見出し画像

【小説】夏の断片

 ひどい夏だった。
 朝夕がだんだんと過ごしやすくなってきた九月。わたしは今日も街の丘陵地帯に広がる公園にいた。前を虫とり網をもった息子が駆けてゆく。幼い子どもに導かれるようにあてもなく歩く公園の遊歩道。昼下がりの日差しはまだ強かった。

 今日は人が多い。木陰のベンチに並んで腰掛ける恋人たち。芝生の広場にキャッチボールを楽しむ親子連れ。そうか、今日は日曜日だったんだ。すれ違うベビーカーに近づき、赤ん坊を興味津々の様子で眺める小さな息子。手にした網が赤ん坊にかかりそうだ。わたしはあわてて子どもの手をとると、とりあえず赤ん坊の両親に頭を下げて、ベビーカーから遠ざかった。

 ――来なければよかった。

 人の多いところは苦手だ。
 じぶんがだれかの迷惑になっていないかどうか、考えざるを得なくなるから。いまもベビーカーを押していた若い母親に変な親子連れだと 思われなかっただろうか。息子の行動が不愉快な気持ちにさせなかっただろうか、とても気になる。それに、幸せそうな家族や恋人たちを見ているのはつらい。

 わたしは公園の奥へ向かって足を早めた。
 この街の都市公園は大きい。図書館や動物園、野球場を敷地に収め、街の背後にある丘陵地帯を抱えこむように広がっている。園内はいくつもの遊歩道が張り巡らされ、そのいくつかは丘を取り巻く森の中へ消えていた。そのうちのひとつを辿って森へと向かう。

 公園の中心を離れ、森へ近づいても、さほど人の数が減ったとは感じられなかった。カメラを掛け談笑して歩くお年寄り、少し早い秋を画用紙に収めようとしている日曜画家、森へと至る道でもたくさんの人たちとすれ違った。わたしはなるべく邪魔にならないようにと息子の手を引いて先を急ぐ。

 わたしたちの上に木陰が落ち、遊歩道が森へはいったとわかってようやく息子の手をはなす。子どもの腰でリズムよく揺れる虫かご。彼が駆け出してゆくと同時に、わたしの心の緊張も解けていった。森に包まれる安心感といったらいいだろうか、いままで小さくなっていた胸を広げて息を吸う。ここまでくると出会う人はいない。ただひとりの例外を除いて。

 苔むしたブランコと小さなすべり台、錆びた鉄棒。森のなかに、ぽかりとひらけた空間があって、いっぱいの光が差し込んでいる。長いあいだ、かえりみられていない大きな都市公園のなかの小さな森の公園だ。

 無造作に縛られた白髪。洗いざらしのシャツと、所々継ぎの当てられたズボン。元が何色だったのか分からなくなるくらい汚れた絵の具箱。その人はいつものように、イーゼルを立てていた。そして架けられたカンバスはきょうも白いままだった。

 公園で写生している人は多い。平日でも、画板を手にえんぴつを走らせている人やイーゼルに向かって絵筆をとる人の姿を必ず見かける。駆けてゆく息子に導かれるようにしてたどりついたこの小さな公園に、枯れ枝のような老人を見つけたときも、そういう人たちのひとりだと思っていた。でも、息子に連れられて何度かここへやってくるうちに、そうではないことにが気ついた。いつ見ても、なんど出会ってもカンバスは白いまま、絵ははかどっていないのだ。


 夫と別れた。ひどい男だった。
 これからは自分らしく生きたいそうだ。
 でも、わたしはどうなのよ――いったい。
 ばかばかしい。

「いかんな」

 赤錆びた遊具から目を上げた。息子と白いカンバスの老人が頭を突きあわせるようにして、ひとつの虫かごを覗きこんでいる。

「虫かごに閉じ込めてしまうと、チョウの羽は傷ついてしまうんだ」
「とっちゃだめ?」
「捕まえるのはいい。でも観察し終えたら、チョウは逃してあげることだ」

 きかん気の強い息子が大人しく老人の話を聞いている。まずそのことに驚いた。どうしてか納得した息子は、そのあと虫かごから捕まえたチョウを逃してあげていた。息子の手を離れた白いチョウは、ぎこちなく羽ばたきながら森のなかへ消えていった。

「チョウという昆虫は虫かごで飼うには向いていないのさ」
「向くって……?」
「そうだな。カブトムシやクワガタなら大丈夫だ」

 見つけたらとっておいてあげるよと老人は息子と約束していた。息子はうなずきながら聞いている。不思議な人だ。息子は素直に大人の話を聞けるような子供ではない。わたしはいつもそのことに手を焼いているのだ。

「いい息子さんだ」

 親切にしてもらったが、老人に対して警戒心を緩めるわけにはいかない。なにしろ、浮浪者のような風体だ。なにを企んで人気ひとけのない公園にいるのかしれたものではない。老人が腰を下ろしたベンチの一方の端に、わたしはちょこんと座った。

「ありがとうございます」
「お礼をいうのはこちらだ。これまで見ているだけだったが、息子さんからはいつも元気をもらっていた。今日は直接話すことができてうれしい」

 わたしたちに気づいていただけでなく、息子のことを観察していたのかと、気味悪く思うと同時に、言葉の端々に現れる知的な雰囲気を意外に感じた。

「きかん気な子で……」
「いかんな」

 投げつけられたダメ出しに、驚いて老人を見ると、ぶしつけなくらいまっすぐな視線とぶつかって、わたしはたじろいだ。

「だれより第一に子どものことを認めるのは、親でなくてはならん。息子さんはすばらしい。なにも息子さんに限ったことでないが、子どもは自由だ。大人がなくしてしまったものを持っている」

 虫取り網を片手に、つぎつぎと森の下生えを覗きこんで回る息子を見た。自由か。そうかもしれない、わたしはもう恥ずかしくて網を片手に虫取りなどできはしない。女だから。大人だから。たしかにわたしは不自由で、息子は自由だ。

「やれやれ、説教じみたことをいってしまった。申し訳ない」
「いえ」

 ベンチを立った。小さな公園を横切って、イーゼルの前に立ってみた。森のなかを風が通り抜ける爽やかな場所だった。架けられたカンバスはやはり何も描かれていなかった。

「白いカンバスがいちばん美しいからさ」

 老人はベンチに腰を下ろしたままそう言った。しずかな森のなか、声はよく通って聞き取りやすかった。

「美しさを損なうのは罪だ……ぼくは大学で絵を教えてた」

 道理で。さっきのように教師のような話し方をするのは老人が本物の教授だったためらしい。森の賢者のような風貌の教授は、静かな声で話し続けた。

「運動も、勉強もできなかったけど、子どもの頃から絵だけは上手でね。70年絵を描いてきた。だれよりも自分の絵が上手だと思ってた。じっさいぼくの絵は、数えきれないくらいコンクールに入賞したし、同じくらいたくさんの絵がお金持ちたちの応接間の壁を飾るため、買われていった。

 でもある日、いつものように学生の絵を指導していたとき、突然わかったんだ。なにも描かれていないカンバスこそもっとも美しいと。ぼくはとんでもない勘違いをしていたと。

 ぼくは自分が美しいものを作り出していると思っていた。ぼくの絵がコンクールで評価され、お金持ちに買ってもらえたのは、その証拠だと考えていた。でも、それは間違っていた。

 美しいものは、ここにある。そこにある。
 いってしまった夏を追ってまだ聞こえるセミたちの鳴き声。
 優しい風に梢どうしがこすれあって沸き立つ森のざわめき。
 木立のなかを渡る風が頬をなでる爽やかさ。
 公園を訪れる親子の気配。子どもの笑い声。楽しい思い出。

 ここにあるなにもかもが美しい。でも、ぼくの絵筆はそのひと欠片でさえも、カンバスに描き留めることはできないんだ。描けないものは、描かないでいることが、もっともふさわしい。だから、このカンバスは真っ白なままがいちばん美しい」

 ベンチから腰を上げると、教授はわたしと入れ替わるようにイーゼルの前に立ち、絵筆をとった。しかし、その絵筆に絵の具を含ませたりはしない。ただ、森の下生えに木漏れ日が踊るさまを眺めたり、木々の葉がこすれ合う音に耳を傾けたりするだけだ。そのしぐさは優雅で森の一部であるかのように自然だった。
 
「絵の先生でいらしたんですね」
「大学はやめたよ。絵を描かない教師はいらんとさ」

 それでも、教授は愉快そうに笑って、少しも寂しそうではなかった。
 その日の午後、わたしはずっとベンチから森の教授を眺めてすごした。息子は、すべり台の陰でテントウムシを、砂場の脇のくさむらでカマキリを捕まえた。捕まえた昆虫は、教授に披露したあとくさむらに放して、わたしたちは公園を立ち去った。木立の向こうにその姿が消えるまで、教授と息子は手を振り合っていた。しばらくぶりの楽しい散歩だった。

 その日を境に、森の小さな公園から教授の姿が見えなくなった。つぎの日も、そのまた次の日も。

「教授いないね」
「きっと、公園にくる時間を変えたのよ」
「カブトムシ。見つけてくれるといいな」

 しかし、十月になっても、十一月になっても、森の公園に教授は姿を現さなかった。息子は、教授がカブトムシやクワガタを追って、暖かい南の国へいってしまったのだと教えてくれた。ひょっとしたらそうかもしれない。あの人には緑豊かな公園がよく似合っていたから。森の小さな公園は、少し寂しくなった。あるべきところにあるべきものが欠けているように感じた。

 十二月。葉を落として寂し気に林立する木々のあいだを抜けて、わたしはひとり小さな公園へやってきた。森の昆虫たちは冬ごもりをはじめていて姿が見えない。そのためか、息子は家でお留守番をするというので残してきた。ちょうどいい機会だと思った。文具店で小さなイーゼルとカンバスを買ってきたわたしは、夏――教授がそうしていたのと寸分違わぬ位置にイーゼルを据え、カンバスを架けてみた。

「よし」

 カンバスの前に立つ。紅葉が終わり、葉を落としはじめた木々が広がる公園は、赤茶けて元気がない。ずっと続く遊歩道を歩いている人たちも背中を丸めて寒そうだ。夏ははるか遠く、秋も過ぎ去って、教授が愛した小さな公園から見える風景は冬になっていた。

「でも――」

 その風景は、いまも美しい。
 灰色の空にほうきを逆さに立てたような落葉樹の林。
 常緑樹の丘を越えて吹く、きりりと冷たい風。
 赤さびたブランコやすべり台を照らしている柔らかい日差し。
 寒さに身体を寄せ合って歩く恋人たち。
 教授はもういないけれど、あるべきところにあるべきものが、ほんの少し戻ってきたように感じた。

 冬は素敵な季節になりそうだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?