見出し画像

【創造性の持つ謙虚さ】科学的情緒が埋めるべき神秘の余白

春といえばパンデミック前なら毎年3月初旬に行われるSXSWというイベントに参加するためテキサスはオースティンに1週間ほど滞在するのが毎年恒例でした。パンデミックにより2019年を最後にオンライン化されていましたが漸く今年はSXSW初のリアルとバーチャルのハイブリッド開催となりました。SXSW2022はCES同様メタバースなどに注目が集まる一方で、従来のSXSWに溢れていた活気や熱気が薄らいでしまったように見え今年はリアル参加を見送りました。最近のMITの研究テーマなどにも言えますがかつて多く見られた洒脱したユーモアや人の機知を感じさせる要素が少なくなった印象を持ちます。また、子供の頃から科学や技術が好きだった自分から見て最近の世間の動向には、この世界が元々持っている神秘性に対して”科学的で論理的な確証を過剰に求める”傾向が伺え、それらは現代の様々な問題とも関係があるように見える。今日はそんなことについて考えてみたいと思います。

■科学で過剰に“確証”を得ようとする傲慢

仮にAIが人間の思考を機械で再現しようとする試みだとします。またメタバースは仮想空間の可能性に見出す新たな生活圏構築の試みだとしましょう。新たな可能性に挑みその仮説に確証を得ようとする試み、それ自体は全く否定に当たらない。ただ私の懸念は最近そんな事象に人の傲慢が垣間見えるということでしょう。例えばソリューションという言葉。「課題解決」や「解」という意味ですが絶対の解などあるでしょうか。何処まで行ってもそれは「ある条件下で成立する解決策のごく一部」にしかならない。

科学的探究を否定している訳ではありません。寧ろ尊重しますし私は幼少期から一貫して科学者や科学に憧憬を持つ人間です。ただ最近やたらとその科学的アプローチが一定の仮説に確証を得ようとしすぎる傾向に傲慢を感じるのでしょう。今年のSXSWでスピーチしたSylvester AIというスタートアップはAIによってペットの気持ちを解析するAppを開発していて、それ自体は素晴らしい。動物の気持ちを察する手掛かりとしてAIを利用するならとても有意義な取り組みです。ただ本来、人間(飼い主)自身の情緒を以って汲み取るべきペットの気持ちを機械学習に依存して「理解できた」としてしまうのは少々安易かつ傲慢ではないかと思うのです。

■観測すると波動が粒子になるのは何故?

最近よく話題に上る量子力学、特に光が粒子なのか波なのかというテーマは私も興味深く見つめています。光子は最近まで粒子だと考えられていましたが2本のスリットを通過させる実験で通過時の干渉から波の性質も持ち合わせることが判明。しかもスリット通過直後を待ち構えて観測を試みると、まるで「観測者の意図」を感知したかのようにその直前まで示していた波の性質が一変し、粒子になってしまったという実に神秘的な話です。ヒトゲノムの配列さえ解読された現在、世の中の多くの謎が科学的に解明されている現代に残された「神秘の余白」と言えなくもない。

ある人々はこの実験結果を、この世界がシミュレーションである証拠だという。またある人々はこれぞまさしく並行宇宙の存在証明だという。私個人は「条件次第で粒子と波のどっちにもなり得る」ことが”神秘的”ではあっても”違和感”は持ちません。何故なら世の中の多くの事象は陰陽が示す通り対局する要素の表裏一体です。不可解を探求する科学的スタンスは理解しますが、しかし「光は粒子か波かのどちらかでなくてはならない」的な、二元論的な思い込みがあるとすれば少々違和感を感じる。思い込みとは詰まるところ傲慢です。“科学で”埋めなくても良い神秘の余白もあるかもしれません。

■自分自身を肉眼で見ることさえ無い人の一生

小学生の頃、考え事をして眠れなくなることが良くありました。以前にも紹介した「宇宙の外側には何があるのか?」の話もその一つでしたが、同様に気になったのが「人は一生、自分自身を肉眼で見ることが無い」という事実。小学校4年生の時、鏡というものに興味をそそられ、鏡の前で親のメガネを掛けてみたり、カレーライスを食べてみたり(別にナルシストではありませんw)。鏡に映った自分を見れば見るほど、それは人為的に作られた映像のように自分には見え、そして色々不思議でした。

何故左右が反対なんだろうとか、何度試しても自分の瞬き(目を閉じた瞬間)を見ることができないとか、合わせ鏡をすると角度に拠って自分の姿が無限に連続して見えたりと興味は尽きない。そしてふと思いました。「鏡や撮像以外で自分を見る方法ってあるのか?」と。もしかして自分自身を“肉眼で”見ることって一生無いかも!ということに気付いたとき、やや愕然としました。自分で自分を自分の外から見ることは出来ない(幽体離脱できる人は別ですがw)。それは私に「一生出られないロボットの操縦席からの視界」を想起させました。肉体に幽閉された精神という言い方もあるかもしれませんが、ふと思えばこれも極めて神秘的です。

■科学の役割は人間の情緒を洗練すること

前述の量子力学の実験のように、宇宙の存在や自然の営みや振る舞いは、時に人間の思考が考え抜いた仮説を嘲笑うかのようにあっさりと覆して見せる。不思議な現象などを見て超自然的(Super Natural)と言ったりしますが、これも傲慢の現れ。むしろ人にとって超越して見えるのが本来の自然や宇宙という存在であると。自然現象を見て「超自然的」と感じることこそが人の傲慢を物語っている。そして私には今、そんな人や科学の傲慢や慢心が現在の紛争や疫病の一因になっている気がしてなりません。

創造性とは何かを凌駕しようとする企みではない。その意味で創造性やデザイン思考は自然や宇宙、神秘に対して常に謙虚であり、神秘の余白とは、科学でなく科学的”情緒”で埋めるべきものである、ということを示唆しているように思います。今やサイエンスに求められる役割は、神秘を論理的に解き明かし乗り越えようとすることを超えて、”科学的情緒”を以って自然や宇宙の不可思議な神秘に輪郭と手触り感を与えることで神秘の余白を寧ろ拡張し、その過程で人の情緒を洗練していくことではないかと思います。そして科学と創造性の整合点が其処にあると。

その昔、傲慢で豪胆なエゴイズムによって人が自然を捻じ伏せることで困難を克服してきた時代もある。しかし今、人間の傲慢な驕りや慢心が回りまわって世界を困窮に陥れているとすれば、そこに大きなアップデートが必要な時期が来ているのではないかと感じます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?