マガジンのカバー画像

港町・函館 今と昔

49
天然の良港をいだく函館。 高田屋嘉兵衛の千石船が出入りし、ペリー提督が水と薪をもとめて開港をせまり、戊辰戦争では榎本武揚の艦隊が官軍と交戦するなど歴史を刻んできた。 開港160年…
運営しているクリエイター

#函館

箱館ハイカラ號

のどかにガタンゴトンと乗客をのせた ハイカラ號が 基坂下をかけぬけていった 明治時代の路面電車を復元した 「箱館ハイカラ號」 1910(明治43)年製 千葉・成田で運行していたが 1918年に函館にやってきた 一時は除雪に使われていたが レトロに復元され 30年ほどまえに客車となった 赤と白のクラシックなデザインが 人気だ 昔の写真が手もとにある 幕末、開港とともに開いた運上所を 明治になって税関と改めた その初代税関のまえを 移動する小型の鉄道 馬が曳いている

赤い靴の女の子

赤い靴(くつ) はいてた 女の子 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった 横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった 今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう (抜粋)                    作詞 野口雨情 大正11年 明治38年 わずか3歳のきみは、母かよと別れ 異人さんにつれられ船にのり函館をはなれた 旧桟橋(東浜桟橋)ちかくに 赤い靴の少女像「きみちゃんの像」がある   母

波乱万丈 唐牛健太郎

坊主頭のまま大学に入った1960年 安保闘争のまっただ中であった 大学構内は安保反対の立てカンバンが林立 連日デモ隊が国会をとりまき、岸を倒せ!  このときの全学連委員長は 函館生まれの唐牛健太郎であった シュプレヒコールうずまくなかに僕もいた   時はうつり 函館・大門の酒場で赤銅色に日焼けした彼と カウンターに連なったことがある そのころオホーツクの紋別で鮭漁師となり 母親のすむ函館にいっとき里帰りして 高校時代の友人と会っていたのだ 「安保の遺産で食っているのさ

「風花日和」

古い蔵の二階にあがってびっくり 屋根うらの棟木に墨でくろぐろと 「 明治9年4月13日 第13代 常野與兵衛 建造」 147年まえに建てられた木造二階建て土蔵造り この土蔵は、ペリーが箱館に上陸した22年後に 松前藩と会談を行った場所近くに建てられた 建て主の常野與兵衛は 大町にひらいた茶舗を拠点に 茶業、書店などをひろく営んでいた さらに大火事が頻発する この地で防災に力をそそぎ 函館公園の開設、さらにコレラ予防に 上水道の計画をすすめるなど そのころの街の顔役であ

啄木の片想い

石川啄木は ふる里の岩手・渋民で日本一の代用教員となる と教育に情熱を燃やしていた だが、校長排斥ストライキの先頭に立って 代用教員をたった一年で首になる        石をもて追はるるごとく     ふるさとを出でしかなしみ        消ゆる時なし 1907(明治40)年 啄木21歳の春5月、函館にわたった 詩集『あこがれ』で名が出始めた啄木を あたたかく迎えいれた 文学同人・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)のつてで 彌生尋常小学校の代用教員となった     わずか3ヶ月

幼子イエスをいだくマリア

函館山のふもと 観光客に人気がある八幡坂の坂上 ここで、すやすやと眠るイエスをいだく 慈愛にみちたマリア像を見あげると こころ安らかになる 箱館戦争の傷跡がまだ生々しい1878(明治11)年 シャルトル聖パウロ修道女会の修道女3人が フランスから函館にやってきた 休む間もなく教育と福祉の奉仕を始めた。 先ずは、孤児をうけいれ孤児院、授産所を開設 この授産所で針仕事の手ほどきをし この身振り手振りの 西洋裁縫教育こそが 白百合学園の源となった この小さなマリア像は 函

のらいぬCafé

美味い、美味いの2~3乗! パフェ・ピーチメルバ ここは千疋屋か 否、東京・銀座にあらず 北国の漁港 函館山のふもと イカ釣り漁船やウニ・アワビとりの 小舟がつらなる入舟漁港 ここにレトロでアートな隠れ家、 「のらいぬCafé」が忽然と 4年まえに野良犬のごとく 現われた 漁具店のガレージを改装し 電話も無く予約も不可だ 店名のいわれは 黒澤明監督・三船敏郎主演の映画「野良犬」から 佐渡の食材を使ったスープカレーなど 地元に多くのファンがいたが 奥さんの出身地・函館

神父の告白

フィリップ・グロードさん、 なぜ、神父になられたのか。 僕が投げたこの直球に ぽろりと本音を もらしたことがある。 フランス西部のブルジョアの生まれだが、 子供のころは手がつけられない 悪がきであった神父。 腕白で悪戯ばかりして学校を退学になり、 家で勉強して バカロレア(大学入学資格試験)に受かった。 元の学校の先生に、神父になりたいと言ったら、 おまえのような奴は、暴力団に入るか、 神父になるしかないだろう、と。 28歳のときに、フランスから函館に来て 半世紀あまり

サル山のボス

冬が近くなり函館・湯の川温泉にあるサル山温泉に遊んだ。 函館弁で“なまら、あずましい”とは、とても気持ちがよいの意。 それもそうだ。 サル山温泉は、なんと源泉かけ流しなのだ。 長く入りすぎてボーとした顔の猿もいる。  およそ90頭の猿が暮らし、力がつよく思いやりがあり、 人望ならぬ猿望があるのが、サル山のボスとなる。 歴代ボスのなかで「函助」は、 えばり散らさず仲間の信頼をきずき、 25年もの間、君臨して、 人間でいえば100歳で大往生した。 その日一日、サル山

函館の市電

現役最古参の市電は、いまだに窓枠が木製だ。 この製造から70年ほどの電車に乗れば、 高校生のころのわが姿が目に浮かぶ。 朝は、イワシの缶詰みたいにすし詰めの電車で登校した。 函館名物の大火、函館ドック、鮭鱒の北洋漁業、イカ釣り、青函連絡船、赤レンガ倉庫、新幹線……。 この港町の栄枯盛衰を見守りつづけた 市電は、1897(明治30)年、馬車鉄道を起源に開業。 それから125年あまりとなる。 1907(明治40)年、岩手から函館にやってきた石川啄木も 市電に乗ったにちが