見出し画像

ゲーム制作のための文学(21) 世代間ギャップを軽くする。

世代間により私たちは多様な世界観と価値観を持ちます。たとえば、ソビエト連邦の記憶がある世代は、リベラルは社会主義の手先、貧困層が子どもを産まないことによって社会は純化されて発展していくのだ、という古き資本主義の考えを疑いもなく信じているでしょう。少子化、素晴らしい! 次の選挙も自民党に投票します!

逆に、二十代以下の若者は、インターネットサービスを利用せずスマートフォンを持たない人は「リアル志向」なのではなくて、むしろ社会との交流を一切拒否した陰湿な引きこもりだと感じているはずです。何しているか分からない人怖い。

世代による世界観や価値観の違いは、大きく二つ、社会における立ち位置と時代背景によります。

特に問題になるのが、育った時代の背景です。

文学は、これを軽くすることはできるのでしょうか?


現在、5月29日の文学フリマ東京に向けて、『ゲーム制作のための文学』を制作しています。

今日は、『ゲーム制作のための文学』の最後のエッセイです。


今日は、文学はコミュニケーションに貢献するのかを掲載します。よろしくお願いします。


『ゲーム制作のための文学』『

第二十章 ゲーム制作と文学Ⅳ(コミュニケーション)

 私たちは一人でサービスを完成させることはできません。デジタルRPGを完成させるためにはプロデューサーとディレクター、ゲームデザイナー、ライターとイラストレーター、プログラマーやシナリオライターをはじめとして、ハードウェアを開発する企業、販売するためのネット及び物理的な場所、インターネット環境を整理するためのデザイナーやプログラマーや広報を担当する人たちが必要でしょう。
 もちろん、以上は雑に分類した担当で、どのような規模でどのようなRPGを制作するのかにより必要な人材は変わってきます。
 また、複数の役割を一人の人物が担うことも多いでしょう。
 すると、必要なのは情報共有と情報伝達。誰が何をどのように担当するのかをメンバーは把握していなくてはなりません。少なくとも、自分が何を担当するのかを理解しておくのは必要なことです。
 もちろん、それだけではありません。
 プロジェクトが失敗するときには何も問題は起きませんが(残念です)、プロジェクトが成功すれば成功するほど人を増やしていく必要があります。
 そのときには、サービスの理念と、これまで積み重ねてきた方法論などを新しいメンバーと共有しなくてはなりません。
 最後に、ゲーム制作に文学は貢献するのかという点を、コミュニケーションという視点から考えて行きたいと思います。

 まずは前提として。大企業などで企画を行うためには必要かもしれませんが、実際のところは会議の時に部外者でも分かるような日常的な言葉を使う、消費者が使う言葉で考えるというのは時と場合によります。
 なるほど、GAFAのような企業と個人を結びつけるような情報系大企業においては部外者にも分かる言葉を使うことは必要かもしれませんが、メーカーやクリエイターには害になる発想である可能性があります。
 新しい製品やゲームを考えるときに、業界の人間しか知らない商品やコンテンツを例に議論をするのは合理的です。
 熟達者にTRPG制作の相談をすると、たいていは誰も知らないようなコンテンツを例にして説明してくれますが、そして、そのことによりほとんど何も分からないまま話が進んでしまいますが個人的には有益だと考えています。
 知らないコンテンツに関しては後で調べれば良く、またわざわざ誰もが分かる言葉だけで説明されると逆に誤解を生みかねません。
 たとえば、「アニメに登場する悪い敵」を話題にするときに、「ブラック企業の上司に典型的に見られるような自分は常に正しいと信じて、部下に対してパワハラを繰り返すことを恐れない傲慢な人物」と説明すると、汎用的で誰にでも理解できると思いますが、二〇二二年においては、おそらくは「『鬼滅の刃』の鬼舞辻無惨」という具体名を出した方が会話が的確に進むでしょう。
 状況に即した具体的な名前を使うことは、それを一部のメンバーが知らない単語であったとしても有益な場合があります。
 少なくとも、部外者に通用することを意識して、鬼舞辻無惨の使用を禁止することは時間の無駄であるように思えます。
 狭い世界のオタクの言葉のせいで、狭い世界でしか通用しないコンテンツばかりが生産されるというのは、おそらく正しくはありません。専門性が大切であるのは、逆に、それなりに成果を出している人たちが狭い言葉しか使わない問題に常に苦しめられているという事実から証明されています。

 しかしながら、二点において、ゲーム制作において文学の言葉なり考え方を取り入れたほうが適切と思われるところがあります。
 一点目は若手との会話。
 おそらく十年もすれば、『鬼滅の刃』という単語も、鬼舞辻無惨もアニメ愛好者たちの間でも話題になることは少なくなると思いますし、知らない若者は増えてくると思います。
 そのようなときに、文学は共通の知識を探る手助けになります。
 文学は学校で強制的に学ばされるために、源氏物語や平家物語を互いに知識としては知っているはずだからです。
 二点目は、専門的な世界の話をしているときに見逃しがちな視点を文学が補うことができることです。
 たとえば、現代人はポストモダニズムについての教育を受けて常識になっているために、あらゆる視点は相対的で、あらゆる意見は個人の価値観と解釈であり客観的な現実など存在しないと議論しがちです。
 そして、最近はポストモダニズムという文脈において現実という単語を考えるため、現実というのは権力者の独善と同じ意味で使われます。現実の議論をすることは、それ自体が独善的だと思われるのです。
 しかし、セルバンテスの『ドン・キホーテ』の話をすれば、むしろ事態は逆であり、妄想と現実の区別は、「妄想」とは実際には権威主義、有名人の台詞や生き方をそのまま押しつけることであり、「現実」と自分らしさ、自分の合った考え方や生き方を身につけるという意図があったことが分かります。
 後に、現実主義、リアリズムというのは相手の状況や、現場を知らない人間が自分の妄想を押しつけることを戒める概念として古典では使われます。「君は現実が分かっていない」というのは、自分の常識や経験が、誰にでも通用すると考える人に向けた言葉なのです。逆に使う人が多いですが。
 ラブレーの考え方は、日本語として使用されるエンターテイメントと文学についての考え方を整理するのに使えますし、ダンテとボッカチオを知っておくことは、物語とキャラクターについて考えるときに役立ちます。
 そして、チームメンバーが文学についての知識があると、不毛な議論や会話を防ぐことができるかもしれません。
 それは同時にコミュニケーションを円滑にします。

 科学史を学ぶと、ニュートンの時代、物理学が工業に応用できるとは本当は考えられていなかったように思えます。
 しかし、二十世紀に物理学が工業社会を生みだしたように、文学も新しい社会を生み出すのではないかと期待しています。

』『ゲーム制作のための文学』


ときどき、コミュニケーション問題が起きること自体が問題で、誰もが分かり合える社会のような世界を理想とする人がいます。

とはいえ、実際のところ、社会は、互いにコミュニケーションができなくなるほど細分化されることによって豊かになりました。専門家が、生産能力を上げるのです。

全員が農業をしていたときには、共通の価値観が、私たちを支配することはできました。

中世に理想郷を求める懐古主義者はいます。

しかし、私たちは物質的な豊かさを喜び、同時に多様な人々がいる世界を肯定するのが賢明です。世界が細分化されればされるほど、個人の生活は多彩になり豊かになるのです。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。よろしければスキ、フォローをお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?