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【科学にさえ束縛されないデザイン思考】映画対決?「Matrix」 vs 「Interstellar」

暖かかった、いや寧ろ冬とは思えぬ汗ばむほどの陽気のメキシコから帰国し、その余韻に浸りつつ「生き物」であり「人間である」ことを絶対に忘れないで生きるメキシコの人々の生命感溢れる日常に、私自身も人間として在るべき生き方をこれからも実践していこうと再認識するこの頃です。さて、今回は最近の映画や科学理論にInspireされた個人的仮説やデザイン思考的な態度について(やや難解な部分もあるかもしれませんが)書いてみます。

ピルが赤かろうが青かろうがどうだって良い

メキシコ滞在中に映画「Matrix Resurrection」をスペイン語の吹き替えで(!)観ました。私にとってスペイン語はリズミカルで独特の暖かみのある語感を持つのでMatrixの重厚でシリアスな世界観がある意味壊されちゃうかと思いきや、今回の「Matrix Resurrection」自体が自虐パロディ風のノリだったため妙にマッチしました。またメキシコの観客の反応もクライマックスで覚醒したトリニティが「Non! Mi nombre es Trinity !」と叫ぶ瞬間は歓声が沸くなど一体感がありノリも良く、盛り上がりました。

Matrixと言えば今世間を騒がせている説に、この世が全て誰かによって作られたシミュレーション(仮想現実)ではないか?というのがあります。真偽は定かで無いにせよ一説にイーロン・マスクやジェフ・ベゾスもこのシミュレーションから脱する方法を模索しているとか。いわゆる2重スリットの実験など光子や量子の研究などにもそれを示唆する現象が色々あり、私も興味深く見つめていますが、私の最終的態度は「そんなのどっちだって良い」です(笑)。私には、ピルが赤かろうが青かろうがどうだって良いと。

人の心は胸に在るのか?それとも頭に在るのか?

子供の頃にこんな問いに出会ったことが誰しもあるでしょう。私はやはり胸だと思います。私の知る限りどんな国籍の人でも多くの人が心は概念的には胸の内に在ると考えているでしょう。ジェスチャーで胸に手を当てるなど極自然に自分の魂の在りかを胸に規定している。以前に触れた様に恥じらいからハグが苦手な私ですが(笑)ハグというものが互いの“心”(胸)を最も近付ける行為として重要な意味を持つだろうと個人的には推察しています。

成長と共にいつの間にか人は頭(脳)で考えると学ぶことから、では“心”は頭脳に宿っているのか?という疑問が持ち上がる。もしそうなら人は何故、心の在りかを胸として知覚したがるのか? もしかすると緊張でドキドキしたり恋愛でワクワクしたり、心理状態に連動した心拍や呼吸の増加など心臓や肺周辺の身体的経験として知覚されることから、心そのものが胸に収まっていると認識するのかもしれませんし、或いはもっと単純に、人間にとって最も大切なモノは体の中心に収まっていて欲しいと、そんな感情があるのかもしれません。

最近になって腸が思考する(!)とか新たな学説もあり、そういう意味では本当に心臓も考えたり感じたりしているかもしれません。はたまた正反対に、全ての人の“心”は既にAWSのサーバ上で管理されているかもしれない(笑)。こんなことさえまだ誰にも分っていないのだからある意味で凄いことです。良くも悪くも科学は未だ万能ではありません。

「予兆」と「残像」の再価値化

アインシュタインの相対性理論でさえ量子研究の様な超ミクロスケールでは破綻するように、科学は常に万能ではない。例えば科学の一側面を「目の前で起きている現実に見出される“不可解な謎”を解き明かそうとする行為」だとするなら、科学はある意味で永遠に真理とのイタチごっこになるのかもしれません。話は少し逸れますが、最近参画しているプロジェクトでリアルとバーチャルの融合した空間をデザインしています。そこでの私の一つの仮説として「予兆」と「残像」の再価値化というものがあります。

人の能力は凄い。例えばどんなスケールの体験でも記憶して、いつでも脳内でパッと再現できてしまう。オーケストラが演奏する交響曲だってクルマを運転しながらでも脳内で再生できます。再現性は完全では無いにしても自分の記憶の中では十分な臨場感を持って再現できている。一方でその瞬間の経験を規定するのはプランク時間に認識できる情報量に限られますから、つまり現実とは「予兆」と「残像」の狭間に生まれた一瞬一瞬の経験ということになります。

自分の直感に従って生きる

だとすれば、その前後の予兆と残像が重要になると。脳内でしか生成/再生されることのない予兆と残像をより解像度高く再現できたら今の現実世界の経験をより深化させることが出来るかもしれない。勿論、これは単なる私の仮説にすぎません。しかし、自分の経験や体感、直感を通じて至る仮説と、その真偽を追い駆ける時ほど興奮する瞬間もありません。

話は最初に戻って世界が仮想現実かもしれない説に対し、私が「そんなのどっちだって良い」と思うのは、どちらにしても自分の直感に従って生きていく他無いからです。前述のように人の心が何処に存在するのかすら分かっていない。でも私の直感は「心は間違いなく胸に在る」と言っている。もしかしたら近い将来、最新の量子重力理論が、人の心が本当に胸の内に在ることを立証したりでもしたら、それはPoetic(詩的)でFantastic(素敵)です。

このnoteで私が一貫して発信している「常識を疑え」ですが、私は現在の科学で説明されていることさえ疑うべきだと思います。例えば仮に、現在の科学が人の“心”は“頭脳”にあると証明したとしても私には関係ない。私は「頭で」ドキドキしたりワクワクしたりしないから。自分の直感と体感を信じ、どんな困難な局面でも自らの決断と行動を以って打開していく。ちょうど、映画「Interstellar」で主人公クーパーが自らの決断と行動を以ってシンギュラリティを克服し娘マーフィの元に帰還出来た様に。デザイン思考は全ての常識や科学にさえ束縛されず、常に自由であるべきだと信じています。

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