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「日本語でおk」の「日本語」って「国語」なのだろうね

先日、X上でものすごい怪文書を読みまして。
1文単位ではまだ言いたいことか理解できるのですが、「文章」としてはまとまりがなくて目が滑る代物でした。

その中に偏差値に言及している部分がありました。恐らく学歴コンプレックスの発露だと思うんですけど、低偏差値ナメるな的な意味合いだと思います。「偏差値」の正確な意味もたぶんわかってないんですが、それはそれとして。

そんな文章でも、リポストしたり引用で「大事なことが書かれている」と評価する人はちらほら見受けられました。私には書き手の脳内からまとまりを考えず出力しているに過ぎないと感じましたが、これを熟読できる人がいることがいることに驚きを隠せません。


新型コロナ陰謀論界隈では、一定数(全ての人ではないです)学力が怪しそうな人々が観測されます。特に文章の読み書きの力が怪しい人々です。(思考の統合が失調されているケースではありません。念の為。)

長々書いている割に意味の通じない文章に対し「日本語でおk」と煽るようなネット文化もありましたが、思えばこれらも一応「日本語」ではあるんですよね。でも読んでて目が滑ってしまう人々は「日本語」で書けという煽り方をする。

この「日本語」ってなんだろうと考えてみると、正しくは「国語の作法に則った日本語」なんだろうなと思い至ったわけです。

私は、「国語が苦手」というと「漢字が覚えられない」とか「情景描写から作者の言いたいことなんかわかるか!」ということは想像できましたが、これが想像力の限度でもありました。

後に、発達障害(学習障害。知能と無関係に起きる)の症状で「文字が踊って読めない」というものがあるのを知りました。驚愕はしましたが、「それで文節単位で音読できない人がいたのか」と納得した部分はあります。
この場合は書体を変えたり定規のような道具を使えば解決できるケースもあるとのことですから、ガンガンやってあげて欲しいと思います。
(書きの方の障害はデジタル端末が有効なようですね。)

ですが、これで「めでたしめでたし」…とはならないのだろうと思います。

まず、「学習障害」が注目されたのがごく最近のため、見過ごされたまま大人になった人は適切な学びができなかった可能性があります。
どの教科も「国語」ができないと理解ができないわけですから。

また、「そもそも知的能力的に勉強が苦手だ(った)」という人もいます。(こちらはLDと違って解決はされていません。)
「境界知能」と呼ばれるギリギリ正常値のIQの人々は、多くの場合普通級の落ちこぼれとなりがちなようです。

そもそもIQというものも、素人が考えるより遥かに複雑なもののようですね。

ともあれ、そんな人々は第一言語は、「日本語」であっても「国語」とはなっていない可能性が考えられます。


人間の思考は使っている言語に左右されるものです。(ここの説明は今は省きます。)
「素朴な日本語」と「国語の日本語」とで、思考はどう変わるのでしょうか。

国語で学ぶことの中には、単語はもちろんのこと、話の整理の仕方や複雑な言い回しなども含まれます。漢語への言い換えにより意味を保ったまま文を短くする、というのもありますよね。
これらを学べていないと、話を構造化することができません。思考も整理しにくいでしょう。

翻って、国語を学べば学ぶほど、構造化されないまま垂れ流される言葉を受け取りにくくもなります。

国語を学ぶ前の「素朴な日本語」を出された時、幼い子供の話ならすべてが素朴なので問題はないですが、大人の場合は語彙だけは難しくなっていくので、目が滑ってしまうのは仕方がないように思います。

反対に、「国語の日本語」を内面化できず「素朴な日本語」のままで思考している人は、「国語の日本語」の示すものを理解できない可能性があります。ここに断絶があるなら、会話にズレが起きるのは仕方がないのかもしれません。

なお、人間の言葉は口語ありきです。
口語であれば、ある程度ダラダラ流されていても頭に入りやすくなります。でも結局、「素朴な日本語」は素朴でしかなく、「素朴な日本語」の思考にどれだけ親しんでいるかで理解の程度は変わっていくものだと思います。

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