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【今さら考察】ChatGPTでは、大学のレポートは書けない

世間をおおきく賑わせた、ChatGPTをはじめとする生成AI。
2023年8月現在も、依然として人々の注目の的でありつづけているように思われる。

生成AIの発達と大衆への普及は、スマホに次ぐ、新たな革命的現象といっても過言ではないだろう。

大学院生である私にとって、「レポート作成と生成AI」というのが、AIをめぐる議論の中でもっとも身近である。

すこし調べただけでも、大学の方針として、いくつかの大学ですでに生成AIを使用したレポート作成に対し、注意喚起がおこなわれていることがわかる。

今回は、「生成AIをもちいて、授業のレポートを作成する」ことについて考えてみる。
端的に述べれば、アイデアを出したり、言い回しの表現を考えたりする際には使えるが、単位がもらえるようなレポートは作成できないのではないか、というのが筆者の立場である。


多忙化する大学生——AIによるレポート作成の背景

「よい高校を出て、よい大学に入れば、よい職場に就職できる」といった神話はすでに崩壊している現在、今の大学生は、数十年前の大学生より圧倒的に多忙である(大学生の多忙感については、たとえば[山本ほか 2018]などに、すくないながらも言及がある)。

スキルや即戦力が求められる社会に変わりつつあり、なんでも「自己責任」で片付けられてしまう。
そして、親をはじめとする養育者の賃金が上がらない——そのうえ物価も上がっている——ため、生活費や学費を工面すべくアルバイトに勤しむ必要がある。

また、就活はどんどん早期化しており、「ガクチカ」のためのボランティア活動やサークル活動、海外留学といった「実績づくり」も必要である。

こうした、多忙を極める大学生にとって、授業のレポートがすぐに書けるというのは、どれほどありがたいことだろうか。

そもそも、「大学は人生の夏休み」であった世代のときより、授業回数や欠席過多者への対応が、より厳格になったという話もある。

学期末、授業がなくアルバイトやガクチカの「ネタ」づくりに集中するため、単位が取れるならば合格点ギリギリでも良い、という気もちもわからなくはない。



*なお、「大学は人生の夏休み」であることが「当然」であった方々には、是非とも中村淳彦 『東京貧困女子。:彼女たちはなぜ躓いたのか』を読んでいただきたい。

『東京貧困女子』で取り上げられているのは、私(や私の知り合い)よりも、相対的に不安がおおきい方たちに過ぎない——多かれ少なかれ、みな漠然とした不安の中におり、その程度が違うだけである——、というのが、大学で4年間を過ごした者としての実感だ。



では、「タイパ」を求めて生成AIにレポート作成を依頼したとして、果たしてまともなレポートが完成するだろうか?


ChatGPTに架空のレポート作成をおこなわせてみた

架空のレポート課題を設定して、Chat GPTに入力してみた。
なお、入力文は「深津式プロンプト」を参考にさせていただいた。

よりかたちの整った文章を出力するように、入力文を修正するなどして何度か出力させる、というような作業はしていない。

私の聞き方が良くない、ということは間違いなくあるが、一応入力文と、出力文を掲載しておく。

あなたは、日本の大学で文化人類学を学ぶ大学3年生です。以下の制約条件から最高のレポートを出力してください。

# 制約条件
・文字数は400文字程度

・引用元を明記し、最後に参照文献リストをつけること。
・参照文献リストは、800文字の中には含まない 

・引用表示と、引用文献リストの表記方法は、学会誌『文化人類学』の規定に従うこと。以下に概要を示す。

<文献引用表示>
・文中の適当な箇所に全角大カッコ[ ]を挿入し、〈著者姓+半角アケ+刊行年+全角コロン(:)+ページ〉の形式で書く。
・複数ページの場合は始まりと終わりを半角ダッシュ(–)でつなぐ

<参照文献>
・参照文献は、原則として、五十音順に並べる

・「参照文献」では本文とは異なり、句読点として半角のコンマ、ピリオドを用いる。
・語句の間は原則として半角アケするが、五十音順の文献リストで、「 」と『 』が使われる部分の前後では、カギカッコによって十分な空白部分が確保されているため、半角アケは省略する。

【例】山口昌男 1975『文化と両義性』岩波書店.

#論述のテーマ: 日本政府が掲げる「多文化共生」を、人類学的な視点から批判しなさい。

#出力文:

入力文

日本政府の「多文化共生」政策は、人類学的な視点から批判される要素がある。この政策は、異なる文化や背景を持つ人々の共存を目指しているが、文化の多様性や実際の社会現象を十分に理解せず、表面的なアプローチに留まる可能性がある。文化人類学者は、多文化共生の実現には、文化や身分の違いだけでなく、社会的な構造や権力関係を考慮する必要があることを指摘している〈シモンズ 2007: 87–102〉。

また、政策の実施においては、異なる文化間の緊張や摩擦が生じる可能性があり、それに対する適切な対応策が必要です。文化人類学的な研究によれば、異なる文化集団間での誤解や偏見が、共生を妨げる要因となることがある〈ジェンセン 2012: 123–140〉。政策は単なる表面的な多様性を追求するだけでなく、共生を支えるための教育やコミュニケーションの重要性を認識する必要があります。

要するに、多文化共生の実現には、文化人類学的な洞察とともに、社会の複雑なダイナミクスや力学を考慮した綿密な政策立案が求められます。表面的な取り組みだけではなく、文化の背後にある構造や意義を深く理解し、持続可能な共生社会の実現を目指すべきです。

参照文献:シモンズ, ゲイリー. 2007. "Multiculturalism and the Welfare State: Recognition and Redistribution in Contemporary Democracies." American Political Science Review 101(4): 87–102.
ジェンセン, ジャネット. 2012. "Theorizing Intersectionality and Women's Activism." Gender & Society 26(4): 123–140.

出力文

<補足>

・引用方法や参照文献リストの書き方は、学術雑誌『文化人類学』の規定から抜粋した。

・後述するが、参照文献の情報に誤りが含まれている。


気になった点

まず、論文・レポート作成の基本中の基本である、参照文献/引用のしかたについてみてみる。

一応、文末に参照文献リストがあるため、論文としての体裁は整っているかのように見える。

しかし、"Multiculturalism and the Welfare State"という本の著者は、ゲイリーシモンズではない。
じっさいには、キース・G・バンティング(BANTING, Keith)が書いたもので、しかもバンティングは編者のひとりであった。

おそらく論文集のようなものであろうが、それがあたかもゲイリー・シモンズの単著のように書かれている。


また、調べたかぎりでは、この本の邦訳は出ていなさそうである。

一応、新川敏光編『多文化主義社会の福祉国家』[新川編 2008]が、「Multiculturalism and the Welfare State」の日本語訳に一番近い書籍ではある。
しかし、目次等を確認すると、「Multiculturalism and the Welfare State」とは別物であることがわかる。


本文中の引用表記については、指定と異なっているが、及第点といったところだろうか。
ただし、引用した部分がどのページにあるのか、原典に遡って確認していないため、これが本当に参照文献リストに載っている論文の内容なのかはわからない。

『文化人類学』の執筆規定をもとに出力をお願いしたのだが、完全には反映されていない。
ただ、直すべきなのはカッコの形状くらいであり、入力の時点できちんと指定してあげれば、そこそこのレベルで対応してくれることがわかる。


感じたこと:結局、自分の力で書いた方が楽で早い

筆者は、これをレポートとして提出したとしても、間違いなく落とされると考える。
理由は、次の2点である。

第一に、参照文献リストの不備と、参照文献の内容である。

『Multiculturalism and the Welfare State』をリストに載せているということは、わざわざ邦訳されていないものを読み、それを日本語に自分の力で訳してレポートに反映させた、ということになる。

だが、学術論文でもなんでもない、単なる講義のレポートにおいて、わざわざそこまで労力をかけるだろうか?

もちろん、英語を第一言語とする学生が書いたレポートかもしれない。

それでも、私が設定した架空のテーマは「日本政府が掲げる、多文化共生というスローガンへの批判」であり、基本的には、日本について書かれたものを参照すべきであると考える。

テーマ設定からややずれており、大幅な減点が見込まれる。

さらに、参照文献の著者や著作といった情報に誤りが含まれていることも、問題である。

大学の講義は、担当される先生の学問分野・対象地域に焦点を当てて展開されることがおおいだろう。

すなわち、「その道のプロ」とでもいうべき人が、授業を担当するのだ。
そうであるならば、参照文献内の誤りや、本文中での不適切な引用(文脈を無視し、その表現だけを切り取るなど)に、すぐ気づくはずだ。

こうして、参照文献リスト・本文中の引用に対する不備が露呈することになる。


第二に、出力された文章は、「もっともらしいことを言ってはいるが、何も言っていないのと同じ」であるからだ。

筆者が考えた架空のテーマは、現在読んでいる、石原真衣編『記号化される先住民/女性/子ども』[石原編 2022]から着想を得た。

人類学からの批判に限ったものではないが、日本の「多文化共生」には、以下のような問題が指摘されている[cf.石原 2022:164-165]。

①基本的に、「共生」の対象が「外国人」に限定されている
②「共生」という前向きなキーワードによって、差別や不平等といった、現実にある問題が覆い隠されてしまう
③日本の政策は「コスメティック多文化主義」でしかない——多数派の文化を脅かさない、ファッション・フード・フェスティバルという「3F」でのみ、異文化性を発揮することを認められている——


これらの批判は、すこし調べるだけでいくらでも出てくる。

そのうえで、自分はどういう立場を取るのか。その根拠となる論考は何か。

論文やレポート作成で問われているのは、「自分の主張を、先行研究に照らし合わせながら、妥当なものとして読者に納得させる」能力であると考える。

すなわち、主張と根拠が効果的・合理的に結びついているのが、良い論文というわけだ。

ChatGPTは、「表面的な取り組みだけではなく、文化の背後にある構造や意義を深く理解し、持続可能な共生社会の実現を目指すべきです」と結んでいるが、それを支える根拠は何か。

筆者はここで、根拠のない文章に対し「それってあなたの感想ですよね?」と言いたいわけではない。

ChatGPTが出力した文章は、当たり障りのない、議論の上澄みだけを切りはりしたものに過ぎず、結論を導き出すまでの知的営みが、全くといっていいほど感じられない、ということを指摘したいのである。

数ある論考の中から、テーマに合うものを見つけ、さらに自分の論点を明確にするために効果的に引用する、といったような、いわば「泥臭い」思考の過程が見受けられない。



以上のように、ChatGPTに出力してもらった文章からは、数々の不備が見つかった。

もし、この文章をレポートとして提出するならば、これらの不備を一つひとつ確認し、修正していかなければならない。

ならば、はじめから自分の力で書いた方がよっぽど早い。

もちろん、同じ語尾の繰り返しにならないように、表現を参考にしたり、テーマや具体例のヒントを得るために使ったりすることは、十分できるだろう。

しかしながら、中身のあるレポートを書く、というところには到底及んでいない。

現状、体裁は整っているかに見えるレポートを出力することは可能だ。
だが、このレポートには、成績評価の段階で間違いなく「不合格」がつけられるだろう。

AIが書いたか、人間が書いたかは関係なく(たとえ見分けられないとしても)、内容面・形式面の双方でおおきな不備があり、レポートとして認められる水準にない、という理由で、不合格になるはずだ。


AIは、うまく使っていけば、より人間の想像力・創造力を発揮できるツールになる。

しかし、論文・レポート作成という、学問を志すものとしての基本の行為については、やはり「泥臭く」人力でやる必要があろう。


参照文献

石原真衣 2022「先住民という記号 日本のダイバーシティ推進における課題と展望」石原真衣編『記号化される先住民/女性/子ども』青土社 pp.159-188.

中村淳彦 2019『東京貧困女子。:彼女たちはなぜ躓いたのか』東洋経済新聞社.

山本幸子ほか 2018「大学生のアルバイト が健康、学習、意識変容に及ぼす影響」『山口県立大学学術情報』11:127-134.

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