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諦める[3年前の下書き]

言葉には無限の意味がある。3年前の2月に三浦しをんの「舟を編む」という小説を読んでいた。辞書編纂に携る人達のお話で言葉は使い手によって様々な意味を持ち、どう使いこなすのか、またその意味をいかに伝えるのかについて熱く語られている。小説家としての言葉への思いも込められているのだと思うが、この小説を読むと大学時代を思い出す。大学で仏教を学んでいた僕はよく大学図書館の地下二階、5、6mはあろうかという高い天井の書庫の一室で仏典を読みながら一言では理解し得ない謎の言葉達と出会っては考え、他の何かと結び付けては思索しての毎日だった。バイトもさほどしていない、サークルにも入らず、恥ずかしい話だが大学時代に多くの学生達がしているであろう学生らしい事はほとんどしなかった。ぼっち飯上等の鈍色の時代だった。でも何故だかあの書庫にいた時間は不思議と苦ではなく、言葉というものが結構自分は好きだったのだなと思う。さしたる文才も感性もありゃしないが、言葉をどれだけ深く味わえるか、そんな時間としてこの学生生活を過ごせた事は一方では幸せな時間だったのかもしれないと思う。

表題の言葉「諦める」。僕はこの言葉が大好きだ。言葉は一対一対応では表現しきれない微妙なニュアンスを含んでいると教えてくれた言葉だ。果たして世の中にどれだけの人がこの言葉の意味を知っているだろうか?この言葉が仏教由来のものかはよく知らないが仏典にはよく「諦」の漢字が出てくる。「四諦」「真諦」「俗諦」なんて形で出てくる。Googleで「諦」の意味を検索すると次のような説明が出てくる。  

〖諦〗 テイ・あきらめる タイ・あきらか
1.
あきらかに。ものの真実をよく見る。あきらめる。断念する。
 「諦念(ていねん)(たいねん)・諦観(ていかん)(たいかん)」
2.
仏教
見きわめられた道理。真理。真実。「タイ」と読む。
 「真諦・俗諦」

おそらく広く一般に知られているのは「断念する」という意味合いでの「諦」だと思うが、他の意味を読むと「あきらかに」とか「ものの真実をよく見る」とある。まさに仏教においてはこの「諦」という字は真理であったり、見極める事を指して使われていた。勉強を頑張ってきた人はこんな事など読み書きの勉強してる時点で分かってた事かもしれないが、僕はこの言葉の二面性に当時強く引き込まれたのだった。

言葉の使い分け、分別をしている人も無論多いとは思うが「諦める=悪い事」という価値観がこの言葉にはあるように思う。この言葉の意味から推察すれば諦めないから前に進めるのではなく、諦めるからこそ前に進めるのだという事を理解しないといけない。

言葉の奥深さは「舟を編む」の作中の言葉を借りればまさに海のようなもので、その大海を自由自在に渡るための舟が必要だという。いやこれは一つのネタバレだから深くは話さないとするが。。

言葉は深く広い世界(現実世界)を説明するために生まれた、しかし言葉に騙されてもいけないと仏教には記されていたりもする。人は思考する、言葉あるいは記号を使って、時に論理的に。。そこに落とし穴がある事がある。それを伝えた1人が龍樹の空思想とも言える。原初的な論理を捉えた思想、あるいは哲学がそこにある。僕もよくは知らない。。これ以上知っても仕方がなかった、何より僕に必要なのは外の世界だと知ったからだった。。

言葉の世界を諦め、外の世界へ進んだのだ。
外の世界では理屈も感情も全てがバランス良く
必要だ、これが本当に難しい。。。

楽しみ、悔しがり、涙し、怒り、そして乗り越えなければならない。

この世界は人智を超えた広さを持って我々を待ち構えている。だが怯んではいけないのだ。

believe yourself, believe the world.
Buddha

自燈明、法燈明。
釈尊

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