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ゲーム制作のための文学(20) 差別を文学理論によって考える。

文学といえば、LGBTQ。LGBTQといえば、差別。今や文学とは差別を研究している学問と断言しても過言ではありません。

LGBTQに否定的なすべての人間は文学の敵であり、そして文学はLGBTQの敵を根絶やしにしなくてはならないのです。


さて、現代の心ある日本人の多くは、差別という単語を聞いた習慣に絶対悪だと反射的に思うことでしょう。差別だめ絶対。と、地球が丸いことと同じような事実として差別を捉えている人も少なくないと思います。

私自身は、差別反対の良心的な人たちの仲間であり、差別根絶運動を日々頑張っている男女を全面的に支持するので、そういう意味では自分では何も考えずに反射的に差別発言者のサイトを炎上させるような、しかも息をするように差別主義者を攻撃する人たちに肯定的です。

ときどき、差別発言を炎上させる匿名の人たちを、快楽犯罪者の仲間として扱う人がいます。

また、差別の意味も分かっていないのに、ただ他人を批判したいだけの理由で差別発言を炎上させているだけだと、そのように炎上者を見下すような発言をする人も多いようです。

しかし、もし本当に差別の根絶が正しいことであるならば、差別発言への反射的攻撃は肯定的であるべきです。むしろ、感情的であるほど正義感が強いと評価してもよいでしょう。

むしろ、学者以外は正しいことをしてはならないという発想をする自称教養人を私たちは警戒しなくてはなりません。そういう人たちは、例外なく一般大衆を見下しているのです。


現在、5月29日の文学フリマ東京に向けて、『ゲーム制作のための文学』を制作しています。

おそらく、文学がゲーム制作において貢献するのは三点で、一点目は資本主義論や科学技術論を提供することでコンテンツを広いマーケット向けに改良するための手がかりになること、二点目は過去作品の技術を利用することで単純にコンテンツの質を上げること、そして三点目は「差別コンテンツ」を回避するという点です。

三点目が重要であり、差別があるからこそ、芥川賞作家の又吉先生は、エンターテイメントで最も大切なことは何かを『火花』で論じたときに、それは文学であると描いたのです。

社会的弱者を攻撃して人気を取る軽薄な人は、その人にどれだけ人を魅了する技術があっても「面白くない」のです。


『ゲーム制作のための文学』『

第十九章 ゲーム制作と文学Ⅲ(差別)

 文化産業といえば差別。スポーツでもゲームでも、そして映画や漫画やアニメでも差別発言が記事にならないことはありません。もちろん、政治家や事業家などの有名人こそが言葉狩りの獲物であり、心の清らかな正義の使者たちは絶対悪である彼らが不用意な発言をしないかと一日千秋の思いで待っています。
 今や、女性蔑視や人種差別に関係する知識は、表現者や指導者になるための不可欠なスキルであることは間違いないと思われます。
 有名人による「皆様に不愉快な思いをさせてしまいました」、とは日本人なら誰もが年に三桁以上は耳にする台詞でしょう。
 そして、差別に無知であるがために仕事を失う人も少なくありません。

 さて、ゲーム制作者にとって差別とは最重要問題であり、このスキルがない人は遅かれ早かれ仕事を失うことは確実です。仲間を集めて、時間をかけて大金を投じたプロジェクトが一瞬で灰になる瞬間に立ち会いたいと思うクリエイターはいないでしょう。
 しかし、恐れる必要はありません。今こそ文学の出番です。

 まず、前提について話をしましょう。
 日頃から「差別」と一言で言われることが多いですが、何を差別とするのかについては理論により多様な意見があります。ポストモダニズムにおける差別とフェミニズムにおける差別は完全に同じではありません。
 そのため、細かい判断において、どのような理論を採用するかで何が差別であるのか異なる場合があります。また、様々な理論があるとはいえ、それらの理論がすべて対等というわけではありません。
 ある特定の理論は問題点が指摘されたことで衰退しており、そのため後発の理論に主導権を奪われています。たとえば、一時期、マルクス主義はポストモダニズムやフェミニズムからの攻撃を受けました。
 また、同じフェミニズムの理論でも、四十年前の家庭は例外なく悪であるという意見は現在ではそれほど肯定的に思われているわけではなく、今ではむしろ女性の社会からの排除は家庭を破壊するところに問題があると思われています。
 古い理論は、いわゆる「間違った思想」と言われます。

 とはいえ、相対性理論と同様に、「間違った思想」は問題点と限界点が明確になっているために応用するのがきわめて容易です(応用の歴史も長いので)。よって、今回はマルクス主義を例にして差別を考えていきます。
 さて、マルクス主義のおける差別とは単純です。
 労働には大きく二つの種類があると仮定します。教養による労働(精神労働)と技術による労働(肉体労働)です。そして、差別とは、「教養」を学んで仕事をしている社会人が、「技術」を学んで仕事をしている社会人よりも恵まれた環境を得ることです。言葉で働く人と技術で働く人の格差が差別です。
 このように、伝統的なマルクス主義では差別には一種類しかありません。
 それは教育差別です。非正規労働者差別も女性差別も人種差別も民族差部も、両親の職業に対する差別でさえも、すべては教育差別に還元されます。逆に個々の差別は教育差別を誤魔化すための罠だと考えます。
 たとえば、典型的な人種差別は、黒人であったりヒスパニックであったりすることで大企業に就職できないことです。
 そして、大企業は普通は教養を武器にする精神労働を独占しており、そのため差別を受けた黒人やヒスパニックは自分の身体を武器にして肉体労働をするしかありません。
 そして、原則として管理職は賃金が高いので、管理職になれない黒人やヒスパニックは貧困に陥ります。肉体労働者は精神労働から排除されることで貧困化します。これが資本主義における差別の本質だと考えます。

 女性というジェンダーへの差別も、その本質は科学技術差別です。女性は子どもを育てる役割があるのだから育児の知識が必要であり、それ以外の知識は必要ないという意見は、育児という技術に資本主義が報酬を払わないことで差別となります。
 そのため、資本主義では、女性は母親になる知識を身につけることは同時に自分を不幸にするために努力をすることと同様になります。
 資本主義を肯定することは女性というジェンダーの否定です。
 エンゲルスの『家族、私有財産、国家の起源』を読むと、教育差別の本質はジェンダー差別だと解釈できます。
 科学と宗教の違いは何か、という文脈における科学とは女性というジェンダーに貢献するかどうかです。衣食住に医療に教育、娯楽に関係する労働ほど家庭生活に貢献しますが、それに貢献すればするほど貧困になるように仕組むことが差別となります。
 すべての労働は次の世代に吸収されます。そのため、資本主義では、あらゆる労働は育児であるといえます。そして、人類の未来に貢献している人ほど貧しくなるように社会を操作することが差別の本質です。
 母と子、女性の生活を豊かにするために勉強した人、努力している人を卑しめて陥れて貧困になるように仕向けることはすべて差別です。この文脈において、資本主義を擁護しながら女性の社会進出に否定的な発言はすべて例外なく差別と言えます。
 なぜなら、フェミニストがいう女性の社会進出とは、女性を過酷な低賃金ブラック企業に入れることではなく、女性を大企業に入れることにより女性を重労働から解放して、女性が教養を磨く機会を得て、豊かな家庭を作る機会を増やすことだからです。
 簡単に表現するならば、人類を滅亡させるために最適化された発言が差別発言です。この文脈において差別は悪なのです。
 差別主義者とは、特定の性別や人種を劣っていると判断したり、貧しい人を軽蔑して迫害する人ではありません。特定の性別や人種と劣っていると発言することで、国の技術力を破壊する意図がある人たちが差別主義者です。彼らは例外なく人工知能や先端技術に本当は否定的で豊かな女性を憎みます。女性が育児ができたら駄目なのです。大企業への女性の社会進出が活発化すると女性の労働環境が良くなり、彼女たちに余裕ができて、子どもが生まれて社会が発展するのが怖いのです。
 技術を身につける人、真面目に勉強を努力して働く人たちを、この人達がいると社会が豊かになり宗教が衰退してしまうと恐れを抱いて、物質的豊かさを徹底的に破壊しようとする人々のことです。
 聖書の記述を歪曲して、常識を操作して人類の滅亡を企む勢力が差別主義者です。

 マルクス主義は差別を単純化しすぎていることで問題視されていますが、単純化されているためにつまらないミスを防ぐことに役立ちます。
 たとえば、貧しい男性配達員を気持ちが悪いから女性の敵とか発言するなども同様に差別発言と解釈できます。配達員がいなくなれば社会は崩壊して女性の生活水準は落ちます。男性配達員にたいする不当な発言は女性に不利な発言です。
 また、クッキーを焼くのが好きな向上心の欠けた女性が女性の社会進出を拒んでいるも差別発言です。セックスは差別していませんが、ジェンダーを差別しています。子どもを育てる権利も女性の権利です。女性はあらゆる生き方が許されているのであり、特定の生き方が女性の正しい生き方であるという発言は危険です。ましてや、それが多くの女性にとっての楽な生き方を否定する場合は。
 女性では存在があらゆる理念に優越するのです。
 そして、楽な生き方は常に善です。女性が楽に生きる社会を目指さないと言うことは、科学文明への敵対行為です。
 女性を進化させるのではなくて、科学技術を進化させるのがマルクス主義です。

 マルクス主義の差別理論が使いやすいのは、判断が難しい他者を不愉快な気持ちにさせる発言を差別発言だと解釈するのではなくて、女性たちの生活を奪う発言を差別発言として解釈しているところです。そのため、何が差別であるのかを直感的に判断できます。ほぼ、発言内容だけで計算できるからです。
 他にも、文学には素晴らしい理論がたくさんあります。前回は芥川賞作家を読む必要はないと書きましたが、より安心のために最先端についていきたいなら芥川賞作家を読むのは素晴らしいことです。ノーベル文学賞作家は最高です。
 文学は常に進化します。常識も変化します。
 そして、何が差別であるのかも次々に新しい理論が生まれます。それらは私たちに新しい世界を見せてくれます。
 文学を勉強して狩られる側ではなく狩る側になりましょう!

』『ゲーム制作のための文学』


私が得意なので、今回はマルクス主義を使いましたが、実のところジェンダー問題においてマルクス主義は脆弱です。

たとえば、最近有名になった「月曜日のたわわ」を例にすると、

マルクス主義しか勉強していない人は、おそらく何が問題であるのかほとんど理解できないでしょう。イラストが綺麗なので、もしかしてイラストレーターが搾取されているの?

むしろ、イギリスの「女性は存在自体が猥褻だから大学に行くな」という文句なしの差別(文学部は女性を隔離するために生まれたそうです)がそれほど昔のことではないので、しかも一九八〇年代くらいまでは抑圧されてきた女性の性はこれからは強調して描くべしという文学部の伝統もあったので、逆にこの漫画をわいせつ物だと攻撃してくる人々を見ると、十九世紀で思考が止まっているキリスト教的差別主義者に思えるかもしれません。君たちは女性の社会進出を否定しているのか?

しかし、理論の発展により「わいせつな漫画」は差別コンテンツの仲間入りをしています。というか、おそらく差別です。

20年前の正義が今でも正義であるわけではありません。文学は常に進化し続けているのです。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。よろしければスキ、フォローをお願いします。

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