見出し画像

ロマン主義を考える(9) 大森林は自然であって自然ではない。 【『ゲーム制作のための文学』】

哲学書を読むのが大好きな人、あるいは物理学や化学など、製造業やエネルギー関係などの仕事に携わっている人は、自然(Nature)という単語を聞いたときに直ちに憲法や数式を思い浮かべるかもしれません。

人間には自然に備わっている本質があり、自然であるというのは資本主義や封建社会に歪められていない人間のあるべき姿です。

また、文系理系の進路選択で、理系に進んだ人にとっては、自然とはまさに科学が研究する対象です。

物理学者にとって自然と言えば、まさに相対論や量子論、アインシュタイン方程式やシュレーディンガー方程式という数式で表現される対象、そして化学者にとっては水素やヘリウムなどの周期表にまとまれている物質を構成している元素こそが自然ではないでしょうか?

ところが、昔、自然という単語を専門領域で触れない人たちは、自然という単語で山脈や森林などを想像する人が多いようです。

登山に行って、大自然を感じたというように。

ときには、田園風景という露骨に人工的な対象を見て、ああ、自然豊かで素晴らしいと発言する人もいるとか?


自然は自ずから然り、すなわち他者からの影響からではなくて自分自身の影響のみを受けている状況です。

物理学の対象は、まさに自然の定義にあっています。社会の影響とは独立した人間の本質を考えることは憲法において重要です。

しかし、田園風景は?

田園風景を自然と表現するのは、直感的には普通ではありません。


さて、人間は多くの過ちを犯す存在ですが、定義からかけ離れた独創的な言語使用を自然に受け入れるほど創造的でもありません。

今日は、ロマン主義という視点から、自然について考えてみましょう?


文学史、あるいは宗教史において、一般的に、カトリック教会とプロテスタントは次のように考えられています。

カトリック教会を特徴付けるのは教皇と教会です。

そのため、カトリック信者達は教会での儀式を重視します。カトリックにおいて神を信じるというのは教会に所属することです。そして、教会から離れた場所に信仰はありません。

いっぽう、プロテスタントを特徴付けるのは聖書です。プロテスタントは聖書を自分で読むことで信仰を高めます。司祭はおらず、牧師が信仰の道に進むことを助けます。

大切なのは神の言葉の解釈者ではなく、神の言葉を信じること。

ドイツ語訳聖書や欽定訳聖書により、ドイツ人やイングランド人は自分達の言葉で聖書を読めるようになりました。

そして、聖書を読むことによって、聖書を独占していたイタリアから独立したのがプロテスタントです。


さて、ここで私たちは神に至る二つの道があることに気がつきます。

すなわち、教会を通して神の道を歩むのか、あるいは聖書を通して神の道に歩むのかです。

一般的に、聖書は人間が書いた書物ではなくて、聖霊により神自らの言葉が書かれた書物とされています。そのため、直感的には、聖書を書いたのは神であると言えそうです。

しかし、神の言葉は素人が簡単に理解できるものではありません。

そのため、聖書には解釈者が必要であり、それが司祭です。この保守的な論法が直感よりも筋が通っており、実際のところ、カトリック教会に属していれば聖書を読んでいなくても聖書の内容を理解し、信仰の道に進んでいるというのは欺瞞ではありません。

アインシュタインの論文を読んでいなくても、物理学者は一般相対性理論を理解していますし、理解していると解釈するべきです。

しかし、プロテスタントの戦略も妥当で、私たちは神に創造され神のみに創造されたのだから、私たちが自分自身の良心に従い聖書を読むことで、イエス・キリストと共に生きることができていると判断することも、十分に合理的な主張であると言えます。


カトリック教会も、プロテスタントも正当性があります。

しかし、ここでルソー(十八世紀)の登場です。彼は山の頂上に登り、目の前に広がる壮大な景色を見て思ったようです。

これこそが神の御技。これこそが、大自然だと。

聖書を読んだことがある人は、世界を創造したのが神であるという文章がはっきりと書かれていることを知っているでしょう。そして、一般的に、神学では世界は神と悪魔の共同作業で生まれたのではなく、ただ神のみによって生まれたとされています。

神の手を離れるときにすべては善いものであるが、人の手が触れるとすべてが例外なく悪くなる。

山の頂上から見える景色は、人間の手で汚されていないという点においてまさに自然そのものです。


宗教改革以降、神は教会と聖書、どちらを通して私たちに現れるのかが問題になっていました。

しかし、いや普通に自然だろうという解釈をしたのがルソーです。

ルソーにとって、教会も聖書も神を代表するには矮小すぎます。彼は山上からの壮大な景色を見たときに、ここから信仰を始めるべきだ、まさに世界の創造主としての神を信じるべきだと考えたようです。

司祭の言葉ではなく、聖書の言葉ではなく、まさに人生、まさに世界に広がる壮大な「自然」こそが自然なのだと考えました。

教会、聖書、自然。大切なのは、自然だと。

ロマン派詩人達は、ルソーに続きました。

この文脈において、田園風景は自然と解釈してもいいでしょう。なぜなら田園風景は言葉ではなくて景色なのですから。

そして、七つの大罪を完璧に習得した邪な資本家に汚される前の、まだ自然に近かった時代の技術なのですから。


文学においてロマン主義が決定的に重要なのは、ロマン主義は私たちに神を知らしめるのは話し言葉でも書き言葉でもなく、そもそも言語ではないという運動を始めた人たちだからです。

それは、後に教会と聖書を否定したキリスト教に至ります。

おそるべき異端の誕生です。

ロマン主義は山海森などの大自然や田園風景を自然と呼ぶことで、私たちをおそるべき世界に誘ったのです。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。よろしければスキ、フォローをお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?