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ナス味噌炒めの挑戦

最近、フードエッセイというものを初めて読んだ。西荻窪駅で友達と待ち合わせしていたのだけど、つい気持ちが早まって1時間も早く着いてしまったので「本屋でも寄って、何かいいのがあれば買って、カフェで読書して待ってよう」のテンションで駅前の今野書店のドアを開けた(自動ドアなのでドアの前に立ったら開いた、という方が正しい)

フードエッセイを買う

雑誌もいいけど、ポッケに鍵と財布の出で立ちで来てしまったため、ポッケに入るサイズの文庫本がいいかもしれない……ということで文庫本コーナーへ。小説から歴史系の解説本から、気になるものはたくさんあるものの、いまいちピンとくるものがなく、店内をうろついていると、入り口近くの特集コーナー的なところにフードエッセイがいくつかまとめられていた。

そもそも思い返してみると、わたしはあまりエッセイを読まない。太宰治の小説も広義の意味ではエッセイみたいなものかもしれないけど、いわゆる「エッセイ」を読んだ経験は数えるほどしかない上に、あまり印象に残っていない。多分「ハマれなかった」のだと思う。

たまに、友人から「〇〇さんのエッセイに出てくる〇〇に行ってみた」のような話を聞くたびに、あ、生活の中で自分の経験と重ねやすい(追体験というのか、聖地巡礼というのか)ものなんだな……と思うことはあるものの、あまり手が伸びなかったのだが、なぜかその特集コーナーに並べられていたフードエッセイが気になって、一冊買ってしまった。多分お腹が空いていたのも影響していると思う……。

カフェ(ドトール)に移って、読み始めてみると、すごくお腹が空く内容。お店の人とのコミュニケーションの取り方などは、自分とは違うな〜と思いつつ、食べているものが浮かんでくるし、平松さんなりのお店の切り取り方がとてもユニーク。いつも食べ物(及び飲食店)に対して「おいしい」「店員さんが気さく」程度の感想しか抱けないわたしからすると、その人にしかない視点で解釈することってこんなに素敵なのだなと思った。フードエッセイに限らず、エッセイの面白さってこういうところにあるのかな?(だいぶ気付くのが遅い)

その後、無事待ち合わせした友人に、フードエッセイの面白さを(一冊しか読んでないくせに)一丁前に語ったのは言うまでもない。

ナスを食べるときに、何かが起きているのかもしれない

食べ物といえば、思い返してみると2年前に書いたナスの山椒揚げの話もフードエッセイといえばそれなのかもしれない。「ナスの山椒揚げのおいしさ」に「何か新しいことをはじめたい」が掛け合わさると何が起きるか、というお話。

以前住んでいたこともある愛すべき街・西荻窪には、街中華がたくさんある。その中のひとつ・八龍には、上のnoteにあげたナスの山椒揚げに劣らずめちゃくちゃおいしいナス味噌炒めがある。味が濃くて、ビール泥棒。これを聞くだけで口の中が幸福になってこない……?

ちょっとテカリすぎなくらい油で光っているナス(と玉ねぎとニラ)に絡む味噌ソース。絶対に熱いのに十分に冷まさないで口の中に入れる。わたしはかなり猫舌で、しょっちゅう口内や舌を火傷しているけれど、火傷してもいいから早く口の中に入れてしまえ、という気持ちになる。ナスの山椒揚げも同じで、絶対に熱いのに口に放り込んでしまう。他の料理は過剰なくらいに冷ますのに、ナスだけは別。「どんなに冷ましても熱い」から冒険してもいいか……と謎の挑戦心がわいているのかも知れない。熱いナスを食べるときに、何か新しいことに取り組んでみたくなるのは、この挑戦心が影響している、と言えるような、言えないような。

そんな挑戦心想起料理ことナス味噌炒めを、先週食べた。当たり前のように瓶ビールをおともに。いつものように「おいしい!」というチープな言葉しか出てこなかったけど、わたしも文章でなら何か自分だけの切り取り方ができるのでは……? フードエッセイなるものを書いてみたいぞ! という気持ちがむくむくと湧き上がってきて、今これを書いている。続くか続かないかはわからない。

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