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元文科省のキャリア官僚と考える、小難しくない教育改革のお話③

【番外編】僕はなぜアメリカの教育大学院に行こうと思ったのか?

 教師の話の続きを書く前に、番外編として、僕がなぜアメリカの教育大学院に留学しようと思ったのかを書いてみます。留学のノウハウではありませんので、留学に興味がない人もぜひお読みください

 まずもって、「留学」というと、なんか華々しいイメージがありませんか?

いやいや全然!!

 ここに至るまでの道のりは、本当に泥臭くて、格好悪くて、吐きそうになるような日々でした。「帰国子女」とかでは全くなくて、学生時代の留学経験もなく、海外の経験は、旅行と仕事で数日間の滞在を数回したことがあるだけ。アメリカ本土は、旅行も含めて、今回初上陸です。

 TOEFLは半年で12回受けました。家だと子どもたちが騒がしくて集中できないので、職場の近くに自習室を借りて、退勤後、日付が変わる前まで勉強。齢40にして、人生で一番苦しい毎日がやってくるとは、夢にも思いませんでした。そんな日々を家族も知っていたので、大学院の合格通知を受け取った時は、僕よりも妻が号泣していました(笑)。

 そんな僕がアメリカの教育大学院に留学した理由。それは、「2つの景色」を見るためです。

 はてさて、唐突ですが皆さん、何で教育改革は進まないと思いますか?

「文部科学省がしっかりしないから」「前例踏襲の教育委員会が悪い」「教員が変わろうとしないから」「いや、保護者の問題だ」「学びをちゃんと評価しない企業が悪いのでは?」「諸悪の根源は大学入試」

 …などなど、色々な意見があると思います(加えて、「実際には目に見えていないだけで、結構変わってきているのでは?」という意見もあるかもしれません)。

 その延長線上の問いとして、皆さん、学校の先生のこと、信用していますか?

「全然」「まぁある程度」「頑張ってるのは認めるけどねぇ」「先生も可哀想だよねぇ」

 …などなど、こちらも色々な意見があると思います。
 とはいえ、「人による」というのと「素晴らしい先生もいるけど、多くの先生は疑問」という意見が多いかもしれません(残念ながら)。

 実は、この2つの問いが、僕がずっと答えを出せずに悩んでいて、そして教育大学院への留学に駆り立てた問いなのです。

 まずもって、僕は教師のことを尊敬しています。今年亡くなった父親も、そして妻も、公立学校の教員でしたので、頑張っている姿を間近で見てきました。
 具体的に言えば、父親は、よく戦っていました。誰かと言えば、他でもない、教師たちと。「何で子どもたちのよいところを見ずに、悪いところばかり見るんだ」と言いながら、毎日命を擦り減らして戦っていました。そして、今年、66歳の若さで亡くなりました。「教師にだけはなるな」が、彼の口癖でした。
 また、妻は、子どもたちにある意味「愚直に」向き合ってきました。文科省時代、僕が帰宅する深夜2時や3時にも、まだ起きていて、翌日の授業の準備をしていました。
 「頑張っている人は本当に頑張っている。でもそうでない人も(割といっぱい)いる」というのが僕の率直な印象です。

 そして、教育の主役が子どもたちなのは言うまでもありませんが、ヒロインは間違いなく教師です。舞台に上がる資格があるのは、子どもたちと教師だけで、僕らのような教育行政の人間であっても、音響か、あわよくば演出みたいなものです。なんか最近、教師じゃない人で、舞台の上の人たち以上に目立っていて、「自分たちが新しい教育のクリエイターだ!」みたいな人たちもいますが、僕は「そんなに教育が好きなら一回教師になってみたらいいのに」って純粋に思います(そりゃ外野からは自由に色々言えるでしょう)。

※ なお、誤解の無いように言いますと、様々な人たちが教育に関わること自体は、僕は大賛成です。問題は、そこでの「教師の位置付け」です。

 そこで、僕が教育大学院に入った第一の理由。それは「教師と同じ景色」を見るためです。
 これまで教育行政官として、上記の人たちと同じように、ある意味好き勝手言ってきましたが、なかなか教育改革は進まない。率直に「何でなんだろう?」と思いました。上に「頑張ってない人も割といっぱいいる」と書きましたが、基本的には、学校の先生というのは皆さん真面目な人たちです。割合で言えば、「サボりたい」と思っている人は、世間一般よりは圧倒的に少ないはず。

 だから、教育改革が進まないのは、
○ 「僕ら教育行政官が言っていることが、教師の目線から見ると的外れになっている」
○ 「教師の側に、それを実行できない理由がある」
○ 「上記2つの両方」
のいずれかだと思ったのです。

 それを探るために、「先生方と同じ景色と見てみたい」と思いました。
 実は、驚くべきこととして、教育行政官の多くは、教育を大学で本格的に学んだことがありません(学部は法学部か経済学部。留学の経験があったとしても、多くは公共政策大学院に通います)。だから、「教育の世界の言葉で、教育を語れる教育行政官になりたい」と思ったのです。

 更に言えば、その前提としてあるのは、「やっぱり僕は、教師の、そして人間の力を信じたい」という気持ちなんだと思います。

 「教師はテクノロジー(AI)に取って代わられるか?」みたいな議論がありますが、以前、高校生向けのPBL(プロジェクト学習)を開催した時、参加生徒の間で、こんなやり取りがありました。

「カウンセラーって、AIに取って代わられるかな?」
「えーどうかな。でも、弁護士とかですら取って代わられる可能性があるんだから、過去の相談してきた人のデータを集めて、それを分析すれば、的確なアドバイスはできちゃいそう」
「だけど、私は個人的には機械にアドバイスされるのってイヤだな」
「んー確かに。何でなんだろう?」
「たぶん、人間らしさって、『不完全』ってことと繋がっているのかもしれない。私たちが『不完全』だからこそ、いろんな人の苦しみにも痛みにも悩みにも共感できるし、自分が相談した時には、その人に共感してもらいたいって思うんじゃないかな。機械に「あなたの気持ち、よく分かりますよ」って言われても、なんかイヤじゃん(笑)」

 僕は教育というのは、そして教師の仕事の本質というものは、AIがスマートにこなしてくれるような、小綺麗なものなんかでは全くなくて、もっとドロドロしていて、泥臭くて、そして人間臭いものだと思うのです。

 一方で、ここまでお読みいただいて、「そんなら日本の教育大学院に行きなさいな」と思われた方もいると思います。
 そこで、もうひとつの理由です。それは、「新しい景色を見てみたい」です。

 実は昨年、ある朝、鏡の前で身支度をしていたときに「今日も何もない穏やかな日になると良いな」とふと思っている自分に気付きました。心の底から「これはヤバい」と思いました。教育というのは、基本的には、子どもたちに「変化」を届ける営みです。「昨日できなかったことが、今日はできるようになった」。これが教育の本質だと思います。
 そうであるにも関わらず、教育行政に携わる自分が、変化を恐れてしまっている。本気で、「教育の世界から身を引くべきなのか」と迷いました。悩んで悩んで、悩んだ先の結論は、「変わらざるを得ない世界に飛び込む」でした。その時自分に問うたのは「今、一番行きたくないところはどこか?」という質問で、冒頭書いた通り、僕の答えは「海外」だったのです。

 この2つの景色を見るために、僕はアメリカの教育大学院に入りました。アメリカでも、決して小綺麗でもスマートでも何でもなくて、泥臭くて格好悪い日々を送っています。20代のキラキラした子たちばかりのクラスの中で、40過ぎたおっさんが、英語も全然ちゃんと話せず、落ちこぼれとして必死にもがいています。

もがいた先には、果たしていったいどんな景色が見えるのでしょうか。

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