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新しい教育プログラムに向かって

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たいたけのささやかなチャレンジへの道のりを記しています。
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#共育

「共に育つ」ってなんだろう(雑記)

以前、教育から共育へでこんなことを記載しました。 「子どもと共に育つ」ってどんなだろう?という問いが生まれました。 たとえば、うちではあつまれどうぶつの森を父・母・子みんなでやっています。島の住民を誰にしたいか、どんな島にしたいかを話し合いながら、島づくりや博物館の展示物収集を協力してやっています。じゃあ共に育っているかと問えば、う〜ん、なんか違うよな、と感じます。 地域共育であれば「子どもと共に育つ」よりも、僕にとってはわかりやすいです。 ルソーの『社会契約論』と『エ

子と親の共育始め(管見)

僕は常々思っているんですが…(整くん風) 教育っていつも親からですよね 子どもからじゃない なぜ親からなのかって言うと 親はいつも「未来」を眺めているからなんです 「未来」を心配して教育を受けさせたいって思うんです でも子どもはそんなことしない 「今」を見つめている 「今」を精いっぱい生きている 僕は親こそ子どもから教育を受けるべきなんじゃないかって思うんです… 共育は親と子のどちらから始まるのでしょうか 未来志向だったり不安から入る場合は教育同様、親からだと思いま

ふれあいの教育へ(雑記)

「ふれる」あるいは「さわる」について今回を含めて全10回書かせていただきました。その1回目ふれるということの冒頭に引用した栗原彬の文章です。 ふれあいの論理をもちこんだ教育とはどのようなものでしょうか? ふれるということでもその問いを立てさせていただきましたが、その時よりも僕たちはもう少しだけ深く考え、感じることができるようになったかもしれません。 「ふれる」はこれまで見てきたとおり ・人間的なかかわりで ・双方向的 ・主客が分離しておらず 場合によっては ・向こう側から

脱成長社会における教育の新しいかたち

 あなたは教育や仕事、仕事を通して見えてきた社会で違和感につかまったことがありますか?ハッキリとした肯定でもなく、ハッキリとした否定でもなく、今いる場所がいつもいる場所であるのに、なぜか場違いの場所に立ってしまったかのような感覚。直立しているはずなのにフラフラとする、めまいのするような感覚・・  僕はそんな違和感に2010年代の後半につかまりました。僕は学習塾を営んできたのですが、それの失敗しているときではなく、かえって成功しているときでした。周りからは良い塾と言われる、評

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