忘れずに書き留めておくべき「プロレス」

もう時間がだいぶ経ったことだが…
世界的なプロレスラー、武藤敬司の引退試合を見に行った。

東京ドーム、全プロレスファンが集まったのだろう。
ゲートに向かうまで、長蛇の列が出来ていた。

入場待ちかと思いきや、それは当日券の列。

一瞬物悲しくもなったものの、並ぶ人々は
スーツを着た男たちばかり。

全員が少年の目をしていたように見え、熱くなった。


当日は、私も途中参加。
第0試合から熱戦が繰り広げられていたという。


オカダvs清宮のタイトル戦が終わり、
フィナーレの幕が上がった。


ここに至るまでに、自分の中で「プロレス」とは?
と考えていた。


自分が見てきたものは、02年あたりからのWWE、
そして、中邑真輔や棚橋弘至がタイトルをせめぎ合っていたころの
プロレス。(WWEをプロレスと呼ぶべきかはさておき。)


しかし、その大枠はAAAだろうが、CMLLだろうが、ROHだろうが、
TNAだろうが、大日であろうが、全日であろうが、みちのくであろうが…

羅列するとキリがないが、五万とある団体に通じるプロレスの魅力があると考えている。無論、言葉にはしづらいのだが…


結果から言うと、その言葉にはしづらい何かが、表現されていた引退試合だった。


試合は、内藤哲也とはどういう人物か、武藤敬司とはどういう人物か
そんなアバンから入る。
間合い、時間の使い方、観客たちの反応。

これから始まる”アート”とは、どういうものなのか
そんな美しい始まり。
(名試合と呼ばれるものにはつきものだ。誰が見ても世界に入り込めるのだから。)


互いに自分の味を出し始める中で、
武藤敬司という天才は、エッセンスとして「今」を惜しげもなく注ぎ込んでくる。


「今」とは…
一面としては、齢、60のレスラーが抱える身体と心の苦悩。
ケガ多き人生への葛藤。
またもう一方の見方としては、大ベテランが若者に立ち向かう姿。

素人であろうが玄人であろうが、
プロレスを楽しめる魅力をさらに積んだのだ。


対戦相手の内藤は、それに応えるが如く、
自らのファンである少年・内藤哲也を抑え、
レスラーとして確かに対峙していた。


内藤哲也というレスラーもかなり脂っこい味のするレスラーだと思う。

自分にしかない世界観を持っている。


少しだけ、「引退試合」について思い返す。

専ら、WWEで育まれたプロレス脳なので、それに尽きるのだが、
オースチンvsザ・ロック
フレアーvsショーン
ショーンvsテイカー

これは記憶に残る引退試合だと思う。
(HBK信者としての選択になっている気もするが…)

引退試合というと、全てを超えて「人間」が見れる気がする。
この3試合は確実にベストバウトに入る試合だと思うが、
どれも「人間味」が見れた。

しかしどの試合もその前戯としてふんだんにプロレスが見れる。
ヒールとベビーフェイスのぶつかり合い。
勧善懲悪。
人々の叫び、歓声、時間。
全てを掌握する輝き。

そんなものがこの試合にも見出されていた。


プロレスとは?





テレビというショービジネスの中の端くれにいる身としては
この問いこそがずっと活力でもあり、頭を抱える悩みの種でもある。

ある偉大な(名の知れた)先輩からも
「テレビはやっぱりプロレスなんだよ。」と言われた。
こんなに嬉しい言葉はなかったし、やはり生まれ変わったら屈強な肉体を持ってプロレスラーとして輝きたい。


今回の武藤敬司の引退試合は確実に会場を掌握していた。
満員の東京ドーム、すべての観客を。
時代も、年齢も、知る知らないも超えて、
最高のエンターテインメントだった。
(一部の方へ、最大の賛辞であることは理解してほしい。)


その中で、武藤敬司はムーンサルトを飛ぶか飛ばないか
これを最大のテーマに持ってきていた気がする。


結局、彼は飛ばなかった。
飛べなかった、ともいうべきなのか。

試合前から最後のムーンサルトを見たいという声をあえて助長し、
飛ばなかった。

これが一番かっこいい。


必殺技、フィニッシャー
これを繰り出したら大団円で終わったかも知れないが、
飛ばなかった理由はなんなのかと考える。

彼も人間なのだ。
いや、人間がやっているからこそ、プロレスは面白いのだ。


もしムーンサルトをあの時コーナーポストから飛んでいたら、
もう2度と立てなかったのかもしれない。

人の人生にも、何度も勝負の時はやってくる。
勝つときもあれば、負けるときもある。


なんにせよ、全ては一人の人生の中で巻き起こるドラマだ。
武藤敬司の中での人生は、マットを降りても続く。
まだまだやりたいことがある。


そう自分の人生を「表現」することはできないし、そんな瞬間も訪れない。

これができる人こそ、天才だったり、
人の記憶で生き続ける人なのだと思う。





試合後、無邪気な武藤敬司は、蝶野との試合を急に立ち上げた。
なんとも素晴らしい茶番であったかとも思う。
しかし、人生という名のレールで見ると、
それは全くの茶番でなく、必要要素であったと思う。

ここに武藤敬司あり。

そんな標識を掲げた、掲げられたような試合、
いや時間だった。



しかし、所詮エンターテイメント。
難しく考えることも楽しいのだが、
鼻をほじりながら
「あーなんでムーンサルトやんなかったんだ!」
ってアホみたいに叫ぶのも、プロレスの楽しみ方か。


すべてのエンターテイメントの原点として
やはり僕はプロレスを信じ続ける。

プロレス LOVE。

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