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元文科省のキャリア官僚と考える、小難しくない教育改革のお話⑤

【なぜ「教育改革」は難しいのか】

 それは、「みんな自分自身のこれまでの人生を否定したくないから」です。

 学校の先生の立場になって考えてみましょう。
 子どもの時、学校が全然楽しくなくて、イヤでイヤでしょうがなかった人が、果たして先生になろうと思うでしょうか。
 たまにはそういう人もいるかもしれませんが、大半はそうではないでしょう。多くの学校の先生は、子どもだった時の学校での「成功体験」を引っ提げて、先生になります。

 しかし時に(往々にして)、「教育改革」というのは、現在の、そしてこれまでの学校教育を否定することから始まります

「学校教育は失敗だ。現在の学校教育は、社会のニーズに合致していない。また、現在の社会を作ってしまった原因も学校教育にある。だから社会変革を起こすためにも、学校教育を変えなくてはならない」

 これが基本的なロジック(レトリック)です。この文章を先生の立場に立って読めば、「あなたは失敗作です」と言われていることになります

 ただ、当然ですが、誰もが学校教育を受けて育つので、これは学校の先生以外のすべての人にも当てはまることになります。

 しかし、大きく違うのは、先生は、「受け手」と「担い手」、両方の立場で学校教育に関わっているということです
 これは小さいことのようですが、とても大きなことです。なぜなら、先生には「逃げ場」が無いのです。

 先生以外の仕事の人は、「学校」か「会社」か「社会」のいずれかに責任を押し付けることができます。「自分や社会がこんなふうになってしまっているのは、学校か会社か社会のいずれかが悪かったからだ」と言うことができ、それによって自分自身の人生を否定しなくて済むのです。

 しかし、先生にはそれができません。上記のロジックを踏まえれば、「学校」か「会社(職場としての学校)」か「社会」のいずれかを否定すれば、自動的に自分の人生が否定されてしまいます

 これに対して、教育改革を推し進めようとする人々の中には、「自分の人生を客観視することもできないなんて、レベルが低すぎる」と言う人もいるかもしれません。しかし、自分のこれまでの人生を完全に否定するということは、ものすごくしんどいことです。相当強い人でない限り、そこから立ち上がることなんてできません。少なくとも僕にはできません。

 更に、そしてもっと大切なこととして、実は、教育改革を推し進めようとする人も、結局は、これまでの自分の人生に基づいて、意見を主張しています。こうした方々はよく「子どもたちのために」とか言ったりしますが、それは要は、自分の人生を否定したくなくて、でも、はっきりそうは言いたくないので、子どもたちを代弁しているかのように説明しているだけなのです。結局のところ、改革派のロジック(レトリック)というのは、「学校教育が不甲斐ないにも関わらず、自分は自分で努力して、社会の中で成功してきた。この自分の成功体験を、これからの子どもたちに広げていきたい」ということです。

 つまりは、「守り」と「攻め」の違いはあれど、学校の先生も、改革派も、その根底にあるのは「自分自身のこれまでの人生を否定したくない」という思いなのです。

 私がここで何を言いたいのかというと、よく「先生の主張は間違っている」、一方で「改革派の主張は正しい」と単純に見られがちですが、実際にはそんなに簡単なものではなくて、依って立つ論拠は同じだということです。
 もちろん、学校教育が変わるべき点は山ほどありますが、「片方が正しくて片方が誤り」というシンプルなものではなくて、「人生観」を含む議論なので、どっちも同じぐらいの正当性を持っているということです。
 逆に言えば、教育の舵取りを任せるには、どちらの側にも同じぐらいの危険性があるということです。

 そうであるならばどうすればよいか。
 私の答えは、「だからこそ、子どもたちが教育の舵取りを担うべき」ということになります。「これまでの人生」よりも、「これからの人生」を見ている子どもたちこそ、最も的確な判断を下せる可能性があります

 では、大人たちは、子どもたちに判断を全面的に委ねて、ただ見守っていればいいのか。それは違います。
 私たち大人の強みは、子どもたちよりも広い世界を知っていることです。

 もちろん、私たちから見た「世界」も、「これまでの人生」によって着色されていますので、ニュートラルなものでは全くありません。でも、僕はそれでいいと思います。無色透明な世界なんて面白くないので、子どもたちは興味を持たないでしょう。「僕が見てきた世界はこうだ。僕が見ている世界はこうだ」という話にこそ、魅力も説得力もあります。

 しかし、ここで注意しなくてはいけないのは、ひとつの世界観だけを子どもたちに押し付けてはいけない、ということです。

 出来るだけたくさんの「僕から見た世界」を子どもたちに提供し、その上で、最終的な判断は子どもたちに委ねる、ということが大切です。
 そして、そうした判断ができる力を育むためには、「子どもたち自身の目で、広い世界を直接見ることができる機会」を届けていく必要があります。

 学校の先生は、ともすると、外からの批判を恐れて、「僕から見た世界」の中に子どもたちを閉じ込めてしまいがちです(これ自体も「これまでの人生を否定したくない」という防衛本能から来るものなのですが)。だからこそ、そうならないように、学校を開いていく必要があるのです。

 詰まるところ、私たち大人の唯一にして最大の役割、それは、過去の人生にしがみつくことではなくて、これからの子どもたちの世界を広げてあげること、これに尽きるのではないかと思います。

 この共通のゴールに向けて、立場を超えて大人たちの力を結集することができれば、その結果として、きっと教育は「自然に」変わっていくと思うのです。

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