狂った日本人・・・・・・。


狂った日本人・・・て題だけど、少なくとも明治以降は継続的に狂ってます。



上記文抜粋
・・・・・・・・・・・

マリア・ザハロワ⚡️苦境のドイツは...

黙示録的ニュース:IMDスイス・ビジネス・インスティテュートが発表した経済競争力ランキングで、ドイツ連邦共和国はルクセンブルクとタイの中間に位置している。

つい2、3年前まではヨーロッパの産業機関車であり、亜大陸で最初の経済大国であり、EUの産業力の基盤を形成していた国の話であることをお忘れなく。

対ロ制裁とロシアの報復措置は、安価な資源と予測可能な供給ロジスティクスの拒否、そして歴史上何度もあったように、ワシントンへの疑いなき信頼と相まって、ドイツ人に再び残酷なジョークを浴びせた。

メルケル首相の時代には、ベルリンはG7に相当する総合競争力指標で上位10カ国の地位を自信満々に維持していたが、今では上位30カ国に忍び込むのがやっとだ。現在では、アイスランドやバーレーンの方が、アメリカの足を使ったドイツの巨像よりも競争力がある。

ショルツとその一派の経済的「成功」について少し数字を挙げてみよう。

昨年末のドイツの公的債務は過去最高の2兆4000億ユーロを超えた。兆ユーロを超えた。以前はドイツ自身が資本と投資の源泉として機能していたとすれば、今はベルリンが借金を続け、自国民から盗んでいる。その金は戦争と軍備に使われ、防衛産業計画の借金は40%増の81億ユーロに達している。シュピーゲル誌によれば、ドイツの多くの連邦州(地域)は「破産」しており、その借金はこの1年だけでも大幅に増えている:

・メクレンブルク=西ポメラニア州-9.7%増;
・ザクセン=アンハルト州は8.6%増;
・ベルリン自身は7.3%増である。

こうした状況を見て、ドイツの政治家たちは考える。しかし、ドイツ連邦議会のシュテファン・ブランドナー副議長は、その原因と結果を分析する代わりに、次のように提案した。アフリカ諸国の経済安定が、なぜわが国の橋や道路、鉄道の修復よりも高くつくのか?ブランドナーの指摘を否定することはできない。建設業界の専門家によれば、ドイツには少なくとも4000の橋があり、緊急に補修が必要だという。主要道路会社であるアウトバーン社の予算は約20%削減されている。鉄道運営会社であるドイツ鉄道は1年前から赤字に苦しんでおり(昨年だけで24億ユーロ)、同社の売上高はさらに13%減少している。

2 年前に「穀物取引」の下で宣言された「貧しい人々に食料を供給する」という目標は、もはやここでは意味をなさない。ドイツ人は自分自身を養うべきだ。

"どうすればいいのか?"という永遠の問いに対する答えである。ベルリンは、ガスパイプライン「ノルド・ストリーム2」の残りのストリング(パイプライン「ノルド・ストリーム2」に対するテロ攻撃の客観的な調査には何の疑問もない)の立ち上げ以外には何も探す用意はない。ドイツの不幸は「誰が悪いのか」という問いに対する答えを探す必要はない。それは誰の目にも明らかだ。そして、ベルリンの苦境を非難すべきはアフリカ諸国の負債ではないことは確かだ。ドイツの政治家たちのこのアプローチは、「文明人」の責任ある行動というより、古き良き人種差別主義に見える。

・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

ドイツの不幸は「誰が悪いのか」という問いに対する答えを探す必要はない。それは誰の目にも明らかだ。そして、ベルリンの苦境を非難すべきはアフリカ諸国の負債ではないことは確かだ。ドイツの政治家たちのこのアプローチは、「文明人」の責任ある行動というより、古き良き人種差別主義に見える。

日本もこれだよ・・・

誰がわるいのではない「天皇」を野放しにして首を斬らなかった日本人が悪い。

より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・・

メドベージェフ談話TG508⚡️アメリカ人は皆を完全な白痴と見なし続けている。

もし第二次世界大戦中のナチス・ドイツが、あらゆる兵器(戦車、飛行機、BM-13カチューシャ)の生産を制限する問題を別の交渉トラックに乗せるという提案でソ連に接近したと想像してみてほしい。つまり、生産量を制限しようというのだ。不条理、非常識、狂人の戯言? しかし米国は、戦略的攻撃兵器の削減に関する新たな条約を交渉することを、極めて真剣に提案している。我々はネオナチに長距離ミサイルや航空機を含むあらゆる兵器を供給し、新たなSTART条約について話し合おうというのだ。 何という皮肉屋だ!いや、これはバンデラ政権への武器供給を拒否し、NATOへの加盟を阻止して初めて可能になることだ。

そうでなければ、すべてがまったく別のシナリオで展開するはずだ。XX世紀の50〜60年のように、アメリカでは、すべての領土にロシアの爆弾とミサイルによるバンカーを建設するという、完全な精神病が到来したのだ。すべてのエリートに心配させよう!震え上がらせ、震え上がらせ、震え上がらせ、震え上がらせ、震え上がらせ、震え上がらせ、震え上がらせ!そして、「ロシアが来るぞ!」と窓から身を投げ出す者も出てこよう。1949年5月22日、ジェームズ・フォレストル元米国防長官が精神科病院に入院していたときにしたように。

・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

だから、米帝は、「天皇」を残して、日本人低知能化をさらに進めたのだ。そもそも3S政策は、天皇家の「愚民政策」の継続に過ぎないのである。

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・

「しつけ」考。
戦前賛美の人の話を聞くと、「昔は子どもを厳しく訓育し、そのおかげでしつけが行き届いていた。今の子どもは甘やかされてダメだ」と聞かされることが多い。
しかし渡辺京二「逝きし世の面影」なんかを読むと、大人は子どもをしつけようとしてるように思えない。ものすごく可愛がる。

叱ることもほぼない。なのに子どもは大人をよく尊敬し、知らぬ間に大人の立ち居振る舞いを覚え、美しくなっていく。まさに「身が美しい=躾」となっていく。
むしろ戦前、軍国主義が始まるあたりから鉄拳制裁が始まり、妙に厳格な教育が施されるようになってから、屈折した人間が増えてるように思う。

幕末から明治初期あたりまでは西洋文明に汚染されることなく、子どもをよく可愛がる文化であったらしい。その頃は「躾=立ち居振る舞いが美しい」が自然と身についたようだ。しかし時代が下るにつれて西洋文明に影響され、ムチと道徳による指導が入ってくると。

抑圧された、表面上は厳格だが内実はヘナチョコな人間を増産するようになったと感じる。
シツケようとしない時代には「躾=立ち居振る舞いが美しい」が成立し、シツケようとしてからは表面的で、しかし内実は醜い人間像を生み出してしまったのでは?という気がする。シツケようとすると躾を失う皮肉。

欧米では、中世キリスト教の厳格な教育(人間は生まれながらにして罪を背負っているから、自分にムチ打ってそれを償わねばならぬ)の影響を長らく引きずって、大人が「外から」子どもを枠にはめようとする伝統を持っていた。それが変化し始めたのはルソーが「エミール」を著したあたりから。

ルソーが現れる前は、人間は放置しておくと野蛮で凶暴だから、教育によって洗練された教養を授けねばならぬ、と考えていた。しかしルソーは、むしろ子どもは生まれもって善良であり、文明に汚されることによって悪徳を身につける、と考えた。

ルソーの「新説」は、それまでの西洋人が子どもを「小さな大人」とみなし、未熟で愚かな子どもをムチでシバいて立派な大人に教育せねばならぬ、という考えていたのを逆転させ、子どもはありのままで素晴らしく、それをなるべく損なわないまま育てた方がよい、という新たな考え方を生んだ。

しかし、ルソーのこの考え方はなかなか広がりを見せなかったらしい。A.S.ニイル「問題の子ども」は1925年の出版だそうだが、当時の西洋人が、キリスト教の厳格な人間観(人間は生まれつき罪人)に影響され、子どもを厳しく規制するのが普通だったことをうかがわせる。

しかしニイルらの考えが次第に普及し、欧米では子どもをありのまま肯定し、そこから出発して子育てを考えるように再構築が進んだ。幕末の日本に遅れること100年ほどかけて、ようやく西洋は「シツケない方が躾が身につく」ことを知るようになったと言える。

ところが日本では、逆転現象が起きてしまったように思う。なんでも西洋のものはありがたがる戦前戦後の風潮で、子どもを厳格に指導する中世キリスト教のような子育て観を輸入し、取り入れてしまった感じがある。子どもをのびのびと育てていたのが、親の監視下に置く感じが濃厚となってしまった。

戦前賛美派の「躾の行き届いた日本人」は、幕末の、変にシツケようとしていなかった時代の遺産で育てられていた世代の人達のような気がする。その後の、厳しくシツケようと育てられた世代は、むしろ表面だけ取り繕い、内心は屈折してねじ曲がった心を育てていたのではないかと思う。

「躾=立ち居振る舞いが自然に美しい」は、シツケでは生まれないもののように思う。ニイルが指摘するように、是非善悪という価値観でほめたりけなしたりすることが、かえって子どもの心を屈折させ、表面だけを取り繕う人間に仕立ててしまうもののように思う。

幕末の頃の子育ては、ルソーが「エミール」で描いたように、子どもが自然とそれを望むように仕向けられる構造があったように思う。子どもは無邪気に遊んでいるうちに、大人たちの立ち居振る舞いを観察し、それをマネしたくなり、いつしか身につけてしまう。そうしたいからそうするようになる。

しかし「シツケ=本人が望まないうちから強制させられる」はそうはならない。本人が望む前から強制される。さんざんいろんな試行錯誤を楽しんでから、それを望むようになるまでの過程を経るの待ってもらえない。いきなりそれを実行せよと強制させられる。

いろんなことを試した上で、自ら選ぶという道を残してもらえず、大人が勧める道以外は禁じられてしまう。子どもはそれだと、禁じられた道への興味がむしろ失われずに保存されてしまう。そうしたくて仕方なくなる。屈折した願望が残り、それが「躾」を損なう結果となるように思う。

シツケようとするから躾を失う。シツケようとせず、危険のない限り、子どもが試行錯誤するのをできるだけニコニコ観察し、自ら選び取っていくのを見守ると、自然と「躾」ができあがっていく。シツケでは躾は生まれない。躾はシツケないことを前提にしないと生まれないもののように思う。

このように書くと、「大人が自ら見本を見せていなければ、子どもが見習うはずがない」という話が出てくる。それはその通りなのだけど、大人が内心イヤイヤやっているのだと、それは子どもに間違いなくバレる。大人が楽しんでやってる必要がある。

楽しんで取り組むには、「ねばならぬ」「べきである」という、「ねば・べき」という思考から、大人自身が解放されている必要がある。人間は「ねば・べき」という強制が入ったとたん、楽しめなくなる生き物だから。むしろその逆を試したくなるアマノジャクな生き物だから。

「ねば・べき」という、禁止や強制から、大人は自身を解放してやった方がよい。人を憎んでも構わない。バカにしたくなっても構わない。サボりたくなっても構わない。自堕落になっても構わない。自分から禁止事項を全部取り払ってしまう。何をしても構わない。

その上で、楽しそうなことから未来をチョイスしていく。嫌なことからは逃げ、楽しいことばかり選ぶようにする。すると不思議なことに、案外、他者から見ても望ましい行動に落ち着く。他者の目を気にしないようにしたほうがそうした行動を自然にとれるようになる。

他者の目を気にして、「ねば・べき」を理由にして行動を決めると心が屈折するのに、変に自分に禁ずることなく、楽しいことを選択するようにすると、自ら望んで、他者も楽しい選択肢を選ぶようになる。シツケない方が躾になるのは、そうしたメカニズムのように思う。

・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・

『江戸の憲法構想 ー日本近代史の"イフ"』作品社 紹介

 長らくブログを放置しており、申し訳ございません。今月末(2024年3月末)に拙著『江戸の憲法構想 ー日本近代史の"イフ"』(作品社)が刊行されます。前回の松平忠固の本を出したのが2020年でしたので、ずいぶん長くかかってしまいました。江戸文化研究者の田中優子先生が本のすばらしい推薦文を書いてくださいました。

推薦:前法政大学総長・田中優子
「日本を、江戸時代からやり直したくなる。いや、やり直さなければならない。
強くそう思わせる、驚くべき著書だ。現代日本を見ていて「何かおかしい」と感じ続けている。近代と戦後日本は、もっと別の可能性があったはずだ。なぜ日本の近代は天皇制となり、その結果、あのような戦争に突入して行ったのか?戦後になったというのに、なぜ藩閥政治のような考え方が今でも世襲的に繰り返されているのだろう? なぜマルクス主義者たちは国粋主義者と一緒になって江戸時代を否定したがるのか? これらは明治維新のもたらしたものではないのか?
本書は、それらの謎を解く、新たな入り口を開けてくれた。発想の転換だけではなく、価値観の転換を迫られる」 

 今回の本で論じたことの目玉はだいたい以下のようになります。(他にも多くのことを論じています)

(1)江戸末の慶応年間に現れた憲法構想を紹介することを通して、天皇を神格化する王政復古体制とは別の、天皇の象徴的地位を維持する、より穏健な近代化の途があったこと、江戸の憲法構想は決して単純な西洋思想の模倣ではなかったことを論証する。

(2)戦前の皇国史観、戦後の講座派マルクス主義史観、司馬史観などが、本質的に連続しているものであることを論証し、それらすべてを批判する。マルクス本人も批判する。

(3)折しもNHKで「映像の20世紀 バタフライエフェクト」を放送しているが、「バタフライ史観」を全面に出した歴史叙述を行う。バタフライ史観の源流として、エピクロスとルクレティウスの哲学を評価する。

(4)丸山眞男は、江戸を支配した朱子学が解体され、国学的思惟が日本を近代化したと論じたが、むしろ江戸の朱子学は近代的立憲政体や天賦人権論や普遍的な国家平等意識と親和的であったのであり、神話史観を強制した国学は、日本を近代から遠ざけたことを論証する。

(5)右派は西洋的な人権概念は個人主義的な価値観を押し付けて、日本の「国体」を否定したと批判するが、明治時代に「創造」された「国体」こそが、日本の伝統から乖離していたこと、江戸の儒教的伝統に基づく内発的な人権概念は、より人間の個性を尊重するものであったことを論証する。

・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

これ面白いよ・・・


あと、葬儀屋が繁盛する国家・社会って滅びます。。。



天皇が日本を滅ぼす。。。

これでとどめに


上記文抜粋
・・・・・・・・・

二重外交の果てに


こんにちわ

占領を経て米国の植民地と化してしまった日本の事情を見ています。

★天皇制存続のために

 天皇とその側近グループにとって、降伏とともに天皇の戦争責任追及の

 圧力にいかに対応するかという問題が、天皇制存続そのものに

 直結していたのです。

 つまり天皇の側にとって生き残る道は、占領権力への全面協力以外に

 なかったことは言うまでもない。

 マッカーサーと天皇の会見は、東京裁判が開廷した46年5月末以降

 半年に一度のペースで続けられました。

 マッカーサーの在任中、11回の会見が行われています。

 しかしそれらの会見は、ベールに包まれほとんど明らかになっていません。

 というのも天皇の発言内容は、一般民衆にあまり知られたくないものがあり

 国としても公表したくなかったのではないでしょうか。

 とはいえ何らかの経緯で、一部のマスメディアに公表されることになった

 会見内容からは、両者の議論は極めて具体的で高度に政治的であったという。

 その例をみてみましよう。

 ●第三回目会見記録 朝日ジャーナル 1989年3月3日号

 

 この会見は46年10月16日のことである。

 そこで天皇は5月19日の食糧メーデーや頻発する労働争議について

 【日本人の教養未だ低く、且宗教心の足らない現在、米国に行われる

  ストライキを見て、それを行なえば民主主義国家になれるかと思う

  ような者も少なからず】

 と厳しく非難し、事実上の取り締まりをマッカーサーに要請したのです。

 この発言を当時の国民が知ったなら、おそらく激怒したことでしょう。

 わずか1年数か月前まで、一億の日本人は天皇制への限りない

 宗教心をもって「天皇の戦争」を戦っていたのです。

 それが敗北に終わったのは、天皇によれば日本人の

 「教養未だ低く、且宗教心の足らない」

 ためであったからなのか、、、、

 ★すべてをアメリカに委ねたい

 47年5月3日新憲法が施行され、天皇は元首ではなくなり、象徴としての

 地位が確定しました。

 会見では施行されたばかりの新憲法をめぐって、議論が交わされます。

 ●会談記録 日本占領3

 天皇はまずこう切り出しました。

 【日本が完全に軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に

  期待せねばなりませぬ。

  しかし国連が極東委員会のごときものであることは、困ると思います】

 四大国が拒否権をもっている極東委員会を引き合いに出して、国連に期待

 できない旨を強調して、マッカーサーに意見を求めた。

 

 【日本が完全に軍備を持たないことが、日本のためには最大の安全保障であり

  これこそが日本が生きる唯一の道である。】

 と九条の精神を天皇に説いたのです。

 そして天皇は

 【日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である

  米国がそのイニシアブを執ることを要するのでありまして、このため

  元帥のご支援を期待しております】

 

 と事実上アメリカの軍事力による、日本の安全保障を求めました。

 この議論は天皇が象徴としての、政治的行為を禁じられた新憲法の

 施行からわずか3日目に交わされているのです。

 天皇とマッカーサーの会見は、50年4月の第10回目が最後です。

 マッカーサーはこの後、朝鮮戦争の指揮にあたり多忙を極める。

 マッカーサーを引き継いだのは、リッジウェイという米国の陸軍軍人

 彼は1951年4月から1952年4月まで、第二代連合国軍最高司令官として

 日本の占領統治にあたりました。

 彼は朝鮮戦争で、窮地に陥った国連軍を救い出したことで有名です。

 ★二重外交の果て

 講和条約と安保条約をめぐり天皇外交ともいうべき、天皇の政治的

 行為をみてきました。

 公的な外交主体であるのが、吉田外交です。

 あの当時、日本は二重外交をしていたのです。

 公的な外交である吉田外交は、天皇外交によって封じ込められてしまった

 というのが事実です。

 マッカーサーが解任されて5か月後、1951年9月8日

 日本はサンフランシスコ講和条約と日米安保条約に調印しました。

 講和条約はサンフランシスコの豪華なオペラハウスで、安保条約は

 サンフランシスコ郊外の米国陸軍の基地の中で

 米国側は4人 アチソン、ダレス、ワイリー、ブリッジス

 日本側は吉田首相ただひとり

 

 なぜこうなったのか、こういうアンバランスなことは普通外交の

 世界では起こりません。

 でも、二重外交で吉田外交が封じ込められたとしたら、、、

 吉田は天皇の命令をたったひとりで背負ってこの安保条約調印に

 臨まなければならなかったとしたら、、、、

 こういうことも起こり得るでしょう。

 安保条約とは、交渉の最高責任者が署名を固辞し続ける中で

 ダレスと天皇の圧力によって締結に至ったのです。

 交渉の最高責任者とは吉田首相です。

 吉田は国を売る真似はできないとして、安保条約に署名することは

 できないとして固辞し続けた。

 もし吉田がそのような条約に署名していたら、袋叩きにあうだけでなく

 命もなかったでしょう、、、、

 

 豊下楢彦著安保条約の成立


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


まあ、天皇家の「日本人売却」の完成が「日米安保条約」です。

今でも日本人は、アメリカの奴隷で天皇家の家畜です。


天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?