見出し画像

益川敏英先生ノーベル賞受賞の翌日

↑2008/10/8 15:24 対話集会の様子

益川敏英先生から、京都大学吉田寮生へのメッセージというnoteの記事がすこぶる面白かった。

 学生部長の先生と吉田寮代表の学生が、20年後に再会して当時を振り返るインタビューだった。本記事は、学生図書出版 実生社 より2024年3月に刊行予定の『究極の学び場 京都大学吉田寮』から抜粋して一時的に公開されているとのことだ(※1)。なので、そのうち非公開になるかもしれない。以前、吉田寮に関する記事を書いたからか、noteがおススメしてくれた。益川先生がノーベル賞を受賞された2008年は筆者の在学時と重なる。今回は、構内でたまたま目撃したノーベル賞対話集会についても記載したい。

記事要約

 2019年に行われたインタビューで、益川先生が学生部長だった1996年に、当時の吉田寮生との交渉を振り返っている。インタビュー相手は当時の学生代表だ。教職員と学生との団体交渉は非常に長丁場でタフな仕事であることは、副学長時代の尾池先生も述べていた。
 交渉に臨んだ学生は、中学生のころから益川先生に憧れており、詰め寄りつつも内心ドキドキしていた様子が伝わる。交渉内容の一つは火災で焼失したシャワー室の建て直しがあり、確約によって見事に直された。そのシャワー、2007年に私も使わせて頂きました。交渉後は益川先生を吉田寮に招き、ちょっとしたドッキリも仕掛けている。一緒に歌を歌ったり、信頼関係が構築されていることが伝わる。60年代の熊野寮誕生に関する記事にも書いたが、団体交渉は一見すると学生と教職員がとことん闘っているように見えて、終わったらお祭りで一緒に歌ったりして打ち解け合っている。両者とも、日常と非日常をうまく使い分け、信頼関係を醸成していたことが伝わる。
 1996年に話を戻すと、別の話題で学生が抗議に行った際、エキサイトした学生と押し合いになってしまった。それに怒った益川先生は目をつむって、渡り廊下にあぐらで座り込んだ。学生代表の方が話しかけると、

すると目を閉じていた益川先生が、反論したいご様子でまぶたをふるわせました。もうちょっとで、口を開いてもらえると思ったその瞬間、先生は、座って目をつぶったまま、指で空中に難しそうな数式を描き始めましたたぶん、物理の計算をすることで精神集中をされようとしていたのでしょうか。みんなで、あっけにとられました。

 そのときはまだノーベル賞を取られていないときでしたが、周囲の学生たちは「すごい、これが世界一流の物理学者か……」とどよめきました。その光景が印象深かったです。

益川敏英先生から、京都大学吉田寮生へのメッセージ
『究極の学び場 京都大学吉田寮』図書出版 実生社 note 2024年2月14日 20:01

 す、すごい・・・。

対話集会当日の想い出

 2008年の秋、2回生の頃だ。大学からのメールか何かで、ノーベル賞受賞翌日に益川先生の対話集会が北部キャンパスで急遽開かれることを知った。しかも、予約必要なしで無料だ。本当にノーベル賞が出るんだ、この大学。よくわからんが、見れるもんは見ておこう。水曜3限の授業ののち、北部キャンパスへすっ飛んでいった。集会は15時開始なので、3限終わりでは完全に出遅れている。

2008/10/8 15:29 理学部6号館入口

 受賞発表はこの前日だったにもかかわらず、会場にはすでに紅白の垂れ幕がかかっている。準備がいい。ただ、到着した401号室はすでに学生で一杯だ。まったく、理論の中身も知らないであろうひよっこたちが。そもそも、ノーベル賞ばかり注目されるのが偏ってるし、研究は受賞が至上目的でないのだよ本来。興味本位の野次馬根性で来よってからに、やれやれ。と、自身のことは棚に上げて必死に覗き込んだ。

2008/10/8 15:25 理学部6号館401号室入口

 すげえ!本物のノーベル賞物理学賞受賞者だ!アホのようにガラケーを持って腕を伸ばし、人垣の隙間からパシャパシャと何とか撮影した。

2008/10/8 15:25 理学部6号館401号室入口

 撮れた!やった!お話の内容は聞こえないくらい遠いし、あまりに人で一杯だったので、撮るだけ撮って満足して早々に退散した。
 当日の様子は、京大広報の号外に後日掲載されていた。

京大広報号外 2008.10 p.2749

15時から,本学の学生に向け対話集会を開催しました。急な開催決定にも関わらず,会場となった理学部6号館には,300名収容の講義室が満員になったほか,立ち見や講義室に入れない学生が多数出るなど,多くの参加者が詰めかけました。理学部 6 号館前の銀杏並木の通りにも学生が溢れ,到着した益川先生は,講義室まで続く人の道の両側から拍手と「おめでとうございます。」の言葉で迎えられました。

京大広報号外 2008.10 p.2749

 あれ?さっきの写真と服装が違うぞ。益川先生は黒いスーツを着ていらっしゃる。ということは、先ほどの写真中央の白シャツの男性は司会の方か何かで、違う人を必死に撮っていた?16年目にして初めて知った。

2008/10/8 15:24 たぶん益川先生

 偶然、もう一枚会場を撮影しており、右端のスクリーン前で映っている黒スーツの方が益川先生と思われる。ギリギリだった。

ノーベル物理学賞の内容

 このまま文章が終わっては、本当にただの野次馬のままだ。せめて、この機会に内容をかいつまんで何とか理解し、皆様に共有したい。参考として、高エネルギー加速器研究機構KEKの記事がわかりやすい。
 受賞対象となった小林・益川理論は宇宙がどう出来上がったかというストーリーを描く助けになる。この世界の物質は原子でできており、原子はさらに小さい原子核と電子からなる。この原子核はこれまた中性子と陽子という、素粒子でできている。素粒子にはいくつかグループがあり、中性子と陽子はハドロンと呼ばれるグループに分類される。本理論は、そのハドロンを構成するクォークと呼ばれる素粒子が、従来知られていた3種類だけでなく6種類存在する事を予言した。

素粒子・原子核物理学とは KEK マルチメディアライブラリより

 粒子には、反対の性質をもつ反粒子と呼ばれるがものが存在する。これらが衝突すると対消滅し、消えてなくなってしまう。宇宙が出来たばかりの状態では、粒子と反粒子ばかりが飛び交っていた。両者が同数なら宇宙全体の物質が消滅してしまうが、なぜか両者の総量には偏りがある。これがCP対称性の破れと言われる。粒子からなる物質と、反粒子からなる反物質の総量は、今の宇宙では圧倒的に前者が多い。これが一つの謎とされてきたが、小林・益川理論は上手に説明するモデルを提唱したものだ。物質と反物質どちらが多くなるかは、サイコロを振るようにわからない。反物質で満たされた宇宙もあり得たし、その世界では反物質のほうが物質と呼ばれていたかもしれない。
 予言されたクォークの存在は、1999年に始まったKEKの実験などで実証された。この理論は益川先生が京大学理学部物理学教室で助手をされていた時代になされた仕事だ。
 詳しく知りたい方は、ぜひ雑誌Newtonや講談社ブルーバックスを読んでみよう。上記説明でどれほど合っているか自信がないが、だいたいこんな感じだと思う。写真ばかり撮ってないで、しっかりとお話を聞いておくべきだったなあ。

まとめ

 益川先生へのインタビューが行われたのは、吉田寮の明け渡しを求めて大学から学生が裁判で訴えられた2019年4月から半年後のことである。5年近く経過した先日、ようやく地裁判決まで進んだ。団体交渉だったら長くても数日だ。益川先生が学生との交渉役である学生部長をされていたことは、上記の記事で初めて知った。
 ちなみに、2回生のころからつけている日記があるのだが、書き始めたのがこの翌日の2008年10月9日(木)だったので、集会については何も記載がなかった。もったいないのう。しかし、ガラケーで写真を残していてよかったといえる。恥ずかしげもなく野次馬しに行った、当時の自分をほめたい。
 益川敏英先生は2021年7月23日にがんのため永眠された。理論物理だけでなく、学生との交渉でも多大な功績を残された方だったことが知れた。この場を借りて、ご冥福をお祈りいたします。

※1 2024年3月から5月に変更されたようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?