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吉田寮の茶室にあった富岡鉄斎の菜根図

↑2010年3月26日 13:46 多分無人販売にあった一つ100円の大根 
・富岡鉄斎は明治大正期に活躍した京都の文人
・吉田寮の茶室には鉄斎の菜根図が飾られていた
・長男の謙蔵は京大文学部創生期の講師
・当時の山川総長が鉄斎に依頼して学生集会所に贈ったもの
・西島総長はいつでも学生ら見せれるようにしたいとのこと

「発見」された鉄斎の作品

 吉田寮には創建当時から茶室が存在し、今は学生の居室として活用されている。玄関入って右手のあたりだ。

西山夘三 寄宿舎(7) 新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6)
出版者 新住宅社 1968-06
p. 81

 この部屋は動画としても記録されている(京都大学吉田寮記録プロジェクト 2018年)。写真集「京大吉田寮」曰く、茶室にはこんなエピソードがある。

1910年代、京都帝国大学の山川健次郎総長は「学生教育のため」に、文人画家として名高い富岡鉄斎に作品の制作を依頼した。ところが鉄斎の描いた″菜根図”は京大に贈られたものの、いつからか所在がわからなくなった。1955年、国立近代美術館が鉄斎の絵画の全国調査を行った際、なぜか吉田寮の茶室に飾られていることが判明した。その後、京大当局は美術品が吉田寮に保管されていることを問題視し、しぶる寮生を説き伏せて菜根図を寮外に搬出した。2013年時点で本部棟の役員ルームに飾られていることがわかっている。

平林克己 宮西健礼 岡田裕子 「京大吉田寮」2019年 草思社

 日本で初めてカレーを食べた男こと、六代目総長山川の時代だ。この菜根図、大学側の出版物にも役員フロアに存在することが確かに記載されている。2013年にホームカミングデイのイベントで、当時の松本総長が百周年記念館で言うには

(前略)京都大学同窓会長の松本 紘総長から, 役員フロアに掲げられている水墨画「菜根図」(富岡 鉄斎 1915年作)に書かれている詩文をとりあげ(後略)

京大広報 2013.12 No. 695 p. 4033

とのことだ。また、別の京大広報には図つきで掲載されている。

京大広報 1988. 4. 1. No. 349 p. 441

今,総長室に,鉄斎の水墨画「莱根図」が懸っています。 大胆な構図で,野菜が画かれており,その墨の濃淡が,葉のみずみずしい緑とその根元の丸味をもった白の冴えを感じさせます。まさに,雄薄な墨の造形ともいえる生気に満ちた作品です。

卒業式における総長のことば 昭和63年 3月24日 総長 西島安則
京大広報 1988. 4. 1. No. 349 p. 445

 1988(昭和63)年には総長室に飾られていたらしい。

なんで、鉄斎が京大に

 そもそも富岡鉄斎って誰なのか。鉄斎は京都生まれで、左京区の聖護院村にも住んでいた。長生きな文化人である。

鉄斎晩年の作 聖護院村略図 左が北
史料京都の歴史 第8巻 (左京区) 京都市 編 平凡社 1985.11

 熊野神社のすぐ西にも住んでいたらしい。今のラーメン第一旭熊野店かその正面あたりかしら。大根畑も見える。また、熊野神社のすぐ北にあった歌人太田垣連月の旧居(今のからふねやとか京大病院入口辺り)に私塾を開いたり、熊野寮から西の丸太町橋を渡ってすぐ右にある山紫水明処(頼山陽旧居)にも住んでいた。鉄斎の長男である謙蔵はその山紫水明処で生まれた。京都帝国大学に文科大学(のちの文学部)が開かれた1906年の翌年、東洋史学三講座が開かれた際、謙蔵は羽田亨とともに講師となっている。羽田亨は光華寮の名付け親だ。美術雑誌に、鉄斎と京大に関わるこんな記載を見つけた。寄稿者は東洋学者であり、その祖父の友人である伊藤介夫は謙蔵にとって漢学の師である。

(前略)文科大学の開設には富岡家の存在が一つの役割をつとめたのであった。つまり鉄斎、謙蔵父子の向学心と交際の広さが、簡単に門戸を開こうとしない古社寺や旧家と、大学の新進気鋭の学者たちとを積極的に結びつけてくれたのである。

日比野丈夫「鉄斎と京都学派」
別冊墨第10号  富岡鉄斎 人と書 1989年3月1日発行 芸術新聞社 p.200

 のちの文学部である文科大学設立に、富岡鉄斎は色々と関わっていた。例えば、付属図書館の初代館長島文次郎にも鉄斎謙蔵父子の影響があった。

付属図書館閲覧室 1906年 京大大学文書館所蔵

 謙蔵の日記をもとに、当時を振り返っていらっしゃる。

(前略)同じく『冊府』(第十六-二十一号)に、明治四十五年六月から大正元年十月までと、大正四年一月分の謙蔵先生の日記が連載されていて、これがまたすこぶる面白い。

日比野丈夫「鉄斎と京都学派」 
別冊墨第10号  富岡鉄斎 人と書 1989年3月1日発行 芸術新聞社 p.201

 この日記に、鉄斎から京大へ菜根図が送られた経緯が記載されているとのこと。

いま京大の総長室には鉄斎翁の「菜根図」の額が飾られているが、大正四年六月、八十歳の筆である。前記謙蔵先生の日記によると、大正四年一月十八日の条に、留守中、中山親和が山川(健次郎)大学総長代として来訪、学生集会所へ掲ぐべき扁額菜根の図を嘱託せらる、とみえる。すると、この図はもともと新築の京大学生集会所(現在すこぶる荒廃)のために描かれたものであったことがわかる。山川総長も在学中に何度か富岡家を訪問されているようである。

日比野丈夫「鉄斎と京都学派」
別冊墨第10号  富岡鉄斎 人と書 1989年3月1日発行 芸術新聞社 p.202

 すこぶるって言葉がお好きなのかな。総長代理の中山親和に関しては、京大文書館に〔中山親和氏ヘ弓術部名誉顧問嘱託ノ件〕(1918年12月18日)という文書が所蔵されていた。
 また、別の美術雑誌にも、1915(大正4)年に当時80歳の鉄斎に、山川総長の依頼により、「菜根図」を学生集会所のため揮毫とあった(「富岡鉄斎年譜」近代の美術 (4), 至文堂, 1971-05 p. 111)。

カレーを日本で初めて食べた男と鉄斎

 「美術研究」には鉄斎と最期まで最も親しかった一人に、山川健次郎の名が挙がっている。

美術研究 = The journal of art studies 9(12)(108)
東京文化財研究所文化財情報資料部 編
国立文化財機構東京文化財研究所 1940-12

 さらに、山川は個人的に鉄斎の作品を所蔵していたようで、その一つは「墨絵の蕪の自画賛」であり、物が少ないシンプルな部屋にかけている。これ菜根図の別バージョンだったりして?

「人格に触れて」 渡部求 著 三洋社 昭和5年 p. 360

 水墨画だけでなく書も所蔵している。

新科学としてのモラロヂーを確立する最初の試みとしての道徳科学の論文 第10冊
著者 広池千九郎 著 出版者 道徳科学研究所 1928年

 山川が明治25年に初めて上洛した際、鉄斎に蔵書を借り受けて勉強したとある。また、鉄斎も山川に新年の祝詞を送り、賞揚している。鉄斎は山川より17歳年上であり、物理学者と文人という、年代も立場も違う両者の間に親密さがあったことが伺える。若い研究者らと、鉄斎と謙蔵父子が地元史家とつなげたという話は確かなのだろう。設立して間もない大学の研究者と、それ以前の思想家達の間には、こうした草の根的な連携があったのだ。

学生集会所の設立と最後

 菜根図が贈られた大正期に建築された学生集会所の建物は2013年8月に解体され、2024年現在は立て直されている。筆者が在学中の2007年頃は写真のような感じで、当時も交響楽団などのサークルに利用されていた。

レトロな建物を訪ねて by gipsypapa | 2007-08-09 16:26
https://gipsypapa.exblog.jp/6673820/

 確かに、すこぶる荒廃している。菜根図がここに贈られたのは1915(大正4)年であり、学生集会所竣工の4年後のことだ。吉田寮の建設された1913年のすぐ後だ。

学内の集会場として東山近衛北東角に 1911(明治 44)年に竣工した。

京都大学 大学文書館だより 2007.4.27/Vol.12
京大大学文書館所蔵 学生集会所寄宿舎正門 1928年

 開設当時の写真が豊富なこんな資料もあった。

つまり、学生集会所建設の目的は、単独(分科)大学から総合大学へと発展した京都帝国大学において、各専門を持つ学生、教員、学者が交流し、異なる専門を有する者との知的交流を行い、刺激しあうことで、それぞれの分野の学問のあらたな発展に寄与することを目的として建てられたものである。(中略)
 また学生間の活発な交流のために館内での食事および飲酒も認め、またピンポン、囲碁・将棋 などの遊戯に関しても寛容な態度をとっている。

河野康治「京都大学キャンパス内歴史的建造物に関する研究
― 学生集会所を事例に ―」
社会システム研究 第16号 2013年 3 月
p. 153

 「(前略)学生が趣味・芸術に親しむ場としても当集会所は期待されていたようである。また使用方法についてもできるだけ学生の自主性に任せる自由な風土があったと考えられる。」とあり、文字通り学生が主体になる場所だった。開設当時の総長も

公説展覧会出品中にて文部省が買上げたる絵画数点は向に本学に貸附せられたり、其中一二は此会場に掲ぐべし。学内外の有志者より雑誌、図書、写真類の寄贈は必ず之あるべく、現時既に数種の申込あり。其使用法についても十分に諸君を信用し、諸君の自由に閲覧するに任すべし
之を要するに本場は実に学生諸君の自由に使用すべきものなり。

一九一一(明治四四)年 京都大学百年史 【資料編 2】[第2編: 百年の出来事] 第4章: 一九三〇年代初頭までの大学生活・学生運動 p. 337

と開場の演説で述べている。
 こうした場所に、大学から依頼してゆかりのある人物の水墨画が飾られたことから、当時の学生と教員らの一体感ががうかがい知れる。
 いっぽう、2013年の解体前における空気感をしのばせる寄稿文が京大交響楽団HPに掲載されている。1916年の設立から、解体前の学生会館とも100年近く歴史を共にし、今も活動している。

京都大学交響楽団HP 集会所寄稿文 photo by Naoya Kokado

集会所は、24時間、誰でも受け入れる場所だった。そして、いつでも戻って来れる場所だった。たまにヘンなおじさんおばさんが現れても適当に話を合わせ、ヤギやニワトリが闊歩していても、カメラを構えた人が入ってきても知らんぷり。オケをはるか昔に引退したOBさんがふらっと立ち寄って弾いていったり、旅行に行ったから、とおみやげを置きに来てノートの書き込みに笑ったり。先輩会に毎年あれだけたくさんのOBOGが集まるのも、集会所という帰る場所があったからだと思う。

ヴィオラパート員(2012年度入団)京都大学交響楽団HP 集会所寄稿文

 いつも、この場所から楽器の音が響いていたことを覚えている。

総長からのお言葉

 菜根図に戻ろう。菜根図が1955年に「発見」されるまでの間、吉田寮の茶室に移動した理由は不明だが、学生会館はすぐ隣の建物なのでちょっとしたきっかけだったのでないかしら。
 当時の総長から卒業式で学生へ送られた言葉に、こうも書かれていた。

80歳の鉄斎が,京都大学の学生のために書いてくれた賛 「人,莱根を咬み得ば,即ち,百事做す可し」をこの卒業式において,諸君へのはなむけの言葉とします。(中略)この絵は今総長室に懸っていますが,近く,学生諸君がいつでも見られる所に出すつもりです。 母校に帰って来た時はそれを見て,今日の卒業式を思い出して下さい。

卒業式における総長のことば 昭和63年 3月24日 総長 西島安則
京大広報 1988. 4. 1. No. 349 p. 444

 学生やOPがいつでも見られるようにしれくれるとのことだ。素晴らしい発想だ。最近の絵の動向を確認したところ、2015年には美術館に貸し出されていた。

「生誕180年記念 富岡鉄斎展 ―近代への架け橋―」出品リスト 
兵庫県立美術館(会期:2015年3月12日―2015年5月8日)

 2024年現在、大学の貴重資料デジタルアーカイブにすらないようだが、まだ大学にあるといいな。総長のお言葉からもうすぐ26年経つが、いつでも見られるようになるのが楽しみだ。

菜根譚の解釈

 鉄斎は自身の作品に対して絵よりも賛、つまり文字の方に注目してもらいたいと主張されていた。なぜ中国宋代の古典である菜根譚を題材を選んだのかは、想像するしかない。人によって微妙に解釈が異なる。並べて比較してみよう。

松本 紘総長から(中略)「何かを成し遂げるためには,情熱と信念がなければならない」との挨拶があった後(後略)

京大広報 2013.12 No. 695 p. 4033

前に,名誉教授の竹内 実先生にこの賛について伺ったことがあります。 これは,宋の人,汪革(字は信民) の言ですが,朱子はこの言葉を「小学」に集録しています。 そして,いまのひとのなかには,菜根を咬むことができないため,本心とはちがった生き方をしている人聞が多い,自戒すべきであると注記しています。 「菜根を咬む」とは食べにくいも の,あるいは食べたいと思わないものを,口を動かし,歯で噛み砕くことであり,積極的でダイナミックな動作であります。「百事倣す可し」,何事であれ困難なことも一大勇猛心をもって,着手し,完成することが出来るという意味にとれます。

卒業式における総長のことば 昭和63年 3月24日 総長 西島安則
京大広報 1988. 4. 1. No. 349 p. 444

菜根図には「菜根譚」の一説、「人常咬得菜根則百事可做」(人常に菜根を咬み得ば、則ち百事做す可し。一筋縄ではいかない物事につねに取り組む者は何事においても成功する)が記されている。

平林克己 宮西健礼 岡田裕子 「京大吉田寮」2019年 草思社

菜根を食べて淡白に甘んじ物質に心をわずらわせなければ万事うまくいくという教訓を書いて学生集会所に掲げたもの。

近代の美術 (4), 至文堂, 1971-05 p. 58
近代の美術 (4), 至文堂, 1971-05 p. 58

 最初の三者は「成功のためには我慢が大事」的なニュアンスだ。宋代中国の大根や蕪はそんなに固かったのかしら。最後のひとつは「シンプルであれ」と解釈している。う~ん、鉄斎は当時の学生にどういうメッセージを伝えたのだろう。漢詩の背景知識が双方にあったであろう当時、世代を超えて対話がなされていたのだろう。
 大根の歴史をさかのぼると、原産は地中海か中東あたりで、中国南部から日本に伝わったのは8世紀ごろにさかのぼる。菜根譚の書かれた宋代中国でも、鉄斎の生きた明治期の日本でも、一般的な食べ物だったようだ。個人的には、鉄斎が住んでいた聖護院村は大根が名物なので、その近くに出来た学生集会所に送る題材に選んだ理由の一つでないかしらと思ってる。
 ちなみに宝塚市にある鉄斎美術館もある清荒神清澄寺には、上記と別に菜根図の扇子もあるらしい。見たい。

六大新報 (2951) 六大新報社 出版年月日 1970-04

 さらに、鹿ケ谷の泉屋博古館には大正12年作の「扇面菜根図」がある。

泉屋博古館のX投稿

 同じ年の作なので、ひょっとしたら清荒神清澄寺から持ってこられたものかもしれない。

訴訟の行方

 いっぽうで、現代の学生と大学の関係性はどんなもんだろうか。話が飛ぶようだが、本日2024年2月16日、吉田寮住人が大学に訴訟された裁判の判決がなされた。

大学側が明け渡しを求めた訴訟の判決で、京都地裁は16日、退去要請に応じなかった大半の寮生については明け渡す必要がないとの判断を示した。

「大半の寮生、明け渡す必要なし」 京大吉田寮訴訟 地裁判決
毎日新聞2024/2/16 15:56

京大は19年4月に提訴。追加提訴も含めて、現在被告となっている学生らは約40人に上る。寮生側は請求棄却を求め、「対話」による解決を呼びかけていた。

京都大学「吉田寮」明け渡し訴訟 入居中の一部寮生の継続居住を認める判決
京都新聞 2024年2月16日 15:22

 吉田寮自治会は一貫して、裁判でなく話し合いを求めている。

私たち吉田寮自治会は話し合いを放棄するつもりはありません。

私たち吉田寮自治会は京都大学執行部に対して、学生を相手にした訴訟を取りやめ、話し合いを再開するよう切に求めます。

吉田寮現棟の明け渡し訴訟に対する声明文
2019年5月5日 吉田寮自治会

尾池 学生は大学執行部を信じているでしょう。信じているから、対話を呼びかけている。条件付きで旧棟を出るという方針を示しているのに、なぜむげにするのか。そこまで学生に高圧的になる理由が分からない。

京都大吉田寮問題とはなにか――大学自治の行方/広瀬一隆 - SYNODOS

 裁判の勝敗よりも寮自治会が求めているものがある。
 菜根譚に話を戻すが、個人的には「本心とちがった生き方は自戒すべきだ」とする朱氏の注記が好きだ。真摯な対話を生むために必要な態度かもしれない。

まとめ

 吉田寮の茶室には富岡鉄斎の菜根図が掲げられていた。それは、山川総長が尊敬する鉄斎の水墨画を学生集会所に贈ったものだった。のちに、大学によって茶室からしぶしぶ搬出され、総長室や役員フロアに飾られた。西島総長はその図に触れ、学生がいつでも見れるようにしてくれると卒業式で発言していた。
 過去の菜根図をめぐるやり取りから、対話とは何ぞやと考えだしてしまう。

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