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遠い地へ旅立つ私に父が話した何気ない言葉

私は4人兄弟の次男、両親と6人家族という賑やかな家庭で育ちました。下の弟達は双子なので少し珍しい家族構成だったかもしれません。
そんな我が家の父と私の話です。

父の人生を否定した若い頃の自分

私が高校生の頃は人並みに父と喧嘩も多かったです。思春期の若者には親の言う事なんて受け入れる耳も度量も有りません。
若い頃はある意味当たり前の事ですが…

父は当時、大手スーパーの家庭用品部の部長、そこから北海道に単身赴任し、家庭用品の地域の統括、2年後に戻って来た頃から左遷の道が始まりました。そして出向…会社にも居られなくなりました。
50歳過ぎてからの環境はそれなりに出世街道を歩んでいた父からすると耐え難いものだったに違い有りません…
ある日夕方に大学から帰ってくると私が冷蔵庫に寝かせておいたワインが1本空いてしまってました…
腹が立ち文句を言おうと思いましたが、母から一言、

「会社で嫌な事があったみたいだから許してあげて」

母のフォローのお陰で喧嘩は回避しましたが、

「こんな嫌な思いして働いて何が楽しいんだろう」

そんな事を思うようになりました。
タイミング悪く私も就職活動の時期、しかも就職超氷河期と言われる時期でした。

「就職氷河期に頑張って就職決めても、ゆくゆくは父の様な思いをする」

若い頃の私にはそれが我慢出来ませんでした。
それなら一度きりの人生ならばと私は役者の道に進む事を決めました。
そう、私は父の人生を否定したのです。
今思えば若気の至りだったのでしょう。

歳を重ねるにつれ父の大変さを知る

大学卒業後に始めた役者の道も7年で終わりました。
30歳になって当時付き合っていた彼女(現在の妻)と結婚するためです。
下っ端の役者さん達は今までたくさん見てきました。だいたい皆30歳が続けるか辞めるかのボーダーラインだと思います。まだまだ夢を追っていきたい人、自分に見切りをつける人、将来を考え安定した仕事に進む人、なんとなく惰性でそのまま続ける人、様々いました。
皆一様に30歳で一旦見つめ直していたように思います。

就職先は探していたもののリーマンショックなどもあり就職は中々決まりませんでした。派遣社員ではありましたが妻とは結婚しました。
人並みに稼いでいく事の大変さを思い知るうちに私には段々、当時の父の大変さが分かってくるようになりました。
家族を養うため、自分の趣味も持たずに必死に働き続けた父…
子供の頃は当たり前過ぎていた事の大変さが歳を重ねる毎に分かってきました。

徳島へ引っ越す事になった

結婚の際は私が婿入りしました。妻の実家は本家で一人っ子、そのためゆくゆくは徳島に行く事を考えていました。
当時はまだ30代だったので早いうちに徳島に行き就職する方が賢明と考え、妻の実家に引っ越す事にしました。
8年前の3月3日、住んでいた東京のアパートを後にして神奈川の実家に一泊する事にしました。
翌朝、車で出発する際にいつも通りに父が一言、

「気をつけて行けよ」

そしてエンジンを掛け、出発しようとした時、ふと見ると父が泣いていました。
かなり泣いてます…

「行ってくるね」

いつも通りの声を掛け私は出発しました。
そして少し離れた所に車を止めて私も泣きました…

父が言ったいつも通りの見送りの言葉は、私が生まれてから今までの父の思いが集約されていたように思いました。その辛い思いの中に込められた父の優しさでした。

父の死を迎えて

2019年3月、早朝に兄から電話が有りました。父が呼吸困難で救急車で運ばれたとの事でした。夜中に息苦しい中、自分で救急車を呼んだようです。
不整脈で15年ほど通院はしていましたが、実は拡張型心筋症といった病気だという事でした。高血圧などにより心臓の筋肉が伸びきってしまい心臓のポンプ作用が少なくなってしまう病気です。

翌日、危険な状態と連絡が有り、私も急遽帰省しました。夜中に到着し病室に入ると父は全く意識が有りません・・・数日仕事も休み毎日お見舞いに通いましたが意識は戻りません。状況がどう転ぶか分からないので一旦私は帰りました。その後も兄弟から状況を聞いてましたがほんの少しずつですが良くなっているようでした。

そして迎えた4月16日、朝、家族が先生から呼ばれました。あと持って1日2日だろうとの事。もう臓器がほとんど機能していないという話でした。私も慌ててまた帰省する事になりました。

状況をLINEで確認するよう妻にお願いしてましたが途中、父が亡くなった連絡が有りました。気付いた時にはまだ三重県の高速道路の途中でした。
涙が止まりませんでした・・・高速上に居たのですが涙で前が見えなくなってきました。とにかくパーキングエリアに入る事にしました。あと数キロで鈴鹿パーキングエリアという所でしたがやけに遠く感じた気がします。そしてパーキングに着くなり堰を切ったように号泣しました。結果、父の死に目に立ち会う事は出来なかったです。

なんとか心を落ち着けて運転を再開し、7時半過ぎにようやく病院に着きました。そして冷たくなった父と対面しました。人口呼吸器は取り付けられたままで酸素はまだ送り込まれていたためまだ生きているようでした。

最初に浮かんできたのは徳島に引っ越す朝の父の「気を付けて行けよ」という言葉と泣いている父の姿です。

父を否定して俳優の道を志した事、徳島という遠い地へ行ってしまった事、父の亡骸に向かって泣きながら謝りました。そして辛い思いをしながらも家族を養ってくれた感謝を伝えました。

73歳、今のご時世ではまだ若過ぎる死でした。

父の死後、体調不良に・・・

父の死後、部屋の片付けをするために部屋の大掃除が始まりました。ただ私は喘息持ちのため発作が出てしまい片付けをしながらも休み休みという状況でした。世間はちょうど平成から令和に変わる10連休、兄弟で集まり片付けで皆集まっていました。私も手伝ってましたが、発作が酷くなりだんだん歩く事すらしんどくなってきていました。

5月に入り息苦しさもさらに酷くなったので仕事を早退やお休みなどしながら呼吸器科に通うようになりました。5月末には息苦しくなったので夜間救急にも行くようにもなりました・・・

そして6月すぐに父の四十九日があるためまた帰省しました。息が苦しいため寝れない状況が続き睡眠不足の中ですが車で帰省しました。法要中も暑くもないのに汗が酷かった事をよく覚えています。

そして6月4日の朝、また息が苦しいため少し大きな病院に行く事にしました。ずっと喘息かと思って呼吸器科に通ってましたが、心臓の検査をしたら心臓が人の30%の収縮しかないと言われました。すぐに大学病院を紹介され、そのまま1カ月の入院となりました。私も父の死因と同じ拡張型心筋症でした・・・おそらく父の見舞いをしてる頃には父と同じ病気になっていたようです。

そして入院した6月4日は父の亡くなった4月16日からちょうど49日・・・ また不思議な事に主治医の先生が父と同じ名前でした・・・                父が天国に行く前に病気を気付かせたかったんでしょう。

偶然ではないと思います…                   おそらく父が助けてくれたんだと思います…

父の昔の上司から連絡が

1カ月の入院と自宅療養の後、私は仕事に復帰しました。投薬や塩分制限なども有りますが生活自体はほぼ正常です。

その年の11月は喪中はがきを送りました。
実家でも母が父の知り合い等に喪中はがきを出していました。投函して数日後に父の上司であった元部長さんから電話がありました。
葬儀を家族葬にしたので父の仕事関係の方々には連絡が出来ず喪中はがきで父の死を知ったのでびっくりして電話したとの事でした。

その上司の方は父の尊敬している方でした。
私も子供ながらに母から名前は聞いた事が有りました。

上司の方も父の事を気にしていてくれたようです。
きっと父も良い部下だったのでしょう。
上司の方からのその電話で父の仕事が認められた気がしました。あの時私が否定した父の仕事です。
仕事人間の父からしたら人生そのものを認められたのでしょう。きっと父は素晴らしい人生を送ったんです。

もうすぐ父の命日です…
久々に私も実家に帰ろうと思います。









#やさしさを感じた言葉

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