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ロマン主義を考える(6) 自由主義における自由を考える。 【『ゲーム制作のための文学』】

ナポレオン戦争においてフランスはロシアに敗北し、1815年、とうとうフランス革命から続いた自由主義とロマン主義の運動は潰えます。社会契約論を振りかざして、権利が重要、自由主義イデオロギーは絶対正義という主張はロシアにより粉砕されて保守主義の時代が生まれます。

リベラルは、自分の思い込みを他人に押しつける駄目人間。

この文脈において、エドマンド・バークは自由主義を否定して、次のような保守主義を提唱しました。

すなわち、自由主義とは社会を社会契約という哲学で理解して、知識人が人権という哲学的概念を国民に押しつけて、現実世界を無視して自由主義イデオロギーを振りかざした。だからこそ、自由主義フランスは保守主義ロシアから罰せられたのだ。

法治国家、憲法が何よりも重要で、伝統よりも法律が重要視されるような社会は絶対に成功しない。

なぜならば、知識人が考えた理想論は理想でしかなく、伝統により積み重ねて洗練されてきた社会常識のほうが有益だからだ。

この世界には基本的人権よりも重要なものがある。それはキリスト教の信仰と伝統である。古いことは良いことだ。

だから皆様、伝統と常識を大切にしましょう。


こうして、保守主義が支配するウィーン体制が生まれました。

しかし、もちろん、私たちが知っているように法治国家、ロマン主義と自由主義は死にませんでした。


さて、私たちは社会契約、権利、人権、自由など、法治国家を成り立たせる基本的な単語は知っています。そして、基本的人権、たとえば思想良心の自由や表現の自由などは、法治国家であれば無条件に保証されるものだと素朴に信じ込んでいます。

自由は常に正しい。なぜならば、憲法で保障されているから。

思考停止こそが自由主義イデオロギーであり、立憲主義なのだと。自由は憲法に書かれているから正しいのだ……。

ところが、自由主義について勉強すればすぐに分かりますが、フランス革命とその後継者はそこまで愚かではありません。

そして、そもそも彼等は逆向きに思考しており、基本的人権からあらゆる正義を考えるのではなくて、むしろ逆に、基本的人権を別の普遍的な真理から証明したのです。

今日は、どこから自由が出てきたのか考えてみましょう。


さて、ロマン主義といえば恋愛、恋愛といえばロマン主義です。ロマン主義という単語を聞いた人は、すぐに理性ゼロの感情の赴くままに生きている堕落した人間を思い浮かべるでしょう。

ここで私たちは理性ゼロの感情の赴くままに生きている、という発想の前提について考えてみるべきです。

この発想は、明らかに理性と感情を敵対させており、少なくとも理性とは感情を抑えつけるものであると考えています。

これはキリスト教においては当然のことです。なぜならば、感情とはサタンに属していて楽しいことは無条件で、ただ楽しいという理由だけによって絶対的な悪だからです。

七つの大罪を思い浮かべてみましょう。恋愛と美食は絶対悪です。幸福を感じるということは、それ自体が悪なのです。

だから、理性は常に感情を否定することに使用しなくてはなりません。

そして、私たちは伝統に従い、楽しいことは悪いこと、幸福になりたいのは弱い証拠なので厳しく指導して、彼等が死後天国に行けるように生きている間は徹底的に痛めつけて不幸にしなければなりません。それが正しいキリスト教徒の姿です。


ここで私たちは伝統的なキリスト教から離れる必要があります。そしてルソーが考えたように、神を、純粋に世界の創造主であり善そのものだと考えてそれ以外を考えないようにするのです。

神の手を離れるときにすべては善いものであるが、邪悪な人間の社会に歪められることにより人間は悪人になる。

ロマン主義の基本的な考え方はここにあります。つまり、他人の不幸にのみに喜びを感じて、終末という人類が滅亡することにだけ希望を見いだすようなキリスト教の教えは神の教えではないと考えるのです。

それだけではありません。

他人を不幸にすることのみを人生の目的にしているような人たちは倫理的な存在ではないだけではなくて、そもそもキリスト教徒でもなく、ただ勘違いしているだけの悪人だと断定するのです。

ここで、一度、他人の幸福を願うことは良いことだと考えると、私たちは全く異なる社会のあり方を考えることができます。


もし社会というのが私たちが互いに支え合い、互いに幸福になることを目指す場所であると仮定するならば、その社会のメンバーの幸福を最大にするような社会が好ましい社会です。

つまり、幸福という感情を最大化するような、最大多数の最大幸福こそが社会の目指すべき姿です。

つまり、法律や哲学的真理ではなくて、実際に存在している感情からすべてを考えるのです。

この文脈において、私たちは、どのようなルールを制定すればメンバーの幸福を最大にできるのかを計算することができます。

どのようなルールにすれば、私たちは、メンバーの幸福という感情を最大にすることができるのでしょう。

こうして考えられたのが、たとえば、

思想良心の自由、

表現の自由、

幸福追求の自由、

信仰の自由、

などの基本的人権です。所有権もここに含まれます。

特に表現の自由は重要です。キリスト教的倫理主義によって、表現の自由を否定する自称自由主義者を私たちは疑うべきです。


このJSミルの戦略において絶対に忘れてはならないことは、自由とは無条件に正しいのではなくて、幸福という感情が無条件に正しいときにのみ正しいとされることです。

ロマン主義において、基本的人権は目的ではなくて手段です。

そして、ロマン主義においては革命も手段です。基本的人権とは他人を不幸にすることのみを目的に生きている、保守という隠れた反社会勢力を教育するための手段なのです。



ロマン主義において、理性や哲学は、自分と自分に関わる人たちに幸福という感情を与えるための道具です。

理性の否定、それこそがロマン主義の特徴だと思われていますがそれは正確ではありません。そうではなくて、理性を感情のために使用するというのがロマン主義の戦略です。

感情を中心に考えたときに、自由は証明されます。これこそが、功利主義による憲法の正当化です。

憲法は法律だから正しいのではなくて、幸福を肯定する人間の基本的な感情から証明されるべきことがらなのです。


思想良心の自由というと、私たちは何か重大なことを思い浮かべるかもしれませんが趣味を選ぶ自由はここに含まれます。

自分が好きなことをして、他人が好きなことを応援する。

そして、みんなで人生を楽しく過ごす。このときに、みんなで楽しく過ごせすための手段として伝統にこだわるのではなくて、その場で適切なルールを考えていく。これが自由主義です。

逆に言えば、趣味、人生の楽しみなどを肯定しているからこそ、思想良心の自由は正しいのです。


保守は何が問題だったのでしょう。それは、伝統や古いルールのために人間が生きていると考えたことです。

人生の目的は伝統を守ることではなくて楽しむことである。神に与えられた人生を大切にすることである。

こうして、クリミア戦争が終わりウィーン体制が崩壊すると、再びロマン主義と自由主義が復活しました。

自由主義イデオロギーとは、正確には哲学者の高尚な思想ではなく、ただの感情の肯定です。宗教的禁欲を振りかざして、他人の楽しみを邪魔するなというだけの話です。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。よろしければスキ、フォローをお願いします。

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