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ゲーム制作のための文学(19) 文学は読書を否定することで発展してきたという不思議な歴史。

現在、5月29日の文学フリマ東京に向けて、同人誌『ゲーム制作のための文学』を制作しています。

『ゲーム制作のための文学』は二つの部分に分かれていて、前半が小説が誕生するまでの文学史で、後半の四章はゲーム制作と文学をテーマにした文学論エッセイです。

この文学論エッセイは四本書いていて、今日は二本目を紹介します。

この二本目のエッセイは、以下の本からアイデアを得ました。

題名はふざけていますが、精神分析で読書を考えるという、題名からは想像できないほど信頼できる文学の本です。

私が読んだ限りでは、本に書いてあることを何も考えずに何でも信じるような馬鹿を量産することが文学の目的ではなく、また誤読や読んでない本について持論を述べることは、自分が本当はどのような常識や偏見を深層心理に抱いているのかを明らかにするので、自己分析の目的で積極的に行うべきだという立場のようでした。

フロイトのしくじり行為、

を大胆に応用した文学論は秀逸で、教科書の知識よりも自分に関する知識を増やしたい人は、バイヤール先生の本を読むとよいでしょう。

また、バイヤール先生の本を読むと、相手が読んでいない本の話をした瞬間に相手の深層心理のすべてが見えるようになるので、他者の間違った知識の話を聞くのが楽しくなると思います。

ずいぶん前にバイヤール先生の本を読んだきりなので、私も自分の偏見と常識と深層心理をさらけだしてしまっているでしょう。


とはいえ、今日は精神分析ではなくて、読書が文学を阻害する可能性があるという話です。

『ゲーム制作のための文学』『

第十八章 ゲーム制作と文学Ⅱ

 偏見かもしれません。しかし、好きな文学は何ですかという話になると、すぐに太宰治と三島由紀夫、そして翻訳があるかどうかも怪しいような聞いたことのない最近の海外小説の話をする人は少なくありません。太宰好き、三島好き、ル・クレジオの『隔離の島』が大好きだという感じで。
 そして、すぐに太宰治や三島由紀夫のような小説を書きたい、『人間失格』のような体験のゲーム制作をしたい、ゲーム制作も文学は必要だ、というありふれた話になりがちです。問題はありません。好きな小説があることは良いことです。ル・クレジオは万人から愛されるべき素晴らしい作家で、翻訳があるかどうかも怪しいという私の先ほどの発言はフランス文学への侮辱と言えるでしょう。新型コロナウイルスが流行したときに、カミュではなくてル・クレジオを思い出すべきです。
 好きな純文学小説があること、興味がある文学を読むことは素晴らしいことです。純文学の小説を読む時間は誰にも邪魔されるべきではありません。これに関しては一点の曇りもなく真実であると断言します。
 ただ、それは好きなことをする時間が大切だというだけの話で、文学的な学習において最適であるというわけではありません。
 そもそも、なぜ文学なのに小説?
 今日はこれからゲーム制作などで必要となるだろう、趣味ではなくて仕事のために役立つ文学について話をします。

 まず、前提条件として、多くの人は偏った文学観を持っていると感じます。
 文学とは小説や詩を読むことであり、原作に触れて、作者が伝えたいことを読み取らなくてはならない。
 入門書や解説ではなくて、実際の小説を実際に読んで、自分だけの感性による感想を得ることが重要である。あるいは、小説を正確に読んで、その小説に何が書いてあるのかを正確に読み取らなくてはならない。自分で本を読んで考える。聖書を称えた『天路歴程』を書いたバニヤンのように。
 このようなテキストへの態度は、リチャーズなどの新批評主義、あるいはニュー・クリティシズムと文学では呼ばれます。より正確には、新批評主義とは作者が伝えたいことを読み取るのではなくて書いてあることだけを読み取る文学です。純粋に、書いてあることだけが重要であるという思想です。
 大学受験などでありがちですが、作者が言いたいことと書いてあることが見事に食い違っているときに、書いてあることを素直に読むとAの選択枠が正解だけど、作者はこういうことを言いたいのだろうなあと判断してBに印を付けると失点する、というのは多くの受験問題が新批評主義により制作されているからです。問題と回答には必ず思想があります。
 新批評的な考えは芸術などにも適応されていきます。
 芸術鑑賞とは、作品と鑑賞者の一対一の関係という感じです。
 先入観や予備知識は邪魔なだけ。自分の力で小説を読む、作品と自分の一対一の関係を構築することが文学である。
 自分で小説を実際に読むこと。それは確かに大切なことです。それを否定することはルター以前の時代に逆戻りすることになります。
 とはいえ、そこには罠もあります。
 小説を原文で読まなくてはならないという意見は極端ですが、だからといって翻訳をすべて読まなくてはならないという意見も実際には同じくらいの極端さがあります。この考え方の問題は読んだことのない小説については語ってはならないという愚かな風習を生みだしてしまうことです。『ドン・キホーテ』を読んだことのない人には、読書や演じることの危険を論じることを禁じるのは極論です。
 そして、セルバンテスやラブレーは、創作についての考え方を論じるときにはとても手軽で便利な道具になります。セルバンテスやラブレーを無学な人が手軽で便利に使用することが問題だと論じる人もいますが、それはハイゼンベルグの論文をドイツ語で読んだことがない人が鉄やアルミニウムという単語を使用することは問題であるという発言と同じくらい問題のある愚かな意見です。

 もちろん、問題はそれだけではありません。
 多くの日本人は新批評主義のみを勉強して学校を卒業して、そのまま独学で好きな小説や詩を探して、読んで、それで文学をしているような気持ちになります。しかし、新批評主義は文学の基本でしかなく、実は好ましい文学理論とも思われていません。作者や社会を無視した読解などただの自己満足だからです。
 文学を勉強すれば分かりますが、小説や詩、エッセイなどが文学の主流をなしているとも断言しがたいところがあります。有名な文学者を思い浮かべてみましょう。デリダ、ラカン、フーコーなどを思い浮かぶ人もいるはずです。そして、彼らは小説家でも詩人でもありません。彼らは批評家です。
 年配の方なら、文学とはマルクス主義であると断言でしょう。現代は、マルクス主義者の代わりにフェミニストが活躍中です。

 文学理論という分野があります。
 テリー・イーグルトンによると、文学理論の本来の目的は文学とそれ以外の作品群の違いを明らかにすることです。あるいは、文学とは何かを明らかにすることです。文学を研究する過程で、新批評主義からマルクス主義、実存主義、ポスト構造主義からポストモダニズム、ポストコロニアリズム、物語論、精神分析からフェミニズムを経由してLGBTQなど多様な理論が生まれています。
 この文学理論や分野の一覧を見るだけで、特定の文学作品を読み、それを利用して新しいコンテンツを制作するという発想そのものが、いかに文学という分野を利用していないかを示していると思います。
 太宰治の『人間失格』で得られる体験をゲームで再現する、この発想そのものが文学を役立てていません。

 この『ゲーム制作のための文学』では、日本書紀から竹取物語、源氏物語、平家物語などの一連の流れを紹介しました。また、演劇や印刷を対比させたり、ダンテからバニヤンを取り上げて小説が誕生した背景についても書きました。
 個々の作品を詳しく追わなかったのは、個々の作品ではなく文学そのものを解説したかったからです。技術者にはアインシュタインの論文などどうでもいいように、クリエイターにとって古い作品の知識は邪魔です。大切なのは相対性理論であり、そしてクリエイターにとって大切なのはダンテでもバニヤンでもなく、文学そのものです。私たちは天才の直筆ではなくて文学を学ぶべきです。
 そのため、率直に言わせていただくと、私はダンテの『神曲』や、ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』を読むことを奨励しません。趣味で読むのは大切ですが、それは勉強ではありません。
 ダンテやラブレーを読むことは、技術者が橋の設計をするのにニュートンが書いた『プリンキピア』を読むのと同じくらい不毛です。ましてや、多くの大学教授や大学院生が話しているように、ル・クレジオを読むためにはもちろんフランス語を勉強しないとね、というのは彼ら以外には趣味の領域です。
 学ぶべきは有名作家の作品ではなく、文学そのものです。

 誰かがしなくてはならないことを、全員がしなくてはならないわけではありません。ル・クレジオの小説をフランス語で読める文学者は絶対に必要であり、そういう人たちにしか理解できないことは多いです。
 ダンテの『神曲』やボッカチオの『デカメロン』を読んでいる仲間がチームに一人いると助かることも多いでしょう。しかし、まず押さえておくべきなのは、なぜ十八世紀に物語が廃れて小説が爆発的に広がったかです。
 デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は資本主義に直面した人が、経済人として自分の人生を構築していく話です。
 資本主義では、自分で自分の人生を考えなくてはならない。だからこそ、デフォーの小説は主人公が生まれたときから始まるのです。
 自分に与えられた才能や環境、知識や習慣を利用して成功していく。それを集中的に描いたために小説は成功しました。
 私たちが資本主義で生きているということを意識すること。
 それが優れたコンテンツの条件であり、そして経済人を描いたために異世界転生や悪役令嬢は成功していると思います。
 今の日本で生きていくためには、どういう人間である必要があるのか?
 それを考えるのが文学です。そして、資本主義で生きていくことに何かしらのアイデアがある作品は喜ばれると信じています。
 何かをすることは何かをしないことを決断することです。
 ダンテやラブレーの小説を読むことは、フランス語を勉強することですら、同時に文学を学ぶ時間を減らすことになります。
 逆説的ですが、有名小説愛好者は文学を学ぶ余裕がなくなるのです。

』『ゲーム制作のための文学』

多読が文学に必ずしもプラスにならないというのは、セルバンテスを論じるところでも書きました。これは、私のオリジナルではなくて、それなりに広く流通している考えです。

実際、物理学でも教育システムの最適化で、今では大学一年生から相対論と量子論を勉強できます(相対論を理解できるのは世界で三人しかいないという逸話はファンタジーになりました)。

私の考えでは、もっとバイヤール先生やイーグルトン、ジジェクなどの批評家が文学として注目されるべきだと思います。

理論は重要です。理論が文化人や職人を技術者にするのです。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。よろしければスキ、フォローをお願いします。

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