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●自己愛と我について「改心の理 6」

自愛の精神の人とは、「自らの思いに自らが囚われ、愛情が自らに向かっている自己愛護」の状態の事であります。

また、我とは、「自らの思いが強い事」であり、自愛と自我が強い事とは異なるものなのです。

また、人間の心の事を小精神「小我」と言い、神様の御心の事を大精神「大我」と言います。

「我が強い」という事は一見悪い事のように思われておりますが、「真の我である大我(勇猛心)の強さ」が無ければ、様々な大変な困難を乗り越えて神様の御用を遂行する事は出来ないものです。

※このような事を言うと、「我の強い事は良い事だ」等と安易に自らを正当化し曲解する者が出て来るのでご注意ください。

また、我にも「悪しき我」と「善なる我」があります。

「悪しき我」には二通りあり、

  1. 自らの求める願望や欲の為に「頑固」に「我を張り」「我がまま」等の自愛の精神から生ずる「我」これを「小我」と言います。

  2. 自愛の精神から生じて、自らの名誉や自慢、自負等が目的の偽善の偽りの「我」これも「小我」と言います。これは一見、人からは世や人の為の善なる思いのように見え、自身でも気が付き難くいが内心では無意識で見返りの心があるものです。また、後に自らが「人を助けた」等と恩着せがましい事を言うものです。

  • 「善なる我」とは、神様の為、世の為、人の為に「真心からの善なる愛と偽りのない誠の大精神」から生ずる「我」これを「大我(勇猛心)」と言います。 

日月神示では、
●「我がなくてもならんぞ、我があってはならんぞ。」

また神示(839)では、
●「われにどんな力があったとて、我を出してはならんぞ。我を出すと力なくなるぞ。我を、大き我に昇華させよ。大我にとけ入らねばならん。大我にとけ入ったとて、小我がなくなるのではないぞ。人おろがめよ。物おろがめよ。おろがむと自分の喜びとなり、拝まれたものも喜びとなるぞ。うれしうれしとはそのことぞ。」

この神示は、この事を言われているのです。

自愛の精神の人は、元々自我が強いものでありますが、これは他者との摩擦を生み自らを穢し自らが孤立してしまう事になるので、
自らの自愛から生ずる「小我」に呑まれず、「愛善と誠の大精神」を常に念頭に置いて強く求め、「大我(勇猛心)」の心を抱いて「他者を真心から思い接する事」この大精神を培う事なのです。

※今回の説明に御座います「我」と、今まで「心の中心に我が座る」と表現しておりました「我」とは少し異なるものです。

今までは理解しやすいようにこのようにな表現をしておりましたが、この「心の中心に我が座る」とは、自らの思いで自らが囚われた自らに対する愛護心であり、自分本位で自己中心的な「自愛の精神」の事なのです。

今後は「心の中心に我が座る」とは言わずに「自愛の精神」とされてください。

 

厳瑞

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