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そりゃ、滅びますは・・・・

【アメリカ崩壊】2面戦争の失敗で”ドルの終焉”が目前に迫る「アメリカと共に沈む日本」(山中泉×石田和靖)

壊れるアメリカ。

最初から壊れている天皇と日本。


より

上記文抜粋
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悪い臭いーー米国の駒への道


だな。


悪い臭いを嗅がないとな。

以下はこの2年半繰り返してきたことだが。


◼️国民集団としての日本人の弱点ーーおみこしの熱狂と無責任
国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」初出2005年『樹をみつめて』所収)


……ある旧高官から非常に面白い比喩をきかされたことがあります。それは今度の戦争というのは‥お祭りの御輿の事故みたいなものだということです。始めはあるグループの人が御輿をワッショイワッショイといって担いで行ったが、ある所まで行くと疲れて御輿をおろしてしまった。ところが途中で放り出してもおけないので、また新たに御輿を担ぐものが出て来た。ところがこれ又、次のところまで来て疲れて下ろした。こういう風に次から次と担ぎ手が変り、とうとう最後に谷底に落ちてしまった、というのです。…結局始めから終りまで一貫して俺がやったという者がどこにも出て来ないことになる。つまり日本のファシズムにはナチのようにそれを担う明確な政治的主体-ファシズム政党-というものがなかった。しかもやったことは国内的にも国際的にもまさにファッショであった。主体が曖昧で行動だけが残っているという奇妙な事態、これが支配層の責任意識の欠如として現われ
ている。(丸山真男「戦争責任について」1956.11)

◼️大破局は目に見えない農耕社会民

農耕社会の強迫症親和性〔・・・〕彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)

◼️ムラ社会

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)

◼️ヒトラーが羨望した日本のファシズム

事実上は「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人『批評とポスト・モダン』1985年)

思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統御するような権力が成立したことがなかった。それは、明治以後のドイツ化においても実は成立しなかった。戦争期のファシズムにおいてさえ、実際は、ドイツのヒットラーはいうまでもなく、今日のフランスでもミッテラン大統領がもつほどの集権的な権力が成立しなかったし、実はその必要もなかったのである。それは、ここでは、国家と社会の区別が厳密に存在しないということである。逆にいえば、社会に対するものとしての国家も、国家に対するものとしての社会も存在しない。ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 年『ヒューモアとしての唯物論』所収)

で、これらの日本文化論から次のような懸念が生まれる。

◾️Michael Hudson on the US Economy – Surprisingly Resilient or Potemkin Village?

07.06.2023

ーーバイデン政権に、 脱ドル化のプロセスを止めるための、直接的な軍事介入以外の手段はありますか?
Dimitri Simes Jr. : Does the Biden administration really have any instruments at its disposal other than direct military intervention to try and stop the process of de-dollarization?
マイケル・ハドソン)いいえ、 今のアメリカには軍事介入しかありません。硬直しています。アメリカは長年、 核兵器に多大な投資をしてきたため、 徴兵制を復活させ、 武装した軍隊を他国に侵攻させることはできません。 ベトナム戦争の時のように、学生の抗議が起きるからです。2015年の米国支援のクーデター後にウクライナ人がやってきているような自殺行為の戦争を、 他の国にもやらせることができない限り、 米国が本当に軍事的に戦うことができるのは核兵器だけなのです。しかし、他の国をウクライナのようなことをやらせるのは難しそうだ。 台湾人がそんなことをやりそうにない。 日本人だけがやる可能性がある。
Michael Hudson : No, that’s all that America has now. It’s muscle-bound because for years America has put all of its money into atomic war. So America can’t reintroduce a draft and have an army invading another country because you’d have student protests like you had in the Vietnam War. So all that America really has to fight with militarily is atom bombs. Unless it can get other countries to commit suicide, like the Ukrainians are doing after the American coup d’etat of 2015. But it looks like it’s going to have difficulty having other countries follow Ukraine. And I don’t see the Taiwanese doing this, only the Japanese might be willing to do this.


……………

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・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

そりゃ「トップが絶対に責任を取らない」ので、社会全体が「無責任」「無思慮」になります。


上記文抜粋
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★モーリス パンゲ 自死の日本史

 阿南惟幾の死を美しく描いています。

 「こうして阿南という一人の人間において、大日本帝国陸軍は死んだ。

  敗戦によっておのが過ちとおごりに気づいて、、、、

  ヒトラーと阿南いづれに高貴があるかは、言うまでもあるまい。

  高貴とは責任を逃れぬ者にある。

  高貴は、おのが引き受けるべき重荷を、重すぎるとは決して

  言わない者にある。

  オイディプスもまた、おのが意志をもって、おのれを撃ち

  おのが平和と民のために、おのが罪を承認する。

  移ろいやすい勝利のかなたにある平和、それが戦士たる者の夢であり

  その平和のためにこそ彼は戦う。

  彼が平和を見出すのは、死ぬことによってだ」

 モーリス パンゲのように阿南を賞賛する日本の史家は一人もいない。

 なぜなら阿南を誉めれば、天皇の権威に傷がつくと思っているから。

・・・・・・中略・・・・・

しかし、天皇も皇族も誰一人自決していません。

モーリス パンゲのように、敗戦によっておのが過ちとおごりに

気づいた者はいません。

いたかもしれないが、責任はとっていません。

高貴とは責任を逃れぬ者にある、高貴とはおのが引き受けるべき

重荷を決して重すぎるとは言わぬ者にある。

責任をとったのは、陸軍大臣、中佐、少佐などの階級の人ばかり。

政治家もそうですね、責任を取るのは秘書などの使われている者ばかり。

一番の長は責任をとらない、、、、

一番の長が責任をとらないことによって、その後の日本が歪んで行くんです。

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・・・・・・・・・・
抜粋終わり


より

上記文抜粋
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 しかし最後には、連合国司令官マッカーサーにゆだねられ

 オーストラリアも巧みに米国に誘導され、その後の結果になりました。

 最高司令官天皇は責任をアメリカによって免除され、その責任は

 東条英機らA級戦犯が負ったのです。

 米国には、下心があり今のような立場の日本になったというわけです。

 A級戦犯は日本国首脳にとっては、英霊なのです。

 占領軍が未だに撤退せず、居続けるのもアメリカによって救われた

 天皇あればこそです。

 不思議でもなんでもありません。

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・・・・・・・・・
抜粋終わり


より

上記文抜粋
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 近衛文麿は、44年7月の重臣会議で、国体護持のためには

 戦争を1日も早く集結せねばならぬと説いている。

 米内光政も、皇室の擁護ができさえすればよい、、、と語った。

 つまり重臣たちは、国体護持、天皇制支配機構を温存するために

 戦争を終結させたいと考えたのです。

 降伏はそういうことに基づいて実行されたのであって

 国民を戦災から救うためになされたものではありません。

 

 怨嗟の声で、民衆の間に潜在的に流れていた反戦意識は

 戦局の悪化、国民生活の破壊の進行にともなって

 しだいに強くなり全国的に広まっていったのです。

 そして,早く降伏しろ、、、といった国民の訴えが多く

 このまま負け戦争を続けていては、天皇への恨みの声も増し

 皇室を恨む意識が強くなり、支配階級もこのまま戦争を続けていれば

 国体護持が困難になると判断したから、ポツダム宣言を受諾したのです。

 
・・・・・・・中略・・・・

裕仁理論=終戦の詔書によれば、アジア諸国に対する侵略も

 防衛戦争の一環となる。
 裕仁はこの理論を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶第爆撃
 朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。

 そのような防衛戦争、つまり「正義の戦争」も敵は新たな残虐なる

 爆弾を使用して、「無辜を殺傷す」としいうわけで、終戦せざるを得なくなる。

 この部分は、裕仁の昭和天皇独白録で

 【ソビエトはすでに満州で火ぶたを切った。

  これではどうしても、ポツダム宣言を受諾せねばならぬ】

 と本音を言っていることと完全に矛盾する。

 歴史的事実として、裕仁がポツダム宣言を受諾したのは、ソ連参戦によって
 ソ連の発言権が強まれば、国体、天皇制が危うくなるからである。

 原爆を投下された8月6日や8月9日は裕仁は

 【なるべく早く講和を】

  と言っている。

 それがソ連参戦で、即時御前会議が開かれるのだ。

 というわけで正義の戦争は、終戦となる。

 では、戦死者、戦災者の遺族はどうなるのか。

 それを思うと朕は、【五内為に裂く】とオーバーなことを言う。

 が、時運おもむくところ、

 【堪えがたきを堪え、忍び難きを忍び】と言うのだ。

 五内為に裂く、、、と言っているが、その内容は被爆者援護法や
 空襲の補償はしないぞ、、、、ということであろう。

 そして終戦の詔書の一番肝心な

 【朕はここに国体を護持し得て、】

 という天皇制継続宣言になるのだ。

 こんな詭弁、嘘八百、すり替えに満ちた文章は、世界史の中にも

 そうざらにはないだろう。

 しかもこの理不尽な裕仁理論は、今もハツラツと生きている。】

 この終戦の詔書は、敗北宣言ではなく、国体護持宣言です。

 この終戦の詔書は、8月15日正午、玉音放送として

 大日本帝国臣民の耳に届いた。

 しかしその全文が問題化されることはなく、ただ

 堪えがたきを堪え、忍び難きを忍び、、の部分だけが

 毎年反復されるようになったのです。

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・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


より

上記文抜粋
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つまり、「戦後民主主義」、あるいは「焼け跡民主主義」が結局、虚妄になってしまったとしたら、それは、昭和天皇を国民(=主権者)の力で退位させられなかったこと。つまり、人民主権(popular sovereignty)を実感できなかったことの挫折感、に尽きます。

・・・・・・中略・・・

冨永 望『昭和天皇退位論のゆくえ』2014年6月吉川弘文館(歴史文化ライブラリー379)pp.37-8
・裕仁帝退位→皇太子即位+高松宮摂政(皇族賛成)
・三笠宮の枢密院本会議での発言〈現在天皇の問題について、また皇族の問題について、種々の論議が行われている。今にして政府が断然たる処置を執られなければ悔いを後に残す虞ありと思う。旧来の考えに支配されて不徹底な措置をとる事は極めて不幸である(芦田均日記昭和21年2月25日)〉
後者の三笠宮の発言を本会議場で聞いた昭和天皇は顔面蒼白だったようです。

昭和天皇は、とにかく戦犯として訴追され、裁判に引っ張り出されること(死刑判決?)を非常に恐れていたようです。そのため、会談でマッカーサーに自分を売り込んだ。マッカーサーは、それなら間接統治上、メリットがある、と判断して、米本国政府を説得し、免訴を勝ち取った。それでも、皇族からでさえ、退位論が出てくることを抑えることができなかった。自己弁明としては、「自分が退位するのは簡単だ。それでは責任をとったことにならない。いまのこの地位にいて日本のために尽くし、責任を全うしたい。」という理屈でした。
しかし、これを認めちゃったら、どんな組織のトップでも、責任をとらなくていいことになっちゃう。

サッカーワールドカップで、日本代表チームがグループ予選リーグで敗退して、代表監督がその敗戦の記者会見で、「責任を取って監督を続け、次のWCまでにチームを強くしたい。」なんて言ったら、誰も許しませんよね。その敗戦を弁護する人だって、辞めずに続けさせろ、なんて口が裂けても言えません。

昭和天皇のそんな曲芸のような論理がまかり通ったのは、当時の事実上の主権者マッカーサーの容喙、つまり、裕仁帝が "MacArthur's pet"として《身売り》したこと、旧帝国のパワーエリート大多数が保身でそれに乗ったこと、が大きかった。

それにしても、恩師である南原繁や、横田喜三郎という東大法学部のボスたちが退位論をブチ上げているのに、弟子筋の丸山眞男がその議論のアジテーターにならなかったのは、今考えると不思議な気がします。

世論調査でも、2割くらい退位支持者がいたのだから、議論を盛り上げれば、国民投票くらいまでは持ち込めた気がするのですけどね。

「焼け跡デモクラシー」が、竜頭蛇尾となってしまったのには、丸山眞男にも一分の責任はあるでしょう。

・・・・・・中略・・・・・・

「正当性」と「責任感」は、自他ともに認める尊厳、名誉、誇りから生まれるものでしょう。

あの「敗戦」を契機に、自力で裕仁帝を馘首し、明仁帝を誕生させることができていたら、自己効力感、自尊感情と責任感が生まれ、真の意味で、日本人を「国民 nation」にしていた可能性が高い、と思います。そしてこれが、近代国家における、統治の正当性の源泉です。

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・・・・・・・・・・
抜粋終わり

天皇とは・・・・誇りも無い。自尊心も無い。 自己効力感も無い。その象徴なのです。

いや、日本人から、誇り・自尊心・自己効力感を奪い続けるために、「天皇」が存在しているのです。

「天皇」を馘首して、日本人は、人間としての誇り・自尊心・自己効力感を取り戻すしか、日本人の生存の余地はあり得ません。

「天皇」を根絶やしにして 日本人と日本文明を救う

「天皇」の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。


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