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日本人の「無関心」な側面とチームビルディング

僕は普通のサラリーマンですが、仕事をしている中で強いチームはどうやったらできるのか?ということをここ数年考えています。
僕の考える強いチームとは、各メンバが、共有された目標に向かって、自分で主体的に考え、学び、それをチームメンバにシェアし、議論し、そして行動できるチームです。

そんな中、日々いろんなプロジェクトのメンバーの様子を観察したり、また過去の自分の経験、本、またニュースなど見て考えている中で、日本人の「無関心」という側面に注目するようになりました。この「無関心」な状態は、いったいどのように起こるのか、解決策はあるのか、僕の考えをまとめたいと思います。

非常に難しいテーマですが、日々の気づきをもとに、随時更新していきたいと思います。

はじめに

僕は「無関心」な人とは、以下のような特徴があると考えています。

・他人のことを知ろうとしない。他人に興味がない。他人と強調しない。(多様性がない。思いやりがない)

・問題が発生しても自分からは決して動かない。誰かやるだろう、と気づかないふりをする。自分がやらなくてもだれかやってくれるだろうと考える。(人任せ)

・会議やディスカッションで自分の意見を言わない。(共有しない)

今私の所属する会社では、こういう人たちが沢山います。おそらく、この無関心な人たちをこのまま放置し、雇用し続けたら、会社は存続できなくなるレベルだと考えています。しかし、興味深いのは、こういう人たちは、プライベイトではアクティブで、会社に来たとたんに別人になったように振舞うということです。彼らが本来の素の自分で働くことができれば、とても大きな力になると思っています。さて、どうすればいいか!

気づき

会社の人材育成プログラムの一環で、立命館アジア太平洋大学(APU)の企業人向けのプログラムに参加し、2か月ほど寮生活を行いながら学んだ経験があります。APUはそのほとんどが留学生という環境で、日本にいながらにして異文化を体験できる環境です。講義はもちろん英語が中心です。APUの講義のスタイルは、グループディスカッションやグループワークが中心であり、多国籍のメンバで構成されるチームを作って、調査、資料作り、プレゼンなどを行うわけです。

そんな生活で気づいたのが、日本人学生の「無関心」さです。講義では教室の一番後ろの目立たないところに陣取り、友達をおしゃべりをしたり、スマホいじっている。当然講義の中で意見を求められても、発言する人はほとんどいません。グループワークでは、大抵は外国人の学生中心で進められます。日本人の学生は所属しているだけで「やってくれるだろう」という意識が見え見え。外国人の学生からも日本人と一緒にチームを組むことを嫌がられています。

しかしこれ実は、今に始まった話ではなく、僕が学生時代(15年以上前)も全く同じだったし、自分自身も「無関心」な学生そのものでした。さらに、大学生だけに限った話ではなく、会社の中を見てみると、この「無関心」な状態が実は日本の組織の中に蔓延していることに気づいたのです。仕事に無関心(あまりめんどくさそうなことはやりたくない、発言したらめんどうな仕事をふられそうだから静かにしておこう)、他人に無関心(ほかの人がどんなことをやっているかとか、どんな性格の人かとか知るうとしない)などなど、、

さらに、この「無関心」は、上で述べた大学、組織に限らず、日本社会全体に蔓延している可能性もあると考えています。

なぜ「無関心」になるのか

(1) 学校教育

GLOBISで講演されたいた藤原和博さんのこの動画を見て、授業のやり方が「無関心」な状態を引き起こす価値観を醸成している可能性を考えました。

小学生のころ、授業の中で先生が、「質問がある人」とか「わかった人」と聞いて、質問がある人や答えが分かった人は手を挙げて答えます。低学年くらいまではみんなわーわー手を挙げてる感じだと思います。しかし、徐々に、積極的に授業に参加する生徒とそうじゃない生徒に分かれてくる。後者の生徒たちは、授業に積極的に参加しなくても大して評価は変わらず、テストで良いスコアを取りさえすればわけなので、授業の中で「考える」ということをしなくなります。

自分もそうですが、いつのころからか、グループのリーダなど重要な役割を担当してしまうとめんどくさいことになるし、頑張っても大して評価されないし、といった短期的な視点での損得勘定によって、それをやる意味を評価してしまう価値観が身についてしまっているように思います。結果誰かやってくれるから、ほっとけばいいやという「他人任せ」の状態に陥ります。

(2) 心理的安全性の欠如

会社の中や、会議、ディスカッションなどの場で自分の意見を言わない人が沢山いるということは、「心理的安全性」が低い組織である可能性が高いと思います。「心理的安全性」の低い組織とは、自分の考えを言うと、周りの人は聞く耳を持ってくれなかったり、馬鹿にされたりする、そういう組織です。

また、問題が発生したときに、自分のこととして行動するか否かも心理的安全性が影響してくると思います。問題が発生したとき真っ先に行動したにも関わらず、余計なことをするなと言わたり、責任をその人に押し付けたり、その問題にかかわるすべての仕事を一人でやらされたるする状態です。こんなチームは最悪です。

そして、チャレンジして失敗したときに、その失敗が許容されるか否かも心理的安全性が大きく影響すると思います。特に創造的な仕事をするとき、失敗はつきものです。成功する確率のほうがずっとずっと低い。にも拘わらず、チャレンジしたことを責められたりしたら二度とそんなチャンレンジすうるものか、となります。社会も同じです。

(3) 役割(ROLE)が不明確

日本の企業においては、役割が不明確というのも要因として考えられるのではないかと思います。私はシステムエンジニアです。私の会社は、マネージャ(普通の会社でいう課長)から管理職という位置づけですが、それまではシステムエンジニアはシステムエンジニアでしかありません。海外の企業と働くとわかるのですが、海外では、~エンジニア、~スペシャリストというように細かく役割が定義されていることがわかります。そしてその役割の人たちは、そのフィールドのスペシャリストとして自身の仕事に責任を持ち、自信をもってその仕事ができるよう、継続して自らスキルの習得を行っています。一方で日本の一般的な企業では、役割が不明確なことが多いと思います。そのため、どこか「人任せ」(会社任せ)なところがあり、自分自身に自身、責任を感じにくいのではないかと考えます。これは、終身雇用という独特な雇用文化が影響している可能性が高いと考えています。

僕の考える解決策

(1) 「心理的安全性」と「責任」

「心理的安全性」と「責任」のバランスが重要だと考えています。両社の関係については、一休の伊藤直也氏のこの記事で示されているマトリクス(以下に引用)がとてもわかりやすく、しっくり来ています。「無関心」な状態とは、心理的安全性が低く、かつ責任も低い状態です。マトリクスの中の快適な状態が良いかと思いきや、これはぬるま湯の組織でしかありません。ベストな状態は、「心理的安全性」が高く、「責任」も高い状態です。この状態になると、この記事の冒頭で僕が定義した「各メンバが、共有された目標に向かって、自分で主体的に考え、学び、それをチームメンバにシェアし、議論し、そして行動できる」強いチームになると考えています。

(2) 対話

心理的安全性は「自由」と近い感じがします。最近小坂井敏晶さんの「責任という虚構」という本を読んでいます。この中で自由について以下のように述べられています。

結局、自由とは因果律に縛られない状態ではなく、自分の望む通りに行動できる感覚であり、強制力を感じないという意味に他ならない。

当然と感じるかもしれませんが、自由の正体は感覚なのです。では実際僕たちはどういうときに自由という感覚を持つのでしょうか。僕は自分に何かを決定する裁量が与えられた状態を自由と感じます。これは、自分が認められているという状態と同じなのかもしれません。

認められているという感覚を、例えばプロジェクトのメンバに持ってもらうために、頻繁に対話を繰り返すことしかないと思います。これは同時に、自分自身が、メンバを認めることができる状態になるためでもあります。そして、メンバを信頼し、裁量を与えることが、メンバに「自由」という感覚を抱かせるために必要だと考えます。

(3) 役割(ロール)の明確化

無条件に裁量を与えるだけではだめです。同時にメンバ自身に責任の意識も高める必要があります。「責任という虚構」では、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)、死刑制度、えん罪の分析から責任の構造を解明しています。普段組織に所属し、仕事をするときに、自分の意志で今この業務をやっているという感覚はほとんどないと思います。どちらかというと、やらされている感であったり、事務的に作業をこなしているようなことが多い。さらに、近年は業務効率化や品質強化などの目的で、業務の型化や手順書化であったり、厳格な承認ルールを設けたりするが多く、責任意識の希薄化がより一層進んでいると思います。そして、日本企業の場合は前述したとおり、役割が不明確なため、業務に対する責任の意識が相当低い。

プロジェクトリーダとプロジェクトメンバの業務に対する責任意識の違いを考えたいと思います。プロジェクトリーダは、そのプロジェクトをなんとか成功させようと必死で仕事をします。一方メンバは、リーダよりも責任の意識が低いことが普通で、特に「無関心」なチームにおいては、常に受け身の姿勢で業務を行い、リーダはその状況にやきもきする。

メンバーの業務に対する責任の意識を高めるためにはどうする必要があるか。リーダは、リーダという明確な役割があるから責任の意識を持つのだと考えます。メンバの責任意識を高めるためには、リーダという役割と同じように、明確な役割を与える必要があると考えています。

(4) 失敗しても大丈夫という安心感

この記事を書いているときに、あるインスタライブを見ました。モデルであり、企業家であり、大学の学長でもある伊勢谷友介さんが、「ベーシックインカムも重要だが、その前に教育、健康が保証されるベーシックアセットを導入すべきだ」と言っていました。これはつまり、チャレンジして、もしうまくいかなかったとしても最低限のことは保証される制度だと認識しました。社会においても、組織においても変化するということは、存続すること、発展することの必要条件です。変化のためにはチャレンジが不可欠です。失敗しても大丈夫なシステムが、社会においても、企業のおいても必要だと考えます。


#無関心 #多様性 #心理的安全性 #日本人 #責任という虚構

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