているあいだ、子どもたちはなにをしているんですか?

自分で描いた絵の説明をする子もいる。息子も説明してくれます。

―最近はどんな絵を説明してくれたんですか?

最近は、車に乗って公園に行く、みたいな。車を四角く描いて、私と父ちゃんと息子がいる。

―それは実際にあった、ある日の家族のシーンなんですか?

はい。ひさびさに車に乗って。ちょっと遠い公園に行きました。そりができる人工芝の丘みたいなのがあるんです。

―その絵は、先生からみんなで最近あったことを描こうってなって描いたんですかね。

そのときだけは自由で、なに描いてもいいって言われて描いた絵でした。いつもは、なになにを描きましょうというのがあるんですけど。

―息子さんはなんて説明してくれたんですか?

車で行ったー、とか。たぶん、絵を描くというよりかは、なにをしたかの思い出を先生に言いたいがために描いている。女の子はそういう思い出の絵ではなくて、猫とか、かわいいものを描いているんですけど。女の子に限った話ではないのかもしれないけれど、人を描くのがすごくうまいんですよ。笑ってる女の子とか。みんなにわかるものを、見られる絵として描いているんだなって。

―そういうのってどこで覚えてくるんですかね?

わからないです。でもアニメを見ても、まだ真似できないと思うんですよね、難しくて。

―息子さんは家でも絵を描くんですか?

描きますね。でも、絵よりかは折り紙のほうが好きかも。絵を単純に描く、みたいなの最近はしないかも。たぶん、ちゃんと描くのは、幼稚園で描きましょうってなったときだけだと思う。

―ちょっと前まで喜んでカタツムリ描いていたのに。

でも、遊びっていっぱいあるから、新しい遊びのほうが子どもたちも熱中してくれて助かる。絵ばっかり描いている子ってあまりいないかもしれないです、4歳で。

―よほど好きな子ってことになるんですかね。その公園へ行った絵は、最初にお話をうかがったときに忘れられない絵として挙げませんでしたけど、初期のダーッていう絵や、カタツムリの絵とはなにか違ったんですね。

違いましたね。なんでなんでしょうね。

―どちらも成長は成長な気がしますけど。

慣れちゃうのかな。

―最近の息子さんの変化で印象に残っていることってあります?

めっちゃ語彙が増えた。「もうこれ以上近づかないで」とか言ったりする。「もうこれ以上」なんて、子どもが使う?(笑)って思って。言葉を大人と同じレベルくらいに使うし。家でケーキを一緒に作るのとか好きだったんだけど、「それは本物のケーキじゃない」って。もうできているものが本物のケーキだって(笑) 理屈がすごいんですよ。自分の理屈みたいなのが出てきているのは嬉しいっていうか、とにかくすごいです。

―そういう成長は手放しで嬉しい、というわけではないんですね。

ちょっと違う。2歳くらいまでは成長するだけで嬉しかったけど、3歳以降は成長するたびに微妙なイライラもともなっていく。

―だんだん対等になってくるんですかね。あと、息子さんの成長にともなって、絵の見方が変わったりもしましたか? たとえば、いま息子さんが当時のようにカタツムリを描いたとしても、当時と同じようには思わないかもしれないですよね。そういうのってあったりしますかね?

あるかもしれないですね。いま、息子がカタツムリの絵を描いたら、絵を見るんじゃなくて、カタツムリを捕まえたとかいう話がついてくるんだろうなと思って見るから。

―伝える手段のひとつとして受け取る、みたいな?

はい。

―そうか、ダーッて描かれた絵とか、カタツムリの絵は、なにか伝えたいことがあって描かれたわけではないから。たぶん。

特にそういうのは無かったと思う。

―でもそっちの絵のほうが好きだったんですね。好きというか…

おもしろいと思った。なんか、謎です。

―息子さんが初めて口にした言葉はなんだったんですか?

なんだったかな。なんか、成長に関して印象に残っていることがあまりないんですよね。その絵くらいで。

―じゃあ、今回、忘れられない絵の話を聞いたからその絵の話が出てきたっていうのもあるけれど、それ以前に、息子さんの成長や変化で印象的だったことは? と聞かれたら、同じ話が出てくるんですか?

はい、同じ話が出てきます。まわりのママたちがよく言う成長エピソードで自分自身がグッときたことがないんですよ。

―皆さんどういう場面のことを話すことが多いんですか?

寝返りしたとか、はいはいしたとか、ゲップしたとか、あとは生まれたときの感動とか。そういうの全然わからなくて。私は自分で絵を描いてくれたときが一番おもしろいと思った。

―そのときの「おもしろい」の感じに似ている、ほかのことでおもしろいと思ったことってあります?

なんだろ。すごい盛り上がった飲み会、みたいな感じ(笑)

―飲み会好きなんですか?

そんなに好きじゃないんですけど、たまーに1年に1回くらい、すごい楽しかった!っていう飲み会があるときがあって、そういう感じ。

―そういう機会、なかなか無いですからね。

息子に、早めにしゃべってほしいと思っていたからかもしれないです。しゃべれない相手といるより、早くしゃべりたいなって。

―どういうことをしゃべりたいなって思っていました?

ほんと些細なこと。おはようとか、挨拶。いまも言わないけど(笑)

―じゃあ最近は話が通じるようになって嬉しいものですか?

うん、嬉しいですね。でも、ケンカしかしないけど。


※文中の出来事や作品、展覧会は話し手の記憶をもとにしており、公的な記録や"事実"と異なる場合があります。


本の情報

★FH010007 正方形

書名:忘れられない絵の話 絵画検討会2020-2021
価格:2860円(税込)
発行:絵画検討社
発売:2022年2月
仕様:新書判、PUR製本、944ページ
編著:高田マル
装丁:古本実加

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