能力主義 だけでは、能力を測れない・・。


子どもを勉強漬けにすることへの社会問題が取り上げられるものの、現実は出産前から取り組む親が増えたり、優秀な子どもの養子縁組の取り合いなどが過熱化します。

平等主義をモットーにする人民党が、このような民衆の声を後押しして、ストライキが本格化しました。これまで恩恵を受けてきた上層階級の地位がゆらぎ、社会は1960年のような混乱を再び経験することになります。




その変化の内実をなすのが、ペアレントクラシーへの移行だと表現することができる。フィリップ・ブラウンによれば、ペアレントクラシーは次のように定式化できる。
選択(Choice)=富(Wealth)+ 願望(Wishes)
21世紀を迎えた今日の先進諸国では、人々の人生は選択に基礎づけられたものとなっている。その選択に決定的な役割を有するのが、親(家庭)が所有している種々の「富」と、子どもの教育・人生に寄せる「願望」だというのである。
ペアレントクラシーには、理念としての側面と実態としての側面があることに注意されたい。「理念としての側面」とは、親の選択の自由を最大限に尊重しようとする政治的スタンスのことで、今日の新自由主義的教育改革の底流をなすものである。この側面が公教育の「解体」をもたらしつつあると見ることもできる。
他方、「実態としての側面」が、親ガチャという言葉で形容される、子ども・若者の間で見られる各種の「格差」の現状である。

筆者の考えるところ、ペアレントクラシーは、メリトクラシーの次に来る新たな時代というわけでもない。かつてヤングが警鐘を鳴らしたように、メリトクラシーの原理をつきつめるなら、その究極の形としてペアレントクラシーが立ち現れると考えた方が真実に近いように思われる。
「個人の能力と努力こそが大事だ」というメリトクラシーの理念は、近代社会を動かす機関車としての役割を果たしたと言っても過言ではない。ある時期たしかにメリトクラシーは、社会の進歩・発展のカギを握るものだとみなされていた。ただし、それはメリトクラシーが持つ光の部分である。
モノには必ず表と裏の両面がある。ヤングが強調したのは、メリトクラシーがもつ影の部分の方であった。すなわち、彼がその主著『メリトクラシー』(原著1958年)という未来小説で描いたのは、能力原理による階級対立が顕著になった分断国家の姿であった。
ヘタをすると、メリトクラシーの発展型としてのペアレントクラシーの社会は、かつての前近代社会のような、不平等と差別に満ちた社会に成り下がってしまうかもしれないのである。


にしても、「能力主義」は、次の「階層社会」の土台になることがある。

三国志の時代・・・「名士」と言われる人たちが多く出た。

この人らは、能力主義で這い上がったり、徳行を重ねて評価を上げてった。

で、その後に魏晋南北朝は、それでの格付けが決まって、「貴族制」が生まれた。


そもそも「能力主義」って、人を見るのが難しいですよ。


能力の可否は、時代により変わるし、その人の志向・生き方・素質で、変ってくるて、魏の名士荀粲が指摘している。

https://ncode.syosetu.com/n6787ha/301/


功名とは、意志と時局とが推奨する所だ。
然らば則ち、意志と時局とは
一つの物事にすぎず、もとより
識見だけで遂げられるものではないのだ。

荀粲は、かなりの変人だが、妙にピュアなところがあって、それでは社会・特に陰でエゲツナイ駆け引きが行きかう高官や官僚の社会で生きれないって感じていたのだろうけど。


ともわれ「能力」をやたら「一つ」の秤でみたがるのが、日本らしい。

ハイパーメルトクラシー


でも、そんなの無理だは・・・



五強{五つの必要条件}
1・高節であること。そうであってこそ部下の奮起を促することができる。
2・孝悌であること。そうであってこそ名を挙げることができる。
3・信義を重んじること。そうであってこそ友人と交わることができる。
4・深慮であること。そうであってこそ包容力を身につけることができる。
5・全力で傾注すること。そうであってこそ軍功をたてることができる。

八悪{八つの欠陥条項}
1・謀に欠ける。したかがって是非の判断を下すことができない。
2・礼に欠ける。したがって有能な人材を登用することができない。
3・政治能力に欠ける。したがって法を適切に執行することができない。
4・経済力はあっても貧民を救済しようとしない。
5・智慧に欠ける。したがって未知の事態に備えることができない。
6・思慮に欠ける。したがって極秘条項が外に漏れるのを防ぐことができない。
7・栄達しても、旧知の人を推薦しようとしない。
8・敗戦したとき、国民の非難にさらされる。



{知人性}
人物鑑定法
なにがむつかしいといって、人間を見分けるよりもむつかしいことはない。なんとなれば、善人がかならずしも善人らしい容貌をしているともかぎらないし、悪人がかならずしも悪人らしい容貌をしているとはかぎらないのだ。
 なかには、いかにも温和な顔つきをしているのに、かげにまわって人をだます者がいる。表面ではうやうやしい態度をとってはいるが、心のなかでは相手をなめている者もいる。人前では勇ましい言辞を弄するが、心のなかではびくついている者もいる。また一見、一所懸命つとめているように見えるが、不純な動機をかくしている者もいる。それを見分けるのは、容易でない。
 だが、人間を見分ける方法がないわけがないでもない。一応、つぎの七項目をチェック・ポイントとしてあげることができる。
ある事柄について善悪の判断を求め、相手の志がどこにあるかを判断する。
ことばでやりこめてみて、相手の態度がどう変化するかを観察する。
計略について意見を求め、それによって、どの程度の知識をもっているか観察する。
困難な事態に対処させてみて、相手の勇気を観察する。
酒に酔わせてみて、その本性を観察する。
利益でさそってみて、どの程度清廉であるかを観察する。
仕事をやらせてみて、命じたとおりやりとげるかどうかによって信頼度を観察する。


普通に考えれば、人を知るということは経験の必要なことである。人をよく推薦することで知られた人物には、正史の『三国志』では荀彧、『晋書』では竹林の七賢で山公の啓示として知られる山濤らがいる。しかし、この場合も、推薦するのはほとんどが自分より年下の後進たちである。言うなれば、弟子的存在を見い出して育て推薦するわけである。
 ところが鄧禹は二十歳そこそこに過ぎない。彼より年下を推薦するなどほとんど不可能である。しかも彼が選んだ人物はいずれも旧知ではなく、知り合って間もない人物である。
 想像して欲しい。不況に苦しむ日本に、大学を卒業したばかりの若者が突如として総理大臣となり、さらに面識もなかった人物を大臣に次々と抜擢して、それがすべて適切な人材であったなどということが有り得るものかどうか。
 ここに鄧禹の異例さがある。
 寇恂伝を読んでみよう。
「肉や酒を奉じて飲み交わした(奉牛酒共交歓)。」とある。
 どうやら酒を飲ませ、語り合う中で人物を見たようである。呉漢も賈復も会話することにより、その言葉の中からその能力を読み取ったのである。
 言葉を交わすことで、その能力を読み取る、この能力はどこから来たのであろうか。
 そのヒントは、鄧禹は『詩経』をほとんど暗記していたということである。
 さて、いったい詩とは何か。
 『詩経』の大序にいう、
「詩とは人の心が表に出てきたものである。人の心にあるのが志で、これが言葉となって詩となるのである」
 すなわち、詩が言葉として現れるのは、抑え切れぬ慷慨があり、体の外にあふれ出すのである。詩を学ぶとは、心の奥底を言葉により知るということでもあるのだ。
 このことは『春秋左氏伝』を読めば実例を挙げることができる。大臣たちが詩を送りあったとき、その詩の内容により、その人物の行く末を予言することができたのである。だからこそ『詩経』は儒教の経典でもあるのだ。
 詩を知り心を知る鄧禹だからこそ、かくも人を見抜くことができたのであろう。

潤滑油のような人物
 かつて鄧禹が司徒に任命されたとき、彼は孔子の若き秀才顔回と比較された。その顔回もまた何がすごいのかはっきりしない人物である。
 子貢の弁舌や子路の武勇のようなエピソードはないし、そもそも発言そのものが多くない。しかし孔子が弟子であるにもかかわらず顔回を尊敬していたのははっきりしている。顔回は不思議な人物で、ただ彼がいるだけで弟子達は仲良くなったという。顔回と鄧禹には明確な共通点があると考えてよいだろう。
 このことは後の時代も広く知られていた。
 唐の太宗は部下の房玄齢についてこのように述べている。
「漢の光武帝は鄧禹を得て部下の結束が固くなった。今、私に玄齢がいるのは禹のようなものである」
 と。房玄齢は敵国を攻略するたびに、降服した人たちの中から有能な人材を抜擢して唐の太宗に推薦したとされる。顔回、鄧禹、房玄齢は同じような人間なのである。
 社会心理学の話をしよう。人をよく惹きつける魅力は、「聞き上手」にあると言われる。また、人の憎しみを買わないのは、望むものが他人と違い、決して争わないことにある。
 鄧禹は、軍が敗れたとき、司徒から右将軍へと官位が下がった。しかしそれを決して恨むことはなかった。世の人が望むような出世は、鄧禹の願望ではなかったのである。それを万人が知るからこそ、鄧禹は顔回のごとく親しまれたのであろう。
 そして、おそらく鄧禹は「聞き上手」であった。だからこそ会話の中でその人を知る言葉を引き出すことができたのである。

にしても

ここまで書いてみたが、実は鄧禹の最大の功績については触れていなかった。それは鄧禹が見い出して推薦した最高の人物のことである。鄧禹がわずか十三歳の少年のときに、誰よりもいち早くその異才に気づき友人となった人物、すなわち、光武帝こと劉秀、その人である。
「官につくなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」
 格好いい仕事について美人の妻を持つ。楽しむことをモットーとする、悪く言えば軽薄で政治思想もない若き劉秀。
 家では農耕に励み、作物を時期を選んで売ってはもうけ、学生時代は運送業を営み、あるいは親戚の税金を下げる交渉をするなど、もっぱら金儲けの好きな商売人気質。大志よりお金──これが当時の劉秀の姿であった。
 この中国史上の異色の英雄である劉秀を、天下に皇帝として推薦したこと、これこそまさしく鄧禹のなした最大の功績なのである。

これって面白いよね。



まあ、戯言をなんか書きました・・・。

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