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8月15日 終戦記念日 に思うこと

昨日は8月15日 #終戦記念日 でした。世界の平和を祈るとともに、毎年この日になると うーん…と考えてしまうことがあります。それは、この終戦記念日はあくまで「日本にとって」の終戦なんだよな、ということ。

日本に暮らす人からすると、「8月15日は第二次世界大戦(WWII)が終わった重要な日だと世界で共通認識がある」ように感じてしまうけど、世界ではそうでもない。いくつかその背景と個人的に思うことがあって。

日々の仕事に追われながらも… こういう日だからこそ少し立ち止まって、思うことをつらつらと書いてみます。

1.視点や立場の違い

まずはじめに視点や立場の違い。
例えばイギリスでは8月15日は終戦記念日ではなくて、 #VJDay ( Victory over Japan Day )。つまり、「日本に勝った記念日」なわけです。アジアでは「日本から解放された記念日」といったニュアンスで扱われたりする国もある。

はじめて耳にすると、なんか日本が悪として名指しされているように感じてショッキングに思う人もいるかもしれないけど、視点や立場の違いってまさにこういうことだよなと思う。

勝った・負けた・解放された・戦いが終わった、それぞれの立場から戦争を眺めると、当然それぞれで意味や呼称や表現が変わってくる。

Babels社で長く一緒に働いてくれたイギリス人のメンバーが最高にいいやつなんだけど、「WWIIでの原爆投下の意味なんて、戦争終結のツールとして必要なことだったとしか教わってこなかったよ...」と、日本に来てそのギャップに強く驚いていて。そして彼が日本の立場や意見を理解しようとしてくれていて嬉しかった。逆にそれと同じことを、自分(達)は彼らに対してできているか。

例えば… 日本は被爆国であると同時に、大戦の引き金を引いた側の立場でもあり、そのときの振る舞いや加害性・二面性に関する認識や視点を日本に暮らす人が当たり前に持てるようになること。
(…*1 : 戦争における日本の加害性について、もしもっと詳しく知りたい方は、イシケンさん率いるThe HEADLINEのこちらの記事が新たに出されていたのでどうぞ。少し重ための内容ではありますが、事実に基づいて整理・記載されていてとても理解しやすくおすすめです。)

一方で… 個人的にはこの日を #VJDay としてVictory(勝利)の記念日なんて戦後80年近く経っても呼び続けてしまうのはアリなん?ナシ寄りのナシでは?とは思うので、それは米国英国をはじめ戦勝国の社会で暮らす人たちの敗戦国への想像力の欠如、視点の不足ではなかろうかと思っている。
(映画オッペンハイマーを見ても、原爆の祈念式典での対応を見ても、特に米国に対してはそう思う。)

とても難しいことだけど、複数の立場を自分の中に取り込んでメタ的に考えられるようになること。
過去の自分の振る舞いを思い出して反省したり、自分の中の視点の数を増やして多面的に物事を捉えられるようになったり、自分を日々アップデートできる機会や場所が人類にはもっと必要で。

その意味で、Webサービスやインターネットが平和や人類に対して貢献できることはもっとあると信じてる。
過去にも、様々な立場の違いから意見を比較できる歴史教科書のアップデートHistorieや、境界線を跨いだ対話サービスTalkstandを作るチャレンジをしてきたけど、もっともっと形に出来るはず。頑張りたい。( 日々、力不足。 )

2.日付の認識の違い

それともう1つ、日付の認識の違い。
日本の認識ではポツダム宣言を受諾した8月15日が終戦記念日だけど、グローバルの潮流では、法的に降伏文書に署名した9月2日が多くの国にとっては終戦記念日の共通認識になってる。そこには欧米諸国、旧ソ連やロシア、中国や韓国など様々な思惑が含まれている。

日本で暮らす人からすると、8月15日の反戦的な盛り上がりに関して日本と世界でギャップを感じてモヤることがあるかもしれない。その理由の1つがここにあったりする。でも、グローバルではむしろ「9月2日が終戦記念日」が主流の認識だということを知っておきたい。

個人的には、世界で一丸となるために必要なら、日本の終戦記念日を8月15日から世界の潮流に合わせて9月2日に変えたってええやん、と思ってる。

日付の認識の違いを埋めることが「第二次世界大戦の終戦記念日」の重みや連帯を強めてくれるかもしれない。終戦記念日をきっかけにした「9月ジャーナリズム*2」のムーブメントや対話が少しでも前に進むのなら、それは日本にとっても本望ではなかろうか。

仮に終戦記念日が9月になったとしても、日本が原爆で強いメッセージ性を生み出してきたポジティブな意味での「8月ジャーナリズム*3」は変わらず続けていけるはずだと思う。

( 個人的には...エモーショナルな側面も含めて、もっとメディアからの戦争に関する発信量を強めていってほしいなと思う派、ではあります。戦争番組が数字が取れないという視聴者からのニーズの話はわかるものの、だからこそTVで放送する影響や意義は大きいと思うからです。
...つい最近TVで観た、嵐の櫻井翔さんご自身が企画した黒柳徹子さんとの戦争をテーマにした徹子の部屋の特別番組も素晴らしかった。櫻井さんのご自身の発信力や知名度を活かした平和へのアプローチがとても素敵。Tverで無料でまだ観れるのでぜひ。#徹子の部屋 *4 )

あと、ここでは主旨と違うから強く触れないけど、終戦記念日を9月に移すことで、8月15日の靖国参拝問題にも建設的なネクストステージが見えてくる可能性は確かにありえると思う。

3.世界の実態との違い

最後に、世界の実態との違い。
「終戦記念日」といっても、世界はまだまだ終戦できていないよなと思うから。確かに第二次世界大戦(WWII)は1945年の8-9月に終戦したわけだけど、世界中であちこちで今も戦いが続いてる。しかも、近年それが明らかに加速している。こんな世界情勢の中だからこそ、1945年の「終戦」という言葉の重みが、どんどん軽くなってしまうように感じてしまう。

結局、いま21世紀の人類最大のテーマって、第三次世界大戦(WWIII)への突入や核兵器の使用を、世界一丸となってどう回避できるか、だと自分は思ってる。

この人類最大のテーマに対して、日本は貢献出来る可能性に溢れてる。

世界唯一の被爆国としての立場

まず日本は原爆投下された世界唯一の被爆国として、平和へのリーダーシップを強く発揮できる立場だから。

8月6日平和祈念式での広島県知事 湯崎さんのスピーチが素晴らしかった。5分で終わるYouTube*5もあるので見てみてほしい。 武力に武力で対抗する立場を仮に「現実主義者」としたとき、それに対して核廃絶を願う立場を「理想主義者」とは呼ばずに、「真の現実主義者」と表現するのが印象的でした。核廃絶の立場の方がより深く現実を見ているはずだとの訴え。
スピーチの中では「これまで人類が発明して使われなかった兵器がかつてない」という一つの現実の側面に触れ、 また「核兵器維持増強に使われる14兆円の1/10の1.4兆円を核廃絶に使う」など具体的な数字の提案も含まれていて、ただ理想を願い訴えること以上の「現実」の輪郭を作っていると感じて素晴らしいと思いました。 #広島原爆の日

また、8月9日の長崎市長 鈴木さんのイスラエル招待見送りの判断も、例えばイスラエルが平和式典に同席することの歴史的な経緯や意味や外交への影響を考慮すれば賛否両論や批判が巻き起こるのも理解できるけど、
それでも唯一の被爆国の日本の立場の主張として真っ当な意見であると自分は思うし、たとえ欧米諸国からの反対があれど、日本から世界に対して原爆の重みや平和の尊さを訴える勇敢なチャレンジだと自分は思うので支持したい。
こういったメッセージが良い・悪い、好き・嫌い、正しい・間違ってるの議論はあって良いしそうあるべきだけど、日本の立場からリーダーシップを持った平和へのメッセージが放たれること自体がとても大事だと思っています。 #長崎原爆の日
( 読んでくれた方から、長崎市長の決断について追加で質問をもらう機会もあったので、さらに深ぼる視点として、PLANETSの宇野さんの記事「僕は長崎市の決定を誇りに思う」*6 を参考リンクに追記しました。)

日本のコンテンツの持つパワー

あともう1つ、文化圏や民族間や対立軸も超えて、世界中で愛されるアニメや漫画やキャラクターIPが日本にたくさんあって、今も生まれ続けていることにも、平和への可能性を個人的に強く感じています。
若い時からWebサービスや新規事業ばかり作ってきたキャリアの自分にとって、やっぱりこの10年で自分自身が大きく変わったことの1つは、エンタメやコンテンツのダイレクトなパワーをより力強く信じるようになったし、手段としても頼れるようになったこと。
2010年代 あの頃 App StoreやGoogle Playのアプリストアが世界への窓だったように、いま2020年代の最高の世界への窓はNetflixやSpotifyなのかもしれないと思ってる。そんな追い風を背中に感じる。

いまの日本のティーンの子達がK-POPを通して韓国を見つめる眼差しには、1世代・2世代・3世代上の、日本から韓国に対する世間の目線とは全く違うものになってると思う。
もちろんどんな世代においても色々な政治思想はあって良いしそれは人それぞれだけど、でも自分は「あー、下の世代の両国の民族の関係性はきっと明るいな」と未来を信じられるようになった。
ああ、物語って、作品って、お互いが同じものを好きなことって、こんなにも境界線や偏見を溶かしてくれるんだな。そのパワーを実感しています。まさに尊いよね。

最後に

日本だからこそ平和に貢献できることは、きっとあるよね。
日本と平和。
対立と対話。
エンタメと越境。
インターネットや日本の強みを考えて、プロダクトで平和貢献できること。もっと頑張っていきたいと思う。




参考・関連リンク

追記:2024年8月17日
自分自身の感じていることの記録や共有として「8月15日に思うこと」をつらつらと書いてみたら、

自分の想定よりも、読んでくださった方からの反応やご感想を頂けたので、
せっかくなので本文中に出てくる用語や事柄について、それらの参考になりそうな記事や動画を関連リンクとしてnoteに追記していこうと思います。

ぜひリンク先の記事や動画などもチェックしてみてください!🙌

*1 : 戦争における日本の加害性

戦争における日本の加害性について、もしもっと詳しく知りたい方は、イシケンさん率いるThe HEADLINEのこちらの記事が新たに出されていたのでどうぞ。少し重ための内容ではありますが、事実に基づいて整理・記載されていてとても理解しやすくおすすめです。

一方で、日本軍がおこなった加害に関する報道は相対的に少ない。たとえば、1942年2月19日、日本軍はオーストラリア北部・ダーウィンを空爆し、軍民合わせて252名が死亡したとされている(日本はオーストラリア本土を爆撃した唯一の国)。後述するように、そうした加害について整理することにも一定の意味があるだろう。
日本は、戦争でどのような加害をおこなったのだろうか。

The HEADLINE : 日本は戦争でどんな加害行為をおこなったのか?終戦から79年

*2 : 9月ジャーナリズム、*3: 8月ジャーナリズム

自分はこのnoteの本文中では「ポジティブな意味での『8月ジャーナリズム』」といった少しまわりくどい表現で書きましたが、その理由としては、そもそも8月ジャーナリズムという言葉は世の中的には否定的なニュアンスで用いられることの多い言葉ではあるからです。また対の言葉としての「9月ジャーナリズム」を志向しているメディア史の佐藤先生の提唱が下記インタビューから読めるので、ぜひどうぞ。個人的には非常に共感する内容でした。

毎年8月にメディアにあふれる風物詩的な戦争・平和報道は、半ば揶揄(やゆ)を込めて「8月ジャーナリズム」とも呼ばれてきた。加害性の視点の欠如や、内容の定型化も指摘されて久しい

朝日新聞デジタル:8月15日に終わった戦争などない 「平和報道は9月にシフトを」

*4 : 嵐の櫻井翔さんご自身が企画した黒柳徹子さんとの戦争をテーマにした徹子の部屋の特別番組

つい最近TVで観た、嵐の櫻井翔さんご自身が企画した黒柳徹子さんとの戦争をテーマにした徹子の部屋の特別番組も素晴らしかった。櫻井さんのご自身の発信力や知名度を活かした平和へのアプローチがとても素敵。Tverで無料でまだ観れるのでぜひ。#徹子の部屋

徹子の部屋 「戦争」を忘れない ~櫻井翔が聞く黒柳徹子の記憶~

*5 : 8月6日平和祈念式での広島県知事 湯崎さんのスピーチ


*6 長崎市長の決断について

 読んでくれた方から、長崎市長の決断について追加で質問をもらう機会もあったので、さらに深ぼる視点として、PLANETSの宇野さんの記事「僕は長崎市の決定を誇りに思う」を参考リンクに追記しました。
あくまで自分(ラドクリフ)と同様に「長崎市長の決断を支持する」立場の人の意見だという前提ではありますが、
宇野さんは言語化がとてもうまく、この長崎市長の決断のポジショニングがどういったものか、無料部分だけでも読むとわかりやすいと思います。

右派はこうした長崎市の態度を、ロシアに利すると、現実的に西側のメンバーとして振る舞うしかない日本外交戦略の足を引っ張ると批判するかもしれない。しかし、倫理的にはどう考えてもロシアとイスラエルを「同時に」批判するしかない。むしろ戦後の「西側」が築き上げてきた価値観に従うのなら、ロシアを批判しイスラエルを擁護する米英独の態度こそがダブルスタンダードであることは明白だからだ。
( 中略 )
…僕は日本が「ロシアとイスラエルを同時に批判する」ポジションを取るべきだと考える。そしてこのポジションは、今後の両地域の状況の変化によっては、国際社会において重要な役割を果たすことになるはずだ。具体的に言えば今後「ロシアとイスラエルを同時に批判している西側の先進国」だからこそ「できること」が発生する可能性は少なくなく、それは「実務的な」レベルで有効なポジションになり得るのだ。

宇野常寛の個人的なノートブック 「僕は長崎市の決定を誇りに思う


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