「足りない」について考える
「ないものねだり」なのだろうか。
健康は、失ってから初めてそのありがたみに気づく。
時間は、経ってからようやくその不可逆性に気づく。
金銭は、浪費してからやっとその貴重さに気づく。
身動きが取れなくなってから「あれがやりたい」「これをしたい」と思うのは、なぜだろうか。
どうやら風邪をひいたらしく、先週から活動量80%減(本人談・体感比)になっていて、一日の半分くらいをベッドの上で過ごしている。
最初のうちは「なんか気力ないな」「先週、旅行に行って魂置いてきたかな」「まあいいか、たまには休息も必要」なんて悠長に構え、高を括っていたが、日が経つごとに腹痛だの目眩だの喉痛だのに見舞われて、今晩めでたく「あ、風邪だ」と自覚した次第。
そして今、「なぜか」寒気を感じつつ目の眩む思いをしながらパソコンの前に座り、約3ヶ月ぶりにnoteを書いている。
「なぜか」というのは……
この病状と不健康の原因がわからないという嘆きと同時に、このような辛い時期に、わざわざあくせくせっせと記事を書いているのか、という意味合いだ。
客観的に考えても訳がわからない。
今じゃないだろ。
大人しくすやすやと眠れればいいのだけれど、そうやすやすとはいかない。
はじめのうちこそYouTubeを見るだの、ポッドキャストを聞くだの、Twitterで娯楽と堕落の限りを尽くすだの、ChatGPTと雑談するだのしていたが、心理に対して目と耳が刺激を拒否するので、だんだん辛くなって飽きてくる。
やがて、ベッドの上では考え事をするしかなくなる(思い出したのだけれど、まるでうつ病や長期入院の感覚だ)。
すると、普段は決して感じず、あえて考えもしなかったようなことが――「あの仕事をやらなきゃ」「こんなものを作ってみたいな」と欲が湧く。
「なんでこんな不健康に、伏せ込んで、老け込んでいるんだろうか」といった悲観、「後輩が双子を出産したらしいな」と羨望めいたことも、次々思い浮かんでくる。
(諸先輩方には笑われたり怒られたりするかもしれないけれど、実際私の加齢問題は31歳4ヶ月にして、個人的にかなり深刻な悩みとなっている。心情的に)
そうした逡巡を経て、今に至る。
なんとか目眩だけは収まったからと起き上がり、出前館で食事をとり(匂いを過敏に感じるせいかあまり美味しくない)、やっと手を付けたのがここ。
義務感でもなく、仕事もあるのに、なぜかnote。
閑話休題。トイレ休憩。お腹痛い。
――トイレに腰掛けながら鏡に映る自分を見て考えていたのだけれど。
これは、なにか生存本能に近いものだろうか。
作家・執筆業をやっているからとかではなく、人間的に。
「体調が悪いとき、いつもより性欲が高まることがある/人がいるのは、野生動物としての名残だ」という俗説があるけれど[要出典]、それに近いものだろうか。
なにか残しておきたいのだ。たぶん。
健康なときには気にも留めなかった些細な欠乏感や、冷静になると顔から火が出るような類の衝動が確かにある。
徹夜で書き上げたラブレターみたいなもんだろう。
(現にこの文章も、推敲の時点で既に恥ずかしい)
満足していない、不幸である、負けている、未完成。
――言い方はいろいろあるけれど、こういう「足りなさ」というものが創作や表現と呼ばれるものの根幹には必要なのかもしれない。
少なくとも、私の場合は。
さて、翻って。
先ほど書いた「今じゃないだろ」というツッコミは本当だろうか。
不服だが、この悪寒と、それに反して運んでいる指がすべてを物語る。
それにしても、ふらふらしたへんてこな文章だなあ。
明日の朝起きたら、本当に顔から出火し、発熱していないことを願う。
穴があったら入りたい。布団にさっさと潜りたい。眠れるもんならはよ寝たい。
余談:推敲を重ねすぎて、完璧な文章、整った表現を目指していると気づく。そういえば毎日記事を書いているときはそんなことしてなかったな。そりゃ心理的ハードルが上がるわけだ。Twitter(X)だとここまでじゃないんだけどな。
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