見出し画像

「把握の形式」と視覚的な音楽

ドビュッシーの交響詩『海 (La Mer)』

昔、ドビュッシーの交響詩『海 (La Mer)』という作品を初めて聴いたとき、曲がまったく把握できなかったことを覚えている。『海』は3部からなっている作品だけれども、複雑な旋律が非常に精緻に鳴り続け、全体として頭がこんがらがるような晦渋な曲であることはわかったけれども、最初に聴いたとき、旋律の流れがあまりに複雑なために、それがどんな曲だったかということは、ほとんどまったく印象に残らなかった。紙の上に、やたらに複雑に入り組んだ線が描かれていて、それらの線は精緻に引かれていることは理解できても、複雑で見なれないものであるために、ちょっと見ただけではそれがいったいどんなものであるのかということはほとんど理解できなかったというか。そして何度か聴いていくうちに、だいたい10回目くらいで、ようやく、こういう曲なのかということが漠然とわかりはじめた。一度、そういった曲の全体像というか、それが「こういう曲だ」という感じを掴んだ後は、同じ曲を聴くのにも、それ以前とはまったく違った把握の仕方で曲を聴くことができるようになってきた。いわば、『海』という曲を聴く際の「把握の形式」が頭の中で確立されてきた感じというか。

北斎

『海』初版スコアの表紙に使われた北斎の『冨嶽三十六景』

把握の形式

『海』はかなり複雑な曲だと思うけど、この曲に限らず、クラシックはあまり聴き慣れていないためか、初めて聴く交響曲などは、一度聴いただけでは、それがどんな曲だったのかということが記憶に残らないことが多い。有名な旋律が含まれているような曲なら、その部分だけは鮮明に覚えていても、全体像はまったくわからないままだったりすることもある。ところが、何度か聴くことで漠然とでもわかりはじめてくると、同じ曲が、まったく違ったものとして感じられることが多々ある。同じ曲なのに、初めて聴いたときと、少しでもわかりはじめた後では、ガラリとその曲の印象が変わってしまうときがある。それはたぶん、「把握の形式」が生まれる前と、生まれた後の違いなのではないかと思う。経験的には、音楽を聴く際に、その音楽を聴くための「把握の形式」がまったく備わってなければ、その音楽を少しでも理解することはほとんど無理なんじゃないかという気さえする。音が鳴っていることはわかっても、それを音楽として聴き取れないんじゃないだろうか。

「視覚的」な聴きかた

たとえば、『海』という曲は、旋律が複雑に鳴り続けていることはわかっても、最初、その旋律をメロディーとしてほとんど把握できなかったんだけれども、繰り返し同じ曲を聴くことによって、かつて聴いた記憶の上に、新しくまた同じ曲を聴いた記憶が積み重なっていき、そこで鳴っている旋律がどんな動きをしているのかという、メロディーの形というか、その形象の記憶が徐々に明瞭になっていったのかもしれない。ひとつの曲は、いくつもの旋律が様々に変化しながら繋がっているものだとしたら、そういった、様々な旋律のひとつひとつの形象性が見えてくることで、今度は、その曲の中で、複数の旋律同士がどのような関係のなかで鳴っているのかということを知ることができるようになってくる。部分的な個々の旋律の形象が見えてくると、そういった旋律が関係しあうことによって曲全体が有機的に組織されたものとして成り立っていることを掴むことが可能になってくる。そこまでわかりはじめると、その曲が始まり、それがどういう動きをしていきながら変化しているのかということもわかるようになってくる。様々な旋律の形象と、それらの旋律が曲の中でどのように関係しあっているのか、その具体的な姿が見えてくることで、その曲がどんな曲なのかということがわかるようになるといえるんじゃないだろうか。

海譜面

上に述べたことは、クラシック、それも交響曲のように複雑に構成された音楽を聴く際の「聴き方」みたいなものを推察して書いたものだけど、ポピュラー音楽を聴くときとは、相当に違った「聴き方」をしているんだろうと思う。ポピュラー音楽を聴く感覚で慣れないクラシックを聴いても、なんにも理解できなかったりするときもある。同じ音楽ではあっても、クラシックを聴くときは、ポピュラーとは別の「聴き方」を必要とするのかもしれない。

個人的な考えでは、クラシックを聴くときは、ポピュラーよりもより多くの「視覚的」な能力が必要となってくるんじゃないかという感じがする。音楽なのに「視覚的」というのはヘンかもしれないけれど、クラシックの場合、旋律の複雑さ、旋律同士の関係変化ということがかなり曲の成り立ちを決定しているという気がするので、まずは旋律というものを把握しなければ全然その曲がわからなかったりする。旋律というものは、持続しながら変化していく音なので、それはいわば「線」に例えられると思うけど、旋律の動きを把握することは、線の形がどうなっているのかを知ることに似ているんじゃないだろうか。旋律が生み出す形象を捉えるということは、線が生み出す輪郭を把握することに似ていて、それはかなり「視覚的」な話なのだ。といって、クラシックを聴いていて、具体的に旋律の形が見えたりするわけではないけれども。あくまでそれは「音」ではあっても、その形象を知るという側面において、「視覚的」といえるような把握の仕方が必要となるんじゃないか。旋律の形象の把握は、見えないけれども、形として記憶に残るんじゃないだろうか。

ポピュラー音楽の時間と振幅

対して、昨今の多くのポピュラー音楽では、リズムというものがすごく大きな音楽の要素になっている。大抵のポピュラー音楽からはドラムの音が聴き取れる。ドラムには音階というものがないし、それはノイズに近いんだけれども、ドッ・タン・ドッ・タンと鳴らされるドラムの音は、断続的だ。ドラムは打楽器だから、旋律を形作らない。旋律は持続する音なので「線」に例えられたけど、ドラムの断続的な音は「線」的ではない。リズムには、8ビートとか、レゲエとかさまざまなリズム・パターンがあるから、それらはリズムの形といえるものだけれども、リズムが作り出す形というのは、旋律線のように「視覚的」な輪郭を伴わないものだと思う。それは視覚よりも、呼吸したり、鼓動したりするような、定期的に打ち出される振幅による時間的な流れや変化に近いものなのだろうと思う。

視るということは、自分の外側にある対象物を把握することだから、それは外界を客観視して、それを理解するというようなことを伴っているはずだ。だから視覚には非身体的な要素(自分の外側)が含まれてくると思う。複雑な旋律を伴ったクラシックなどでは、ある程度、視覚的な把握が必要になるように感じるけど、リズム主体の音楽は、視るという空間的な把握よりも、時間的なもの、つまり振幅というものを感受することがその曲の把握につながっていくような気がする。それは自己の外側にある対象物というよりも、自分が外界と接触しながら保持している呼吸のように生まれてくる振幅であって、自己と世界とがつながっていくために必要な時間を生み出しているものであるように感じられる。そもそも、「視覚的」な要素が強いと思われるクラシックなどの音楽にしても、そこで出来上がる形象の動きは、文字のように特定の概念とは結びつかないから、理性よりも情動に強く訴えてくるものだとは思うけれど。

(了)

[補記] これを書いたのは2009年11月20日。本文の訂正は必要最小限に留めました。ヘッダー画像は、クリムト『音楽1』。

名称未設定 1

サポートいただけたら大変ありがたいです!いただいたサポートは、音楽を続けていくための活動費に使わさせていただきます。