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●自己愛について「改心の理 4」

自愛の精神を持つ人は、自らに対する愛護「自己愛護」の思いが強い人であります。
この自愛の精神の強い大半の人は、知識を求め、知識を得る事に興味を抱き、自らの記憶と知識に頼る人が多くおられます。

また、知識を苦手とする人は自らの「腕力」に頼る人が多く、その他に「財力」「地位」「名誉」「権力」等を自らの頼りとするものでありますが、この頼りとしているものは全て現世の物質的な外面である「外分」である事に気が付かなければなりません。

見分を広げ、知識を得る事はとても大切で良い事ではありますが、知識を得る事を目的とすると自らの知識に自信を持ちますので、人との会話内容で不要であっても、会話の流れを変えても無意識で自らの知識を人に出してしまう事もあります。

これは自らの知識を人に見せ評価され認められたいという思いが根底にある為なのです。

このように大切に思われている知識は、より多く得て蓄えようとするものであり自らの記憶された知識をとても頼りにし、自身では知識を記憶する事で既に理解したと思い込み勘違いしてしまいますが、知識を記憶したのみで、真に理解している訳では無いので、自らが記憶された範囲内の話しか出来ずに深い説明や応用などの活用があまり出来ないのです。

このように知識を頭脳で記憶する事は、神経系統の吸収であり補助的な外分の記憶であるのです。

※ 真に必要で正しく良い事は意識中(御霊)に吸収されますが、この意識中に吸収された「御霊の記憶」は、平素は忘れていても必要な時に自然と湧き出て来るものであります。

これらの自愛の精神の人は、「自らの心を自らの思い(我)で満たしている」ので、御霊本来の正しい心の働きや「智慧証覚」の働きが出ない為にそれを補う為に「外分」に頼る為であります。

また、自らの思いで心を満たしているので、心弱く、考え癖の為に精神不安や心配などのが拭えずに動揺し、人目が気になり、自らを非難や指摘されると自らの心に引き籠ったり、話題を変えたり、はぐらかして自らに対する視線を逸らしたり逃避をするのです。

また、他人の心に関心も無い為に人の心に気が付く事も出来ず、心から他者に気遣いや思いやる程の心の余裕も思いも無いのです。

ですが、自らに益がある場合には、気遣い思いやる素振りを見せますが、これは真心からの行為では無いのです。

このような心の弱さを補い埋める為に半数以上の人がこのように様々な知識を求めようとされるのです。

※ 自愛の中でも知識を求める人が多いのは、外分の中でも一番身近であり誰でも求め得る事は可能であり、その他の「腕力、地位、名誉、財力、権力」などは得る事が大変である為なのです。

ですが、最も大切で必要なのは知識ではなく「智慧証覚」なのです。

  

●知識と智慧証覚について

知識と智慧は異なるものであり、知識とは、学問などで得られ後天的な頭脳の記憶であり「外分」であり、知識があつても智慧の働きの無い人もあります。
また、知識は頭脳の記憶なので記憶力の衰退により薄れてしまうものであります。

また、智慧とは、物事の道理を正しく真に把握し正しく導き活用できる働きであり、「内分」であり、神様から与へられた御霊に備わる英知であり、学問がなくても智慧は働くものです。
また、証覚の「証」とは、あかす事、明らかにする事であり、「覚」とは、物事の真の意味を知る事、理解する事であります。
つまり、証覚とは「覚りあかす事」であり「物事の真の意味を理解し明らかにする事」を証覚と言います。

例えば、天地日月の働きや恩恵を知り、神様の御働きを見出す事、これが証覚の働きなのです。

智慧証覚は御霊(心)の働きであり、愛善の精神(善なる愛)と、信真の精神(偽りのない真)により神様より与えられ培われ備わるものであります。

しかし、自愛の精神とは「愛悪の精神・真偽の精神」である為に、この智慧証覚の働きは出ないのです。

また、私利私欲の欲望の為に、智慧をずる賢く働かせる人もいますが、これは真愛からの智慧ではなく、私益である愛悪からの悪智慧なのです。

 

※ 真の智慧証覚は、それぞれの愛善・信真の精神の度合いにより智慧証覚の強弱は変わりますが、これが自らの所属する霊界の違いとなるのです。

また、霊界では智慧証覚の似通った近いものが霊界で団体をなして生活しており、自らの智慧証覚が向上すると上の階級の団体に所属する事になるのです。

※ 過去にお伝えしてきました内容を安易に見聞きし知識を記憶して理解したものと満足している人が多く居られますが、これは頭脳の記憶であり、言わば頭脳のノート(辞書)に記されたと同じ事であり、これは身体に属する「外分」であり「従」です。

この頭脳に記された辞書を、符合する事を瞬時に見開いて活用し応用する事が「智慧証覚」であり御霊の「内分」であり「主」なのです。
この頭脳に記憶された辞書を活用する人(御霊)が無ければ活用は出来ないのです。
御霊が知識を活用する主従関係を霊主体従と言い、知識に御霊(心)が使われる事を「体主霊従」と言うのです。
また、御霊相応に智慧証覚の働きは変わるので、それぞれの理解度も御霊相応に変わるのです。

※ 自愛の精神の方々は、智慧証覚の働きが出ない為に、真の意味を理解出来ずに浅い自らの解釈となるのです。
なので、自愛の精神を根本から改め、日々愛善の精神を意識しながら、以前の資料も何度も何度も見返して眺め思考する事で次第に理解が深まって来るのです。


★知識とは「智慧証覚」を補助する為のものが知識であり、智慧証覚の働きがあるからこそ知識の活用や応用が出来るのです。

ですが、自愛の精神の人は、智慧証覚が余り働かない為に真の理解や知識の活用や応用があまり出来ないのです。

※ 旧約聖書の創世記にある、アダムとイブが、蛇に唆されて「善悪の知識の木の果実」を食し、エデンの園(天界)を追放されたと言われています。
この蛇とは誘惑と執着する事の象徴であり、禁断の果実である「善も悪もある物質世界の知識」に誘惑され、強く興味を抱き欲する事に執着し、外分である知識を得る(食す)事によりの物欲である「体主霊従」の目覚めとなり、それにより自らの御霊(精神)が所属する天界から現世の物質世界に移行(追放)された事、また、現世に人間として生まれ出たという事を伝えられたのです。

このように、知識は後天的な外分であり、この知識を重視する事により物質的主義となり天界の精神が失われたという事を伝えられたのです。


厳瑞

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