空気を読む~自分の考えも道理も信念も論理も無い。
より
上記文抜粋
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新しい領解文をめぐる騒動は、戦時下へと向かう日本の縮図である
今日(4/18)の東本願寺の南枝さんの法話は、本当に良かった。
宗教、仏教、浄土真宗、聖なるあり方から世俗を冷静に捉えて、善き、清らかな流れに変えるために、私たち宗教者はどうあるべきかを述べられていた。
社会の流れや時代の流れ、あるいは、国家権力、イデオロギーと、世俗のありようの顔色をいちいちうかがい、日和見的に迎合して、都合よく教義を変えられてはたまらないものになる。
明治から昭和、特に戦争が終わるまでの、聖なるありようからは程遠い、愚劣なありように墜ちてしまっていたことへの反省はいったい何だったのか、、このままでは、また同じ過ちを繰り返すことになりかねない。
今回の新しい領解文をめぐる騒動は、まさに一昔前の戦時下へと向かう日本の縮図のような様相を呈している。
全くの対岸の火事ではない。日本全体もまた同じように戦争への道を歩みかねない恐れがあるということを暗示しているように思えるのである。
気がつけば始まって、爆弾が落ちてきたでは、もう間に合わない。無関心では済まされない問題が孕んでいると考えています。
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浄土真宗における信心は、阿弥陀如来の往相・還相二種回向の本願への信心であり、二種回向を純粋に頂けたかどうか、心底より疑いのない本願を頂けたかどうか、本願で満ち溢れて余分が一切もないかどうかということが重要になると考えております。
そのように本願へと信心を向けて下さるのが、何よりも阿弥陀如来の方便法身としての「名号」(の真実功徳のはたらき)となるわけです。
もちろん、阿弥陀如来の二種法身、特に方便法身のはたらきは、報身仏、釈尊からも、阿弥陀如来の二種法身からの「名号」を私たちに向けて下さるものとしてもあるわけですが、凡夫では、報身仏との見仏は不可であり、また、釈尊応身による示現は、釈尊入滅以降においては不可であるなど、そのはたらきの示現をめぐる判断は難しいものであり、それ以外でも仏典、付随する論書等においても、方便法身のはたらきの示現として認める範囲を限定しないと、ある意味において、娑婆の森羅万象ことごとくの全てがその示現であるとも言えなくはないのであります。
この点からも、親鸞聖人が、その示現を「名号」(一つに集約させて、と表現するのがよいのかどうかは別検討)として「称名」を正行業とし、「称名」以外を厳しく排されたことは、非常に重要な視座であったのではないだろうかと思うのであります。
そうでなければ、無際限に何でもかんでもを「方便法身のはたらき」としてしまっては、全ての行いは他力となる行いとして認められうるようなモラルハザードを生じさせかねないからであります。
要は、何でもかんでもが「弘願の他力」、「報恩の他力」として認められてしまいかねないということであります。
今日的に問題となっている「新しい領解文」においては、信前、信後を問わずに念仏者の生活のあり方として、自力的な行い、要は、雑善、雑修、雑行となるような行いを敢行推奨することが、認められるのか、どうなのか、というところに本覚思想の問題とは別に疑義を持っているため、それを問うための歌を慶讃法要の初日において掲げさせて頂いた(抗議文ではない)わけですが、この点で、それらを「弘願の他力」、「報恩の他力」として認めうるのかどうかということの返答を頂ければ、一番に有り難いことであると考えており、しかし、「弘願の他力」、「報恩の他力」の範囲は、当然にある程度限定していかないと、結局は何でもありとなりかねない、要は、それらの行いは「名号」、「称名」への入り口だと言えば、無際限に一切の行いをそう捉えることもできなくはないということであります。
つまり、「宿善の他力」ということと同意的に、信心へと向けた一切の行いは他力として、全ての行いをそのようにしてしまうこともできなくはないということになりかねないわけです。
先に少し述べてあるように、何でもかんでもがそのように認められてしまっては、戦時下において、戦争に協力、助長したように、戦争における行為、特に殺人も「弘願の他力」、「報恩の他力」であるからとして認められてしまいかねないということであります。
このような懸念から、門外漢、部外者、身分不相応ながらにも危惧を持っているわけです。
特に今回の「新しい領解文」に基づいた教義の強制的な変更(その制定過程の強引さ)、唱和の強制、法話の強制、伝導の強制・・と、まさにどこか戦時下を思わせるような状態であり、異常なわけであります。
「新しい領解文」への見解を聞かれたことから始まったわけですが、上記のような懸念から、従来の浄土真宗についての考究と併せて色々と述べさせて頂いてきたわけでございます。ご寛恕賜りたくに存じます。
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抜粋終わり
同感だ。
でもそのような「流れに従う」しかないのは、「空気を読む」しか、脳がないからだよね。
ちょうどこれも思い出した。
上記文抜粋
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定型発達とは、極論をしてしまうと集団の中央値に合わせて空気を読み、他者から「いいね」と評価されることをよすがに生きていく人たちです。ですから時には世界のほうが激しく変動してしまったことで、置いてけぼりになってしまうこともある。本当は時代によっても集団によっても中央値は異なるんだけれども、あまりにもひとつの会社、ひとつの時代の価値観にぴったりくっついて生きてきて、その時代の最中であれば模範中の模範であっても、世界の側から引き剥がされてしまった定型発達の人もいるだろう、と。
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抜粋終わり
で、「集団の中央地」「他者から「いいね」と評価される」ことが、長期的に正しく安心か?ってそうでは無いし。
ましてや「ナチドイツ」「カルト天皇の戦前戦中」など、天皇・国家自体が誤って社会が発狂していたその発狂の「中心地」「発狂した人からの「いいね」」が、安心で正しいはずもない。
より
上記文抜粋
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酷すぎて草生えてもすぐ枯れて不毛の地だな。
仏教でたとえるなら[適切なたとえかわからないけど]アーナンダ無視レベル?
「所謂シーア派・ムウタジィラ派・ムルジィエ派・アシュアリィー派神学の太祖と言われており、現代シーア・現代スンナ派神学を辿っていくと必ず行き立つ源流で」なら、龍樹を最初に想起した。
龍樹は「八宗の祖」と言われている。大乗仏教を学ぶなら龍樹は必須。解説付きのを読むしかないのだが難しいんだよな。
私も読んだけど難解だった。
なお、龍樹を無視したら大乗仏教の基礎を学んだことにならない。
菊池
@kikuchi_8
八宗の祖たる龍樹尊者の哲学を軽視するのは大乗仏教からの逸脱ではなかろうか。道元禅師は龍樹尊者から大きく影響を受けられ尊敬しておられたようだ。また実体視されかねない「大日如来」を本尊とする真言宗に排他独善的傾向が少ないのは、顕教である空の思想を十分に重んじるからではないであろうか。
午前2:50 · 2012年8月25日
https://twitter.com/kikuchi_8/status/770392583306551297 と続き
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kikuchi_8
さん
西洋哲学が実際には「キリスト教哲学」なのに「キリスト教」を冠して呼ばれないのはキリスト教的思考が無条件に「普遍的」だと刷り込まれているからだろう。西洋哲学には特殊な傾向的前提がある。キリスト教的思考を相対化する為に中観・唯識など「仏教哲学」を敢えて対置し活用するのもよいと考える。
午前7:47 · 2016年8月30日
江戸期日本人の哲学的思考に影響を与え鍛えたのは世界を「気と理」で説明する宋明理学(周濂渓~張横渠~程明道・程伊川兄弟~朱熹~王陽明と続く支那の宋代明代の思想学問の流れ、つまり朱子学・陽明学)だが、これは世界を「事と理」で説明する唯識や華厳が元型なので結局仏教哲学に帰するのである。
午前7:57 · 2016年8月30日
西洋人の哲学的思考の元祖がソクラテスだとしたら、東洋人の哲学的思考の元祖は龍樹だと考える。龍樹は我が国でも古くから「八宗の祖」と呼ばれ尊敬されてきた歴史がある。西洋人が哲学的思考をソクラテスに学ぶように、日本人として哲学的思考を鍛える場合龍樹を参考にするのもいいのではと考える。
午前7:58 · 2016年8月30日
・・・・・・・・中略・・・・・
なぜ日本人が「哲学」する場合、真っ先にソクラテスやプラトン、カントを引用しなくてはならないのか?という疑問である。こういう思考習慣から結局精神的に西洋の思考に支配されてしまっているのではないだろうか。哲学的論理的思考をする場合、日本人に根付いた知的遺産を活用すべきだと考えている。
午前8:01 · 2016年8月30日
と言う訳で、西洋人がソクラテスを見る様に龍樹を見、プラトンを見る様に世親(唯識の大成者)を見る事も可能である。個人的にはそういう感覚である。神道は元来言上げ自体を好まないし、孔孟や老荘も立派な思想だが哲学的思考としては鋭利さに欠ける。哲学的思考の場合はどうしても中観・唯識に偏る。
午前8:02 · 2016年8月30日
以上が吾人が中観や唯識の哲学を多用する理由である。いぶかしく思われる方もおられるかもしれないので説明させて頂いた次第である。要するに西洋人や明治以降の我が国の西洋かぶれが「哲学」と言えばプラトンやカントを持ち出すのと同じである。仏教は日本に根付いた伝統なのでそこから借りるのだ。
午前8:06 · 2016年8月30日
中観・唯識は認識論等として見ると小難しく見えるが、要点は単純である。中観の要点は「言葉=概念が煩悩と業(行為とその影響力)の原因となるから言葉=概念に気をつけよ」である。人間は言語で識別した対象に執着を起こす。逆に言葉に囚われ無くなれば執着が消える、というのが中観の基本的考えだ。
午前1:37 · 2016年8月31日
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抜粋終わり
中観と唯識で、まともに「天皇」をぶっ叩いたら後かとも消えてなくなるだろうね・・・天海など「天皇など伊勢で神官しとったらいいねん」だもんな。
さらに抜粋
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自立・従属という話はまず奴婢解放して、大王家とその物語を始末と整理してからできること
従属決めているのは王侯貴族であって、奴婢であるうちらには何も関係がない
だから、奴婢が政治としてできる行動は反乱・逃散のどちらかでしかない
チベットは中共によって解放されたが東チベットは95%が奴婢
午後6:53 · 2023年4月13日
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その奴婢が親の虐待で処分されたり
奴婢調教施設内私刑で処分されたり
奴婢頭になれないからと処分したり
貴族王侯階級の暮らしの為に奴婢を捧げたり
奴婢を使って実験したり
奴婢の猫の額ほどの富を奪ったり
奴婢が減れば、外から奴隷を持ってきたり
奴婢との約束も破って平然としている
畜生だねー
午後7:03 · 2023年4月13日
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いつになったら、ホモイ・マラを殺すか
それとも追放するか、それとも自分が逃げるかしかないの
政治やそれら周辺を知ることは大事だけど、結果としてはいかに保身するかだけ
アンタらが思想やイデオロギーと名付けられているものの正名は「奴婢道徳」って言うんだよ
いい加減、破断して人になれよ
午後7:09 · 2023年4月13日
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抜粋終わり
ホモイ・マラ~たぶんダライラマ~現人神~天皇
所詮、天皇在る限りに、日本人は奴隷・家畜で、浄土真宗ですら「天皇家の家畜です」って再宣言するだけのザマ
それがどうも「新しい領解文」てことなのでしょうかね。
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みに富む社会になりますように
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