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枯れ寂びライカ Japan

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ネットで遊んでいたら、ロマネ・コンティ1億2千万で売り出されていた。その高額に腰を抜かした。さらに、1945年生れでなんと71年もの。これで腰がくだけた。
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ロマネ・コンティ1945

ネットで遊んでいたら、 ロマネ・コンティが1億2千万で売り出されていた。 その高額に腰を抜かした。 さらに、1945年生れでなんと71年もの。 これで腰がくだけた。 世界大戦が終わった1945年、稀なる好天気でぶどうの出来は最高。 空前絶後の当たり年にロマネ・コンティは、たったの600本。 そのなかで、いま1億円ほどの3リットルボトルは2本だけ作られ、 その1本が妖怪のごとく日本に現われた。 「わいんばー・ギンザ」。 銀座コリドー街で営んで開業35年、ワインバーの草分けだ

京都でいちばん古い 明治初年創業のおでん「蛸長」 カウンターの銅鍋から だし汁の湯気が 立ちあがっている 九条ねぎの刻みを添えた生湯葉 とろりと柔らかい 店の名のとおり 明石産の蛸は絶品  わが輩の固くなった頭も 名物の蛸を食すれば柔らかくなる  京の旅は蛸長から  

名刺  18世紀初め ヨーロッパで生まれた 枚数不足で使用不可のトランプの余白に 名前と用件を書き 不在中の留守宅に置いてきた そのトランプは💓のA これは恋文!!! 洒落ていると流行ったのが 名刺の始まり で、今も名刺のサイズ トランプと同じ 半藤流・天衣無縫のコラム

みやびな平安王朝 一皮むけば権力欲と色好みの世界 そのなかを名門貴族の五男坊の 藤原道長は 幾度も失意と喜びを味わうが 政敵が疫病などで次々と消え 王朝の頂点たる摂政となり 「この世をばわが世とぞ思ふ・・・」と詠った 平安王朝絵巻の渾身の長編小説 今の世の政治世界に通じる

バーテンダーの神様 

封書が一通とどいた 差出人はクール古川緑郎 毛筆で西野鷹志様と書かれている いつものとおりの端正な字だ 予感がはしった やはり閉店のあいさつ状であった 上京のたびに 銀座コリドー街の バー・クールに足をむけて15年 そのカウンターに連なるために東京へ行く これが本音 バーテンダーの神様が銀座にいると聞き 意を決し酔った勢いで扉を押した まずはビールと頼んだが 洋酒のみとていねいに断られた クールの常連はテーブル席より 古川さんとカウンターをはさんで 立ち飲みと会話を楽

光源氏は男前?

昔々 琵琶湖のそばの石山寺を 訪れたことがある この寺には 紫式部が『源氏物語』を書いた と伝わる「源氏の間」がある   今をさる千年まえ 紫式部はこの部屋に七日間参籠し 昇った中秋の名月が湖面に 映える美しい光景に 人の世の栄華を思い  さらに無常を 感じたのだろう おもむくままに筆をとり 「今宵は十五夜なりけり」 と源氏物語を書きだした   さてさて、物語のヒーロー 光源氏はどれほどのセレブで 美男であったか 「掃木」の巻の「雨野の品定め」で 「女にてみたてまつらま

『マティス 自由なフォルム』

ロザリオ礼拝堂 昔々、フランスに旅したとき 南仏のロザリオ礼拝堂を訪れたかったが 時間がなくて果たせなかった覚えがある 新国立美術館で その礼拝堂が再現されていると聞き いの一番に駆けつけた マティスは第2次大戦の戦火から逃れるべく ニースから近いヴァンスに移住 そこの修道院の求めで 礼拝堂の立ち上げにたずさわった このとき、マティスは切り絵を制作し 建築家、ガラス工、陶工など さまざまな職能集団を動員した マティスは 「この礼拝堂は、私にとって一生の仕事の集大成で

紫のにほへる妹

絶世の美女だ、いや違う 貴人ふたりと三角関係にあったか、否か 世を去って千三百年あとの今も そんなやりとりがつづいている 万葉の女流歌人、額田王(ぬかたのおおきみ)    「あかねさす紫野行き標野行き野守はみずや君が袖ふる」 ー大海人皇子よ 慕わしいあなたが紫草が咲き誇っている御料地を あちこち歩きながら 私にお袖をしきりとお振りになるのを ほれ番人が見ていますよー 18歳の額田王は のちに天武天皇となる大海人皇子に 言い寄られて十市皇女を生んだ そのあと大海人皇子の兄

昭和の代筆屋

大河ドラマ「光る君へ」 紫式部・まひろが京の街なかで 恋文を代筆するシーンから 回り舞台のごとく 千年先 昭和の恋文横丁に飛んだ 恋をかたるに 歌をよむ素養が決め手だった平安の世 これは今でも変わらない 戦災で焼け野原となった渋谷にバラック街が生れ その一角に代筆屋が登場した 朝鮮戦争が始まり 駐留軍のアメリカ兵と恋におちた女性の その思いを本人に代わり手紙を書いたり 訳したりするために代筆屋が生まれた そのひとり菅谷篤二さんは 戦後、渋谷のバラック横丁で 先ずは古

太宰治とストーブ列車

真っ赤に燃えるだるまストーブの金網にスルメを乗っければ、 ほどなく白く細い煙がたち反り返って、食べごろだ 十三湖のスルメを咬んで地酒でほろ酔いのままに 極楽列車は雪原をゆく 津軽の冬の風物詩、津軽鉄道のストーブ列車は 五所川原と津軽中里を一時間あまりでむすぶ 途中、金木で下り、太宰治が生まれ育った 斜陽館に立ち寄った 大地主の家だけに豪邸だ 津軽の風土と太宰の出自は 四度も自殺未遂をくりかえした彼の生き様に どんな係わり合いがあったのだろうか

太宰治の遺書

これが小学生の書いた作文なのか 文字、内容とも子供がつづったと思えない これこそ、持って生まれた文才なのだろう 太宰治が幼いころ鉛筆で書いた生原稿 青森でたまたま目にして驚きで声もでなかった 太宰は原稿を好んで毛筆で書いたといわれる 弘前出身で太宰の自伝を書いた 長部日出雄『辻音楽師の唄-もう一つの太宰治伝』によると 太宰の原稿を手にした古谷綱武は 和紙にすこしかすれるような墨づかいで書かれた きれいな筆の字におどろき さらにその内容に興奮 無名の大型新人現わると直感した

まんぷく食堂

東京駅から有楽町駅までのガード下を 探検したことがある そば屋、居酒屋、イタ飯、中華、カフェ ビアホール、焼き鳥、アイリッシュバー…… さすがフレンチはなかったが 大都会のど真ん中に 雑多でディープな空間がずらり 新宿が引っ越して来たかのよう いち押しは、まんぷく食堂 銀座から日比谷へ通りぬけるガード下 その通路をうまく使った 昭和レトロが満載の居酒屋 カレー、ラーメン、親子丼、スパゲッティ 出汁玉子焼き、ステーキ…… 店内も桜や銭湯の富士山の絵を 当世風に描いた和モダ

太宰治『津軽』

日本海の漁師町、小泊に路線バスで 着いたときはすでに夕暮れ なにはともあれ 太宰治と越野たけの像にむかった 太宰の小説『津軽』を手に 作家が古里を20日ほど歩いた その足跡をたどろうと 津軽半島をまわった 大地主10番目の子であった津島修治は 2歳から6歳まで子守のたけが 母親代わりであった が、あるとき育ての親は姿を消してしまう 『津軽』は、自分さがしの自伝小説で 山場は たけとの30年ぶりの再会だ   「修治だ」 私は笑って帽子をとった   「あらあ」 それだけで

御沈酔される上皇

握りこぶし大の丸い平たい石が ぎっしりと水ぎわを埋め ずっと先まで広がっていた 桂離宮のちまちまとした州浜とは、おおちがい ここは、仙洞御所の南池の州浜であった 天皇を退かれた後水尾院の御所として 江戸の初めに築かれた仙洞御所 なんども火災にあい改修をかさねてきた 小田原の藩主は  湯河原の海岸で米一升を日当に  長円形の平たい小石を領民に集めさせ「一升石」の逸話がうまれた   その数、11万個あまり  ひとつひとつ真綿でくるみ俵につめ2000俵を献上した 1643年