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NYで僕がオープンマイクをやりたい訳

NYでこの数ヶ月温めてきたオープンマイクイベントを今月6/16に開催します!

最近リリースしたyosemicっていうプロジェクトにかける僕の気持ちを簡潔に10000字でまとめたので読んでもらえると嬉しい.

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〜ようやくリリースできたイベントなんです

僕はこの数ヶ月で、仲間とyosemicという団体を立ち上げて着々と準備を進めてきた. 今回, 僕と愉快な仲間たちがリリースしたイベントは, そのyosemicがこれから創っていくイベントの記念すべき第一回という訳だ. これは一回限りのイベントではなく, 今後NYで脈々と続いていって欲しいと思って企画している. 具体的に言えば, 隔週で(願わくば毎週)続けて行くつもりだ.

イベントのコンセプトは, ”誰もが立てる舞台”. yosemicとは, 江戸時代に庶民に親しまれた演芸形態の”寄席”と, 欧米で盛んな全員が飛び入りで参加できる”オープンマイク”を合わせた造語で, 僕はここからアーティスト・非アーティストに関わらず, 誰もが”表現”というものに向き合える空間を創っていきたい. 幸運にも「こういうイベントをやる」と言ったら, 「やってみたい!」 「面白そう」という反応を多く頂いた. そういう声をもらえたのをとても嬉しく思う. ブロードウェイやオペラなど, これだけエンタメやアートが身近にあるニューヨークにおいて, 享受するだけの側じゃなく, 自分でもやってみたいと思ってくれる人がいるのは喜ばしいことだ.

〜”表現したい”という欲求〜

個人的な話から入って申し訳ないんだけど, 僕はもともと映画を撮りたくてアメリカに来た. 自分語りは, すぐ終わるから頑張って読み進めて欲しい. 小さい時から映画が大好きで, バックトゥザ・フューチャーの台詞なんて全部暗記してたくらいの映画フリークだった. 当時小学生だった僕がスターウォーズに初めて出会った時の衝撃はとてつもなくて, 親にデジカメ買ってもらって, 弟を引っ張り出してすぐにチャンバラ映画を撮った. ばあちゃんの家の庭の畑に差してあった支柱をライトセーバーに見立てて, ストーリーもクソもないチャンバラをひたすら撮った. 部屋に帰ったらMovie Makerってソフトで編集して, 21 Fox Centuryっていうモロパクリのロゴまで作って, スターウォーズの音楽に当てた. 昔から俺よりはるかに優秀だった弟は, 当時小4のくせに英語のサイトで調べてライトセーバーの映像エフェクトと効果音を俺が撮った映像に当てて, 僕らなりのスターウォーズを完成させた. 出演僕と弟, 脚本・演出僕, 編集僕, 映像効果弟. 本来スターウォーズは, めちゃシンプルに言えばジェダイの騎士っていう良いやつとシスっていう悪いやつの戦いで, ジェダイは青と緑のライトセーバー, シスは赤いライトセーバーって相場が決まってるんだけど, 僕も弟も「良い奴がいい!」って主張がぶつかって, 「仲間割れになっちゃうじゃん」とか言いながら結局どっちも青色のライトセーバーで戦ってた. 今思えば, スターウォーズエピソードIIIでオビワンとアナキンのジェダイ同士の対立を予見した世紀の大予言だったのかもしれないけど, そんな話はさておき.

で, 僕は「映画=ハリウッド=アメリカ」っていう連立方程式を何度も見返した結果, 高校卒業してアメリカに行くことになるんだけど, アメリカに行っていざ映画を学ぼうと思ったら一つ壁にぶち当たったのね. 周りの奴らが「この映画見た?」 「あの映画いいよな!」 みたいな話をしてる中, 全くついていけない. なんなら学生の時から2時間の映画撮ってたみたいな奴もゴロゴロいて, 僕なんて「パロディ全開のショートムービーですわ・・・」って感じ. 言ってしまえば, 思春期の頃の僕と映画の接し方は「ハリウッド映画って憧れる!」 「日本と違ってなんかオシャレ!」って目線でひたすらTSUTAYAでDVDを漁ることしかできなかったんだけど, 彼らにとってハリウッドって人格形成に携わってきた血肉そのもので, アメリカの反映やアイデンティティそのものだったりするわけじゃん. そんなとこに一映画好きの東洋人が足を踏み入れたところで, 到底太刀打ちできないって思ってしまった時があったのね. その後僕はハリウッドにも行かず, ニューヨークの美大に移るんだけど, 映画学部ってなると4年間やり直さないといけないとか言われて, 夢とかやりたいこととかじゃなくて, 単純に教育システムの問題で僕の映画に対する気持ちはサァーーって引いていった. いつの間にか映画から離れてしまったんだよね.

それから全く別の方向に興味を持って, 旅をしたり, アートを勉強したり, 起業もどきみたいなことをしたり. いろんなところに情熱を向けてはきた. もちろんどの活動も楽しかったし, そこで出会った人も最高だった. だけど, どこかで「やっぱり表現がしたい」っていう自分がいて, ”そういう自分を今まで殺してきてたんだな”っていうことに就活のタイミングで気づいたんだよね. 「なんだかんだ真面目でいなきゃいけない」 「最適な正解を選ばなきゃいけない」という呪文によって殺された”表現したいジブン"にザオリク(ドラクエの復活の呪文)が掛かった瞬間だった.

〜"表現”に対するハードル〜

”表現”ってものすごいハードルの高い響きだと思ってて, 僕自身美大にいるから, 周りは「4歳の頃からバレエやってました」とか「5歳の時からバイオリンやってました」とかいう奴ばかりなのね. そういった人達に対して僕は「6歳の時は遊戯王が好きでした」って言うくらいの返ししかできずに, そういう人を見ることで, 僕は勝手に「”表現”って行為は物心ついた時からイマまで, ”それ”だけずっと続けてきた人たちがやるべきもので, そうしてこなかったやつは大学卒業のタイミングで社会に求められたものにフィットしていかないといけないんだ」って気持ちがどっかで生まれてて. なんか”表現”って, 自分には関係のないどこか遠くの人が使う言葉な気がしてたんだよね.

でもホントはそうじゃないはずじゃんって思って. 会社員だって, 学生だって, 「私は普通に生きてきました. なんの変哲もない小さな小さな人間です」って奴にでも, そいつらにはそいつらなりの”これだけは言わせて”があって. しかもそれは, やろうと思ってないだけでやればできることだと思うんだよね.

「絵を描くこと」を学んできてなくても, 絵は描ける. 「踊ること」を誰かに教わったことがなくても踊れる. 「楽器を弾くこと」も「歌うこと」も練習してきたことはない人でも, バンドを組む権利はあると思う. これら全部に関してみんな僕は”できる”と思う. もちろん技術では劣るだろうし, 売れる売れないはここでは置いといてさ. できるかできないかの問題で言ったら”絶対できる"んだよね. 表現方法だって絵とか楽器とか, いわゆるアーティストの”それ”じゃなくてもいい. ”表現する”ってことに対して「もしできないからやらない」って言うんだったら, 「それはやってないからできないと思ってるだけでできるって!」って言いたい. ”表現”って特別な人だけが持つ, ”特権(Privilege)”じゃなくて, 人間みんなが持ってる”性質(Nature)”だと思うんだよね.

〜特別じゃなくてもいい〜

前にアメリカ人の友達が, 自作の曲を聴かせてくれた事があった. そいつは格闘技を学びに日本に来てて, 日本人に英語を教える先生でもあった. 目に見える肩書きだけみれば 「仕事は英語教師です. 格闘技やってます. 」 なんだけど, そいつは歌が好きなやつだったのね. さらに言うと, そいつは犬を飼ってて, とある日本人の女の子に恋してる青年だった. そいつが俺に聴かせてくれた”ホイッスル(Whistle)”って言う歌がものすごい心に刺さったんだよね. どういう歌だったかっていうと...

彼曰く、家に帰って口笛を鳴らすと飼ってる犬がダァーーっと走り寄ってきて体をすり寄せてくるんだって. 可愛いよね. でも良く考えたら, ずーっと家にいる犬からしたら飼い主である自分が家の外でどんな仕事をしてて, どんなことに喜びを感じて, どんなことに悩みを抱えてるかなんて分からないじゃん. 犬は飼い主のことを想像するしかできないけど, 口笛がなると真っ先に駆け寄ってくる. その友達はそんな犬を見て, 好きな人がいる自分と一緒だなって思ったんだって. 好きな人がいても, 「今何してんのか」 「どんなことを考えてるのか」とか想像することしかできない. でもLINEのメッセージが来たら, どうしようもなく嬉しくなっちゃって駆け出したい気持ちになる. そんな彼女に対して, 「俺は口笛がなったらいつでも飛んでくよ」みたいな歌詞だった.

僕は, その友達が弾き語りしたこの歌を聞いて思ったことが2つある. 1つは 「こいつ意外にめっちゃ女々しいじゃん」ってことで, もう一つは「特別な人が歌う特別なことじゃなくても, 人って感動できるんだな」ってこと. 犬の気持ちと自分の気持ちを抽象化して擦り合わせて, 自分の彼女に対する想いを音に乗せる. そいつは, あくまで格闘家で英語教師なんだけど, その歌はれっきとした彼なりの表現で, 肩書きには出てこない”彼そのもの”だった.

〜食ったら出せよ〜

その人の魅力って, 肩書きとか表面に見えてるものだけじゃ見えないって言うのは最近すごく思う. NYにきて新しくアーティストと出会う機会や話す機会が増えた. 僕が大好きな人たちだ. 彼らと話してると人生や世界の捉え方や大きく優しいことに気づかされて, さらに「何かを変えたい」って言うエネルギーをひしひしと感じる. 彼らのパフォーマンスを見るとやっぱりすごい感動するし, たった1人の人間が作るものがこんなに胸を打つんだって思う. 同時に彼らがまだ日の目を浴びてないことにめちゃくちゃムカつく時があるんだよね. 直接感想を求められると, 「超カッコよかったよ!やばい!」 みたいなことしか言えない時もあるんだけど, 裏ではもっと腹黒いことを思ってる. 簡単に言えば, 「もっと頑張れクソやろう」って気持ちだ. 「超カッコよかったよ!やばい!」の言葉をもっと具体的にいえばこんなところだ.

「やばかったよ. なんかお前だけの生き方がパフォーマンスに溢れ出てる気がして, 涙が出そうになったよ. お前のやってることってお前だけにしかないもので, めちゃめちゃ感動した. たださぁ, なんでまだお前もっと多くの人に届けたいとか言ってんの?売れてしかるべきじゃん. 俺がお前のことを知ってるとは言え, 俺の心をこんなに揺さぶるもの作れるんだったら, 絶対他のやつにも届くって確信してるよ. もっと世間に出す努力をしろよ!って言うか, お前がまだ俺と普通に喋れてしまってるって状況は, お前がいい表現を持ってるのに売れてないって言う情けないことだからな. お前がまだデビューもせずにここにいるってのは, これまでのお前の怠慢だ!あとお前の周りにいてこれを届ける努力ができなかった仲間達の怠慢だよ!いい表現もってんだから, "もっと頑張れクソやろう"」

こう言ってやりたい. 「なんだそのツンデレ表現は?」 「素直に良いって言えよ」 って思うかもだけど, この「もっと頑張れクソやろう」って言葉は俺に特大ブーメランで返って来る. 僕だって価値観変わるくらい心を揺さぶられたのに, それを人に届けることができないのは僕の怠慢だから. こんなに僕が好きな人たちを, 一緒に好きだっていってくれる人が欲しいのに, その環境を周りに作れていない僕の怠慢だ. 

人間は「こうあって欲しい」と願う気持ちや自分が思う”ジブン”の5%も外に出せていない. これは同時に人間が思う理想の社会は5%も体現できていないってこと. 現代社会は情報に溢れてて, 無制限に脳内に飛び込んで来る. 僕らはひたすら情報を食べて, 噛み砕いて消化するものの, 相応の分量のアウトプットが追いつかない便秘おばけだ. 世界との接点の中で個人が消化して, 人となりを形作ってる”ジブンという諸々のもの"や思考がどんなに美しくても, それは外に出さないと全く人に届かないんだ. 要は「食ったら出せよ!」ってことなんだけど.

”表現”の例えをうんこにしてしまったもんだから, いくら美しいと言っても美しく見えないのは申し訳ないと思う. 話を戻すと, アーティストってのは上手けりゃ売れるってわけじゃない. 思想が素晴らしくて, 志が高けりゃ売れるってもんでもない. アーティストが売れて, 評価されて, 消費者の元に届くようになるには, 少なからず運っていう要素がある. そういった運に恵まれたアーティストの作品しか目にすることのできない僕ら消費者はめちゃくちゃ運が悪いって思う.

僕は, そんな構造を変えたいと思う.

〜質の高い快感〜

スマホをいじってると, グラフィックやサウンドだけ異常に心地のいいゲームアプリの広告が, 五感をくすぐってくる. 滑らかな現実以上にリアルなグラフィックが視覚を支配して, プチプチを潰しているようなえも言えぬ快楽を与えてくれるサウンドのシズル感が人々を病み付きにするのがよく分かる. インストール数が至高目標であるスマホゲーム業界は, 忙しい現代人の日常の隙間に入り込んで, 最短距離で快楽だけを届けにくる. 一時的に快楽を与える麻薬だ. 音楽にしたってそうだ. コンテンツを切り取り, ストリーミングで気持ちのいい部分だけを消費して, ものすごいスピードで次に向かう. もはや誰がどんな気持ちで作品を作っているのかなんて, 消費者は知る由もなく, アーティストは忙しい現代人にその日の”オカズ”を提供する奉仕者に成り下がっているんじゃないかとすら思う時もある.

”表現”や”アート”というものは, 全部が全部気持ちの良いものばかりではなく, もっと不快で歪で違和感を伴う行為だ. なぜなら人間はみんな違う感性や価値観を持った生き物だから. 自分とは全く違った感性とぶつかるんだから違和感を感じるのは当たり前で, それをなんとか自分の解釈で理解しようと努力して, 深く深く見つめた先に, 実は根本的なところで”何か”が一緒であるということに気づく. それが”表現を受け取ること”における快感だ. では”表現する”快感とは何か. 表現者は頭に浮かんだ何かしらの概念を自分の”表現”に込める. 確かに閉じ込めたという感覚が表現者に訪れる1つ目の快感だ. そして外に向かう. 自分とは全く違う人生を送ってきた人に対して, 自分が”表現”に込めた揺るぎない”何か”をぶつける. それが相手に届いているのかも分からないと思いながら, 届かせたいという気持ちでぶつける. 自分の”表現”に対する信頼と相手に対する信頼. そのバランスを上手く取りながら, ”表現者”は「俺はここにいるんだ」ということを伝える. 半分賭けみたいなもんだ. 全員でなくても, 確実に誰か1人に「届いた」という感覚を得られた時, 表現者に2つ目の快感が訪れる.

”アート”という言葉を思い浮かべる時, 美術館や劇場を思い浮かべるかもしれない. こういった”アート”を大衆に提供する空間は, 性質上一方通行になりやすい. だから僕らは, yosemicでは敢えて表現する人と受け取る人が同居する生の空間にこだわる. マイクの置かれたステージはあるものの, ステージと観覧の垣根は最小限に留める. 表現者は観覧者でもあり, 観覧者は表現者でもあるというスタンスを崩さないように心がける. 本来, ”アート”や”表現”というのは, 自己探求の側面だけではない.創る側と受け取る側のコミュニケーションであり, 対話でもある. 伝わらないともどかしいし, 伝わると嬉しい. 人間は根本的に共感を求めていて, 未知に対する好奇心を持っている. ”表現”の根本にはその人の知らない部分を知りたいという欲求が隠されていて, その人のことを知りたいという欲求がある. yosemicは舞台でのパフォーマンスを通じて, 自分を高め, 自分を発見する場所であると同時に, 他者を知り, 他者を発見する場所でありたいと思う. 「分からない」 「理解できない」を乗り越えた先には, スマホゲームなんか比じゃないくらいのエクスタシーが待っているはずだ.

〜作り手の顔が見える”表現”空間〜

昔, 産業革命で大規模な工場が職人に取って代わった. 機械が作る機能的で幾何学的なデザイン家具は職人の手作業より精密でコストが低い. 完成したデザイン家具には, 制作した人の感情や意志はなく, ただ消費者が快適に使うことに適した作りになっている. アーティストや職人が 「お前らの存在価値ってなんなの?」っていうことが問われた瞬間だ. その時代ひたすら椅子の至る部分にネジを打ち付けた職人がいた. 通常, ベクトルの違う木材同士を打ち付ける役目を果たすネジを, 彼は全く関係のない箇所にまで打ち付けた. それは, 機能的で無駄が削ぎ落とされたデザインに対する職人の小さな反抗で, 紛れもなく「俺はここにいるんだ」という叫びだった. 彼は機能性とは乖離した場所に敢えてネジを打ち込むことで, 「なんで作り手はこんな場所にネジをうったんだろう?」という疑問を消費者に無意識にでも与えようと考えたのだ. 少しでも作り手の顔が目に浮かぶようにと. こんな小さな反抗がなんの意味があったかと言われれば, 本当にその通りだろう. テクノロジーの発達というのは抗いようがないし, 世の中の大きな流れに逆行することがアーティスティックだとは思わない. ただ、作り手の顔が消えるということに関しては, 寂しいことだと思う。

「生産者(作り手)の顔が見える」というのは, 農業や食品の世界では大きなテーマになっている. 生産者がどんな肥料にこだわり, どんな食材を優先しているのかを透明化することは, 消費者にとって安心材料になり, 選ぶ基準にもなる. ファッションでもそうだ. 「安価に質の高い服」というだけの基準でなく, 環境に優しい素材で適切な労働環境の下で作っているという表明がされている企業の服を選ぶという人たちも増えている. どんなに安くてカッコ良くても, 学校にも通えない子供が過酷な労働環境の中で生産し, かつ不当な価格で取引されたものを購入して着るという”行為そのものがカッコ悪い”という認識がセレブリティきっかけで広まってきている.

僕は”表現”ということにおいても, 「作り手の顔が見える」ような場所を作りたいと思っている. 上手ければ売れる訳じゃないと書いた. 運の要素もあると. では技術と運以外に売れる要素は何か. これは最近エンタメ業界でよく言われることだけど, キーワードは”共感”にある. 人はその人のストーリーに感動する. yosemicが隔週からでも, できるだけ定期開催しようという意味はここにある. 最初のステージでは思うようなパフォーマンスができないかもしれない. それが次, また次とパフォーマンスを重ねるごとに成長したり, 表現が研ぎ澄まされていく過程をも表現者のストーリーとして追えるような場所にしたいと思う. 「未完成である」ということは, それだけで魅力的だと思う. 未完成のものが完成に向かっていくプロセスは美しいし, サグラダファミリアが世界中で人気な理由はそこだと思う. yosemic然り, yosemicを運営するメンバー然り, イベントに立つ表現者たち全員が未完成だ. だからこそ全員が”表現”を通じて, ”表現する場所”を創っていき, そのストーリーが”表現”の芽を心の内に秘めた仲間を呼んで, 広がってほしいと思う. これはチームラボの猪子さんが言ってた言葉なんだけど, 「世界は完成されたものじゃない. 自分が参加して創っていくもんなんだ」っていう感覚を大事にしたい.

〜”ジブン”をないがしろにするな〜

産業革命で起こったようなパラダイムシフトは, 今この時代にもバッチリ当てはまる. 「ロボットとかAIが仕事を奪う」っていう文脈はよく語られることだと思う. そんな中で「ロボット反対! AI反対! 」(流石に言ってる人いないと思うけど, AIによって脅かされる将来を嘆いたり憂いたり)なんて言うのはナンセンスな話で, 機械うちこわし運動パート2みたいなことしたってしょうがないと思う. 昔から人間は, 仕方なくやってるめんどくさい仕事以外の時間が欲しくて欲しくて仕方なかったから, テクノロジーを発展させてきたんでしょ. 洗濯とか掃除とかいう仕事が面倒だから洗濯機作ってルンバ作ったんでしょ. それをAIが出てきた途端に, 「仕事できねーじゃねぇか」じゃねーよ. そこは「ラッキー」だろ. これは完全に落合陽一の受け売りだけど, 働き方もどんどん多様化して, ワークライフバランスっていう言葉がワークアズライフに取って代わられてる. 今, 「人間って何?」ってのが問い直されてると思うんだよね. 「お前らの存在価値ってなんなの?」ってこと. 逆に言えば, ”ジブン”を生きれる時代がきたんだから, 自分を生きないのもったいないと思う. これは自戒をたっぷり込めて思う.

〜最後に. 感動指数について〜

「最近感動したのはいつだろう?」ってことを考えてみて欲しい. 泣ける映画を見た時?切ない小説を読んだ時?アニメで観たワンピースのシーンだった人もいるかもしれない. 僕の答えもそんなものが多かった. でも, よく考えたらそれら全部が受動的に感動させられたもので, 自分で辿り着いた感動を最近味わってない気がした. 高校の時に友達とみんなで一緒に作った文化祭や, 小学校の時に友達と夢中になって作った秘密基地ができた時みたいな感動って最近味わえてるだろうか. もし「味わてる!」って自信を持って言えない人がいるのなら, 僕だってそうだ. でもそろそろ自分自身のためにも感動を更新してあげた方がいい気がする. 経済指数とか幸福指数とか, 世の中にはいろんな指数があるけど, 僕は個人的に感動指数を高めたいと思ってる. 感動指数の高さとは何か. それは, 「楽しい」 「悔しい」 「哀しい」 「嬉しい」 そういった感情の振れ幅が限りなく大きくなったプロセスを通じて, 最終的に全部がある一点に収束した瞬間のカタルシスのことである気がする. そして, その感動指数をあげるヒントは”共創”にある. 自分以外の誰かと”共に創る”ということだ. 思えば, 文化祭の時も秘密基地の時も横にはいつも仲間がいた. なんか少年ジャンプみたいなこと言ってるけど, これは本当の話で. 考えてみれば, 初めて作ったスターウォーズのパロディ映画を作った時には, 横に弟がいた. 感動は誰かと共有すると, より高い感動指数を刻む.

感動指数を高めよう. 共に創ろう. もし, その仲間がいないんだったら, 僕らと一緒に”表現”する場所創りをしよう. その先にはとんでもない快感が待ってるはずだから.

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ここまで読んでくれた人. 本当にありがとう通り越して, 尊敬に値する通り越して, 一周まわって本当にありがとう. こんな長々続いた駄文を読んでくれたってだけでも嬉しい. 感謝の気持ちをしっかり伝えたいから, 何かコメントくれると嬉しい. 最後まで読んだよって証でコメントに「#たいと君頑張って」って言葉入れてほしい.

「いや! 結局お前のためやないかい!」って思った方!待って!じゃあ, そんな言葉入れなくていいよ. とにかく感謝を伝えたいから, 「読んだぞ. ありがとうって言え」でもいい!そしたら僕, 「ありがとう」って言う.

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