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ちょっといい話・・・

より

上記文抜粋
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仏教という言葉

ところで、皆さん仏教という言葉はよく聞かれると思いますが、仏教という言葉は、実は古い言葉ではありません。明治二十年代頃、仏教をキリスト教、イスラム教など色々な宗教と並べて、はじめて仏教という言葉が現代のように使われるようになりました。当たり前の事ですが、これがなかなか理解するのが難しいのです。細かいことは、省きますが、仏教という漢字熟語は、仏と教に分解できます。そして仏は、お釈迦様ですね。さらに、教はその教えということですから「仏の教え」を仏教と表現するのは、当たり前のように理解出来ます。

ですが、これはキリスト教をモデルにして、教え、教祖、儀礼、教団を合わせて宗教と呼び、仏教もこの様な考えで捉えるようになりました。しかし、明治以前に日本の文化、特に今の仏教を語るときには、仏の法(ミノリ)や仏道(ブツドウ)と言われたのであり、仏法(教えを中心に)、仏道(各種の実践を含む)というのが主流でした。

というのも、仏教と言ってしまうと、その時点で、キリスト教をモデルとした宗教体系になってしまいます。そもそも仏教の教えとは、キリスト教におけるキリストのように、唯一の絶対の神の言葉(契約とも云える)を伝えるものではなく、どうすれば悟れるか、救われるかの体験記なのです。

ですから、仏の教えとは、釈尊をはじめ仏(現在のように、死者の隠語ではありません。理想を完成させた人のことです)になった人々の教え、つまり悟りへの体験記というわけです。ですから、実際に体験記通りに自らも行動を起こさないと仏道にはならないのです。しかし、キリスト教的な宗教を把握する意味としての仏教という言葉ですと、教えを信じるという点に重点が置かれてしまいます。

そのため、近代以降の仏教は、明治以前に仏法や仏道として捉えられていた感覚とづれてしまうのです。いずれにしても、仏法は仏の法、つまりその教えを仏道として実践することを教えるものです。そして仏道ですから、仏の教を実践するということが基本となります。特に、在家の人々は教えを生活の中で実践することこそが、仏教の基本であるということです。つまり、仏教の教えが社会に生かされていた世界への理解が、仏教と表現すると行の部分が抜けてしまうので不十分になります。

今普通に使われているその他の言葉でも、近代明治以降になって作ったものとか、意味を改めて使われるようになったものがたくさんあります。これを一般に翻訳語といいますが、言葉を換えると、内容の理解が変わってしまうのです。私たちの仏教に対する理解、意味するものは、ですから、その以前とは違ってしまっています。その典型が神と仏の関係です。

神と仏は一体

ところで、明治初年から十年くらいにかけて激しい廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という野蛮行為が行われました。実は、その後も仏教への一種の攻撃は続き、その結果廃仏から嫌仏(けんぶつ)という伝統が形成され、現代に至ると私は考えております。これは私見ですが。

いずれにしても、明治初頭に、神道国教化政策の一環として神仏分離令が発令されまして、仏教などというよそ者の宗教と、古来の神道と分けなさいとされたのです。そして、暴徒化した民衆がお寺を壊し仏像や経巻を焼き払いました。その結果、日本中で神仏分離が行われ、結果的に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。こちらの隣にも八幡神社がありますが、もともと一つだったものが、明治以降お寺と神社とは別々のものとされてしまったのです。

このお寺と神社が一揃いで存在するという形式は、奈良の東大寺に原型があります。少なくともそのモデルです。東大寺に行かれて、南大門を入り右に折れて進んでいくと手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)があります。そもそも八幡さんと東大寺は一セットだったのです。この形式が明治までの東大寺で、かつ日本の寺院と神社の標準的な関係でした。

何故、そうなったかというとそれは東大寺の大仏建立と深い関係があります。聖武天皇は、東大寺は國分寺の総本山であり、日本国の総国分寺、総鎮守東大寺に、大きな仏像を作りたかったのです。ですが、なかなか思うように進展しませんでした。鋳造金銅仏ですから高度の技術知識も必要です。当時の日本には、その技術がまだ無かった。

でも聖武天皇はどうしても作りたい。しかし技術的に行き詰まってしまった。そこに九州にある宇佐八幡の託宣を携えて巫女さんが、わざわざ輿に乗り奈良の東大寺にやってこられた。(*これが全国の神輿行列の先例といわれています。因みにインドでも古くから同じような祭りがあります)そして、全面協力を申し出てくださった。当時の宇佐は、大陸と交流があり、恐らく高度な鋳造技術を持った集団が一緒に来たのではないか、と推測されます。

いずれにしても、八幡神の協力があり、東大寺の大仏は完成します。以来、仏と神と一体となって、日本国を支えてくださることになります。この東大寺の造営形式が基準となり、全国の國分寺も、またその後他の寺院にも、神と仏が一緒になって、それぞれの地域を守るという、そういう伝統が形成されます。

・・・・・・中略・・・・・

為政者とは全体に奉仕する存在である

この教えを、とかく独善的となり、人の命を何とも思わないような専制君主、暴君になりがちな支配者の多い中で、自ら実践されたのがアショーカ王です。インドで紀元前三世紀、紀元前二百七十年頃から二百三十年頃活躍された王様ですが、このアショーカ王が聖武天皇のモデルだったのではないかと思います。

アショーカ王は、仏教の非殺生の教えにより軍隊を廃止して、失業した兵士たちに、道を作らせています。東海道五十三次のように、四キロを一里として、街道にマンゴーの木を植えて、マンゴーが実るとそれを売って、街道の維持のために使わせたのです。武器などはそれを鍬にして、農民のために使わせています。また病院を作ったりもしました。この様に民を富ませ、安楽にして、最後に自分が喜ぶという政策をとられたのです。

彼は大きな宮殿でふんぞり返っていたわけではなく、今のインド、パキスタン、バングラディシュにわたる、広大なインド亜大陸をほぼ統一し、各地を視察し、また役人を派遣して仏教的な統治、つまり平和の実現を通じて民衆の幸福を実現するという理想的政治の実践に努めました。その理想で、広大なインドを一つにし、争いのない国作りを実現しました。

この偉業は、それから千八百年後に、イスラム教のムガール帝国が成し遂げるまで、誰も成し遂げることの出来なかったことです。ただしムガール王朝は武力による征服と統治でした。ともあれ、アショーカ王という王様は、インドという国を最初に統一した大王ですが、武力に頼らず、大王でありながら最後に喜ぶというような政策を実行した王です。その証しともいえますが、彼は帝王とか皇帝という称号は用いず、「民衆に奉仕するもの」・「慈愛溢れるもの」という称号を用いました。

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抜粋終わり

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