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「とりあえずRCやろう」引き籠りの友人にかけた親友の一言

私の中学生の頃の話をしようと思う。



当時はバンドブーム全盛で、たぶんもう少し上の高校生などの多くは何かしら楽器をやっていたような、そんな空気すら漂う感じがした。


私も幼いころから音楽にたしなむ機会が多く、それこそ今でいうアニソンから特撮ヒーローの主題歌、年齢が上がるとアイドルなどの歌を夢中になってカセットに録音して聴きつぶしていた。

となると次の欲は当然「自分も楽器を弾きたい」となる。生意気にわざわざお茶の水まで行き、エレキギターとアンプを買って偉そうにどこにでも持って行き悦に浸っていた、そんなガラの悪かった中学時代。



一方で中学時代はあまり良い思い出はない。仲の良いクラスメイトと仲の悪いクラスメイトとで二極化していたように思えた。当然仲の良いクラスメイトとばかりつるむようになり、あまり充実した学生生活とはかけ離れていたように思えた。


お酒を飲んだり、ケンカすることがカッコいいなどと言う非常に幼い精神心理をいかんなく発揮し、悪ぶることで仲の悪い同級生たちと一線を引くような、そんな意味もないエネルギーの消費をして過ごす毎日だったような気がする。


なんか昔の悪さ自慢しているような書き方になってしまったが、別に不良だったわけではない。そして、その傍ら、ロックミュージックの奥深さをたしなみ、そこから差し出されるメッセージに心を打たれ、自分なりに正しいと思う方向を探り、がむしゃらにもがいていた、そんな感じ。

今思えばかなり情緒不安定な時期だった。




そんな中学2年のある日、突如、K先生より職員室へ来なさいと呼び出しがあった。


K先生は担任ではないが、一応何かの教科か、生活指導か何かで交流があった。名物の「怖い」先生ではなく比較的穏やかな先生だったが、だからこそ「何を言われるのだろう」と内心ビクビクしながら職員室へ向かった。ちなみに思い当たる節はいくらでもある。



意外だったのは、職員室へ入った私を、K先生はさらにその職員室の奥のベランダへ誘導した。そこで先生が口にしたのは思いがけない話題だった。


「H君のことなんだけど」


H君とは、中学1年の頃の同級生だった。きっかけは忘れたけど、そういえば音楽の趣味で少し関りがあった。日本のブルーハーツとか、RC(RCサクセション。忌野清志郎のバンド)等をよく一緒に聴いていた。

2年生となってクラスが分かれた後は交流は自然となくなっていたが、彼が学校に来なくなったのは何となく風のうわさで耳にしていた。



K先生は続けた。「彼に会ってきてもらえないか」。頼まれたのはそれだけだった。具体的な指示は他には一切なかった。

何かのことで叱責されると思っていた私は拍子抜けしたが、ひとまずその役を引き受けることとした。



詳しい事情は割愛するが、中学2年になり、H君は、とある理由で引きこもり状態となり、登校することができなくなっていた。先生たちも様々な方法でアプローチするも、何も好転せず時間だけがむなしく経過していた。郊外の小さな町だったので、そのような噂はそれほど時間を置かずに浸透してしまう。


私が1年生の頃に趣味の話をしていたという印象が先生たちの頭にあったのかどうかわからないが、そのイメージにより、思い当たるH君の「友人」が私しか浮かばなかったのかもしれない。



ひとまず仲間の元へ戻った私に「今度は何で叱られたんだよ」とニヤニヤしながら迎えた友人らに、その依頼内容を話す。

私の友人というのは、先述したようにバンドブームの波に身を任せ、すでにバンドを組んで子供の遊び程度の活動をしていた仲間たちだ。とにかく柄も悪い。H君とはそれまで全くかかわりはない。


私からH君の話を聞くと、しばしの沈黙の後、友人Rが「んじゃ、俺も行くわ」と何を思ったか突如切り出す。すると他の友人らも「なら俺も」「お供するぜ」など、軽口をたたき合って同行することとなった。

私もこの依頼に関してはあまり深くは考えていなかったが、彼らにしても「ちょっと面白そうだから」と、からかい半分で顔を出すような意味合いに聞こえた。



その日の放課後、私も含め4人くらいとなったグループがH君の玄関の呼び鈴を鳴らす。この時、確か一度この家で遊んだことがあったなと記憶がよみがえる。母親も私のことは覚えていたようだが、扉を開けたときに思いがけずガラの悪い4人組が表れたことに驚きを隠せなかったようだ。H君も私が訪ねたことを知り、素直に部屋から出てこられた。


その後、リビングでどんな内容の話をしたのかは全く覚えていない。ただ、H君が数か月ぶりに家族以外の人間と会話をしていることに、母親がおそらく泣いていたと思われるが終始うつむいていたこと。H君の表情は全く生気がなく青白かったが、我々の軽口には少し口元を緩めることがあったように思える。


そんな状況で数十分ほどたったころだろうか。私がバンドをしていることを話すと身を乗り出して興味を示し始める。そしてかつて一緒に聴いていたロックの曲のことや、ライブのことなど、その話題がきっかけとなり青白い顔がやや赤くほてってきたように感じた。彼も部屋に引きこもっていた間、好きな音楽だけが心のよりどころだったのだ。


次の瞬間。友人Rはこう切り出した。


「まあ、とりあえずRCやるべ」


突然の強引な展開だった。

丁寧に言い換えると「バンドを組んでRCの曲をやろう」ということだ。いわば、そのくらいH君の一連の状況を「そんなことはどうでもよいから」と雑に端に寄せたような、そんなラフさがその言葉にはあった。

一方、H君が小躍りするように喜びを表したのは言うまでもない。




それから数日後、H君は学校に来るようになった。午後だけの日が多かったが、放課後は私たちと過ごす時間が増えていった。午前だけでなく午後だけにしたのはそういう理由だったからだろう。


放課後の教室でたむろしていることからわかる通り、私たちは相変わらずガラが悪かったが、その中で一人ニコニコしているH君は折り目正しくおとなしい優等生風だった。このギャップが周囲を驚かせていた。



時は流れ、卒業式の日、私たち仲間と一緒に、笑顔で記念写真に写るH君の姿があった。その写真は確か今でも私の自宅に残っている。H君とは結局彼の自室で一緒に課題曲を演奏したりするくらいしかしなかったと思うが、それでも彼にとってはかけがえのない時間だったであろう。



私も今でさえこのようにトピックとしてとりあげているものの、当時は「引き籠りの友人を復活させた」なんておおそれた感覚は皆無だった。おそらく友人Rにしても、他の同行した友人もそんな気はないだろう。そもそもH君に対し引きこもりの不登校と言う印象ははじめから今に至るまで不思議なくらい全くない

そういえば、この話のきっかけとなったK先生からのお褒めの言葉はその後何もなかったと今思い出す。何か言ってくれても良いだろうにね。



一人の引き籠りの少年の生き甲斐を見出したのは、教育委員会や支援機関、学校の先生ではなく、いっぱしのガラの悪い生徒4人組だったというこの事実は、生きづらさを抱える人たちへの援助に関して、いかにインフォーマルな資源が有効的かを表すものとなっている。



そして、その課題をクリアした力は、面談やチェックシートなどではなく、「とりあえずRCやんべ」の一言だったことは言うまでもない。


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このストーリーは今の私の活動の原点にもなっているとともに、そして、決して美化されることもない、淡々とした少年時代の1コマに過ぎないと認識している。



思い出はその人の人生の一部になっているのであれば、実にラフなもので構わない。それがかえって美しい。






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