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「note」癒える日本


文字を紡ぐリビドーによりて


岡田斗司夫氏は
「作者は自分が何故、表現しているかわかっていない」
ということを述べ
「後でああいう表現をしたのはこういう意図があったため」
と、例えば、アニメーション作家なら、(後付けで)説明する(出来る)かもしれないが、本当は作った者自身、何故、作品を作ったのかは知りえず、敢えて言うならば、わからないからこそ、表現している、のだ、というような内容のことを述べられていた。

以下に、記すことは読者であるあなたの考えである、ということも強ち間違ってはいない。そうでなければ、あなたはこの文章を読むことはなかっただろう、これだけは確かに感じられてならない。

小学の中学年から、ずっと文章を書き続けてきた。卒論は自身も読めない悪筆でしかも万年筆で筆圧最強に書かれていて、内容も支離滅裂だった。

精神障害で2度入院し、6年かけて地元の大学を終えた。大学院に進学したかったが、吾が学部はその大学では最も新設の学部のためか、唯一まだ、院はなかった。

体調などのこともあり、ずっと警備員やパチンコ店店員、土木作業員、工員など、20以上の職場にお世話になった。

その当時は、正直に既往歴を記したら、どこでも働けなかっただろう。

そんな中、なんとか、下層の労働者として生きてきたことに今では「恵み」であったと感謝でいっぱいだ。

厄年を迎えた年齢の時、其時は2度目の警備員として業務に携わっていたが、数年前に修士課程だけではあるが、院が設立されていたことを知った。

働きながら、「哲学小辞典」をすべて1年かけて書写するなどして、入学テストに臨んだ。

受ける前に挨拶に行けとマニュアル本に書かれていたので、研究室を訪ねると、学部生だった頃、助教授だった、中村先生は早、重鎮になられていた。

吾が科は小池稔先生と中村文郎先生も自由に喫煙しながら、ゼミに臨むことも許してくれていた。

20年近く経ったその当時は、中村先生は学部生にお酒を買って来させ、飲みたい学生には自由に振る舞ってゼミをなさっていたらしい。

こんなことをしてもお咎めもなかったことは、偏に先生の人格のお陰だっただろう。

帰り際、先生は
「問題を教えようか ? 」
と、先生らしい提示をしてくださったが
「結構です ! 」
と、キッパリと断った。

残雪のあるまだ寒い朝、仕事を以前から、休む届を出していて、1号館に入ると、男性の事務員さんが、自分の名前を「さん」づけで呼んでくれた。
まだ、覚えていてくださったらしい。

他大学から、言語学を研究するために受験しにきた東君と知り合って、彼は自分の前の席だった。

10問から好きな2問を選択し、記す課題だった。

哲学的な問題2つを選択し、辛うじて判読可能な位の丁寧な字を紡いで行った。今でも覚えている問題の一方は「スコラ哲学」について記すものだった。あとひとつはまったくどんな問題だったかは覚えていないが、満足の行く回答だったと自身では感じていた。

さて、結果発表──

「合格」嬉しかった。

学部の新院生がひとつの部屋に集まり、担当教官と対面するはずであったが、中村先生だけがいらっしゃらない。

当て所なく、図書館へ行って、本を眺め、もう時間なので外に出た。

そうしたら、右手の方から、懐かしい(帰ってきた)酔っ払いらしき風貌の足取り。

中村先生だった。挨拶をすると
「家に行こう」
と、誘ってくださったので、助手席に先生を乗せて、県都の南方の住宅地を目指した。

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