10年前、浪人時代を振り返る①

誰の需要があるのかわからないけど、若林さんの新著書を読み、ふと思いつきで書き始めてみる。

昔から書くことは好きで、特に自分を知ってもらうツールとして活躍していて、大学に受かった決め手もこの書く力が勝ったことは間違いないと思う。(この話は後ほど。)

何より今思うことは、自分が「売れたい」という気持ちが強く、いずれこの掃き溜めのように書き残したことをより多くの人の目に留まるような形で再び残すことができたら嬉しいなとかも思いながら書いている。(この話はいずれまたどこかで。笑)


さて、まずどこの馬の骨かもわからない私の素性であるが、

経歴だけ説明すると、幼稚園は(そこからか。笑)

とある仏教大学の姉妹校?の幼稚園に通い、小学校は都内地元の区立小に進んだ。今思い返すとよくわからない理由だが、治安が悪いということから塾に行かせられ、私立中を目指した。お受験だ。

小学校ではおそらく一番頭が良かったと思う。しかしおそらくというのは、全くもって勉強に興味がなく、何もせずとも成績だけは上位だった。

そのせいで一番になった試しはない。


お受験を経て、受かったのは都内のお世辞にも良いとは言えない、偏差値も悪い学校。ただ無駄に歴史はあるので、迷門と呼べる学校だ。中高一貫校。その当時のお受験の流行りだったらしい。

指を加えたまま6年間を過ごしていたら、大学受験という壁がやってきた。

その当時、なぜかよくわからないのだが、小学校の時からテレビ局に憧れを持ち、馬鹿な話だが、何の努力もせずにテレビ局員になりたいという”夢”を持っていた。(今振り返ると、テレビを作る側になっているのは本当に幸運と呼ぶべきか、そこに努力があったのかは未だわからない。)

そのため、当時行っていた地元の小さな学習塾に出した志望校は、メディア系の私立大学のみ。まさにピンからキリまで、片っ端から書いていた。

正直どうでも良かったのだが、昔から変にこだわりは譲らないという性格のために、その面々だけは譲らなかった。無論勉強なんかせず、日々塾に行くことだけを”勉強”と捉えていたために、冗談でも先生からは「受かる」と言ってもらえた試しはない。


初めての大学受験は想像通り、落ちに落ちまくり、受験料という謎の大金を親に支払わせ終わった。ここで運が良かったのは一校だけ受かったという事実だ。いや、これが無ければ、良かれ悪かれ人生は180度変わっていたと思う。


たった一つ受かった学校はある”マンモス”大学のメディア系の学科。

言い方は悪いが、そこで良かったのに、「プライドが高い」その絶対的な個性(笑)により、「テレビ局に入るにはこの学歴では無理だ」というよくわからない理論武装で母親を言いくるめ、浪人をしようと決心した。このせいで父親に対して共演NG状態となる。笑

(この話は売れた時にいつかゆっくりと。笑)

(あと最近久々にこの言葉を言われたが、数年ごとに言われているので、その言葉自体に何も思わなかったが、反面考え抜くと、この先これが悪く反応しないようにしなくてはと思い返し、とても感謝だ。)


そうこうして、晴れて池袋にある河合塾に入学した。

画像1

(画像はネットから拝借。)

「入学」と書いたのも、まず初めての驚きはここが「学校」という括りだったということだ。

はじめに色々とレクリエーション的なことと、クラス分けのテストがあるのだが、そこでまずもらえるのが学生証のような紙切れ。

そこには「河合塾専修学校」の文字。(浪人生って学生なのか。)

高校の同級生たちはほとんどが大学に行き、よくわからない疎外感と呼ぶべきか、不安というのか、自分がどこの者かわからないような括りになってしまうような感覚だったが、この”学生証”は一つの安心材料だった。

(ちなみにありとあらゆる”学割”がこの一枚で可能になるのも安心材料だ)

ただこの時「問題」だったのが、クラス分けのテストだった。

私が入ったコースは私立大を目指す者たちが集まるもの。数学という分野に全くもって興味がわかなかったので、文系私大コースだった。

そこには3つ(だった気がする)のクラスがあり、テストはどのクラスに仕分けるかを決めるものだった。

普通の入試問題のようなテストで、上からABCとクラス分けされる。無論クラス名にもABCと冠がついていて、どこか受験戦争を表している。

さて結果だが、頑張った結果(笑)、見事真ん中の「Bクラス」になった。それは自分にとって劣等感の塊でしか無かった。この感情は後々にも膨らみ、なぜか結果としては良い方向に繋がる。

受験前の模試のように、結果と共に「あなたのクラスはB!」と書かれた紙っぺらが大そうな封筒に入って返ってくる。

前述の通り「プライドが高い」自分からしたらどこか0点を隠す少年のような感情となり、さらに追い討ちをかけたのが、同じ学び舎に入学した友人からは「Aクラスだった」という結果を聞く。どうにも恥ずかしい。

親にも友人にも「自分はBだったー。」という言葉だけで、その結果の文字は誰にも見せず抹消させたのは言うまでもない。



こうして真ん中のクラスで始まった人生の”猶予期間”とも呼ぶべき時間は、結果として四ツ谷の名門大の合格に繋がる。

受験成功記として書くつもりは全くなく、浪人生という時代を忘れないうちに書き残す意味でまた書こうと思う。

ただ間違いなく周りにいた浪人生というのが、今の自分を確立させた礎となった。

あの1年は不思議な世界、独特な空気があった。

どのシーンを振り返っても、間違いなく色濃い1年だったー


つぎにつづく。

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