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孟起は、幼くして信条を固め過ぎた。・・・・通俗道徳で「日本人」って家畜になりました。

上記文抜粋
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「僕はモラハラ夫」…本人が遂に悟るに至った経緯「よかれ」と思って妻にしたことは暴力だった(前編)


「モラハラ・DV加害者変容のための当事者団体代表/妻と穏やかな幸せを生きながら『人は学び変わると信じられる社会』を目指して活動」――SNSで、こんなプロフィールを掲げるアカウントを見かけました。

世間ではよく「モラハラ夫(妻)は変われない」などと言われます。変わることは、現実に可能なのか? もし本当に変われるのなら、パートナーや子どもたちにとって、どんなにいいかと思うのですが。

加害した本人にとっても大事なことでしょう。以前取材した男性は、妻に長年暴力をふるっていましたが、心の奥では「ずっと誰かに止めてほしかった」と話していました。妻子が家を出ていった際は「これでやっとやめられる」と、安堵する気持ちも大きかったといいます。

99%離婚 モラハラ夫は変わるのか』(漫画/瀧たまこ、KADOKAWA)。これは、加害者変容のための当事者団体「GADHA(ガドハ)」代表、中川瑛さんが原作を書いたコミックです。中川さんはこれまでにどんな経験をしてきたのか? 団体では何が行われているのか。そして、加害者は本当に変わることができるのか。聞かせてもらいました。


妻のことが好きで大切なのに傷つけてしまう

――『99%離婚』では、会社員の夫が専業主婦の妻にモラハラを続け、妻は子どもを連れて家を出ていってしまいます。中川さんご自身の経験ですか?

いえ、うちには子どもがいませんし、僕は会社員でもありません。原作のストーリーは、いろんな方々のケースを統合してつくりました。ただし、加害のパターンは完全にかぶっていて、僕自身も主人公と同じようなことをしていました。

――ご自身は、どんな経験をされたのでしょう。

結婚したのが7年前です。最初はよかったのですが、だんだんとストレスがあるときお酒を飲むことで自分の傷つきやしんどさをケアするようになり、酔って妻に暴言を吐くようになりました。妻が喋りたくなさそうにしていると、「なんでそんな態度なのか」と絡んだりして。

自分でアルコール依存のことを調べだしたのが、4年前です。でも、なかなかやめられなかったんですね。「お酒を飲まないようにしよう」と思っても、コンビニに行くと、店内をぐるぐると徘徊する怪しい男になってしまう。

「これを買えば、また暴力を振るってしまうかもしれない。でも飲みたい、苦しい。生きるのが恥ずかしい、死にたい」と思う。その葛藤に負けて帰ってくると、惨めなんです。「ああ、また俺はこうやって愚かにもアルコールを摂取してしまうのか」と。

そうすると、妻の目線が怖くなるんです。「またきっと傷つけてしまったんだろう、自分のことを愛していないと思っているんだろう。妻のことが好きで大切なのに、それでも飲んでしまう自分は、なんて弱い人間なんだろう」と思って、またお酒を飲んでしまう。

もしかしたら関わり方が間違っているのかもしれない

――そこからどうやって変わったんですか?

3年前の暮れに、大きな気付きがありました。その頃、僕は熱心に妻を「応援」していたんです。妻は学校の先生でしたが、クリエイティブな領域ですごい才能があって、でも本人はそれを大したことだと思っていない。僕はもともと事業開発などの仕事をしていたので、もっとその才能が活きる仕事をしたらいいのにと思い、勝手にサイトを立ち上げたり、SNSのアカウントを作ったりして、マーケティング支援をしていました。

結果も出るようになり、だんだん納期など勝手に設定するわけです。「いつまでに何個の○○を用意してほしい」「いつまでに次のアイデアを出して」とか。でも妻はもともとそれを生業にする気もなく、好きなわけでもない。僕だけが「ステージママ」のように勝手に盛り上がり、「なんでこれまだ終わっていないの?」「ご飯とか作ってる暇があるなら、こっちをやってほしい」と、彼女を追い詰めることが増えていきました。

自分は「よかれ」と思って、相手が望んでもいないことを、無理やりやらせていたわけです。そのうち妻が泣いたりふさぎ込んだりすることが増えて、それでまた喧嘩になって、彼女を傷つけてしまう。
妻とクリスマスディナーを予定していた前日にも、同じような喧嘩が起きてしまって。そのときに「この人のことをすごく好きで大切にしているつもりなのに、泣かせたりふさぎこませたりしてしまうのは、僕が“間違った関わり方”をしているのかもしれない」と、ふと思ったんです。
それまでは「この人が怠惰だから、こうなってしまう」と思っていたんですが、そうではなくて「もしかすると自分がよかれと思ってやっていることが、この人にとってよくないのかもしれない」と気付いた。その辺りから、僕のなかで「加害者変容」がガッと始まった感じです。

――こちらは「よかれ」と思ってやったのに、なぜ喜ばない? と思ってしまうこと、私もあります。でも、それが相手にとっては加害行為なのですね。

そうですね、かなり普遍的な「暴力」だと思います。自分が望む形に相手を変えようとする、期待と失望によるコントロールです。その人がそのままでいることを受け入れず、その人を「自分にとってよいもの」に変えようとするわけです。夫婦間に限らず、職場や子育て、友達関係においてもよくあると思います。傍から見ると必ずしも悪くないような加害行為もあるので、わかりづらいですよね。

「ケアの欠如」が暴力の本質

――それも「暴力」なのですね。

そうです、暴力というのは「ケアの欠如」なんだと思います。僕は変容プロセスのなかで、さまざまな領域の専門書を読んできて、そういうふうに考えました。

僕がやっていたことは、ケアの真逆です。その人が持っている感覚や感情、考え方、そこから生み出される言動を、全部否定していた。本人が「私はあまりやりたくない」「これを生業にしたいとは思っていない」と言うのに対して、「あなたは天才なのだからこれをやるべき。こんなに才能を信じてもらって支援をされることを、嬉しく思うべき」と言っていた。

でも、他の人に「このように感じるべき」なんていうのは、その人の一番根本的な部分を否定している。それって「大切にしている」なんて全く言えないですよね。否定することで傷つけているんだ、と気付いたときに、「そうか、これが加害なんだ」と思いました。本質的に「ケアの欠如は、すべて暴力だ」と考えています。

――そう考えると「加害者」って遠くの誰かのことではないですね。私たちの多くが、気づかずに加害をしているかもしれない。そこから、どういう関係を目指したらいいのでしょう?

大事なことは2つあると思います。ひとつは「ケアし合える関係であること」。私には私の感じ方があって、相手には相手の感じ方がある。そこで、どちらかの感覚だけを尊重するのでなく、お互いにケアし合えるような関係をつくることです。

もうひとつ重要なのは「関係は終了していい」という前提で「いつでも終了できる関係をつくっていくこと」。これをしないこともケアの欠如=暴力にあたると思います。たとえば、妻が本当はキャリアを作りたがっているのに、夫が「子育ても家事もあるのに、できるのか」と言って仕事を辞めさせるようなケースも典型的な経済的暴力です。それは、相手を自分の経済力なしでは生きていけない状態にすること、すなわち関係を終了しづらくさせることだからです。

――「これまでしてきたことが暴力だった」と気付いてから、中川さんはどう変わったんですか?

本当に雷に打たれたような感じだったんですよね。「えー! これが暴力!」となって、いろんなことがわかってきた。僕は理屈っぽい人間なので、理屈さえわかれば、自分の置かれた状況を分析して、どうしていくべきか想像できました。

妻への愛ではなく、支配しようとしていた

まず「これが暴力なのだとすると、自分は親に暴力を振るわれてきたんだな」と思いました。これは「愛情があるかどうか」といった話とは別次元の話です。愛情があっても、人は暴力を振るいます。僕自身、妻

これを認めることには、本当に大きな葛藤がありました。でも、それを認められたとき、僕はようやく妻を愛せていなかったことを認められました。愛していた、大切にしていたつもりでしたが、僕は妻を自分の望むように変えようとしていた。支配していたに過ぎなかった、と認められたんです。

だとすると、僕は「僕自身」のことをケアできるようにならなければいけない。親から受けてきた「こうすべき、ああすべき」という期待によるコントロールみたいなものを取っ払い、自分で自分の感覚を大切にできるようにならないといけないと思いました。

具体的に何が起きたかというと、今、アルコール欲求が全くないんですね。お酒を飲まないためのテクニックっていろいろあると思うんですが、そういうものは一切使いませんでした。自分の苦しみや弱さをアルコールで麻痺させることをやめて、ただただ自分の不完全さと向き合い、妻とともに生きていく。

妻も僕の弱さや不完全さと一緒に生きていこうと思ってくれているなかで、僕自身も自分のそれとともに生きていけるようになって、依存的な言動が減っていきました。

クリスマス前の事件から3、4カ月くらいした頃にはもう、妻から見たら変化があったそうです。僕が「GADHA(ガドハ)」という、モラハラ・DV加害者変容のための当事者団体を立ち上げたのも、ちょうどその頃(2021年4月)でした。

(次回・後編に続く)

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抜粋終わり


より

上記文抜粋
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モラハラで「妻子に去られた夫」たちが集い語る事 「モラハラDV加害者」は本当に変われるのか?(後編)
大塚 玲子 によるストーリー • 10 か月 • 読み終わるまで 10 分

モラハラ・DV加害者変容のための当事者団体「GADHA(ガドハ)」。変わりたい、と願う当事者たちが集まり、変容を学び、支え合うための場です。

この団体を2年前に立ち上げた中川瑛さんも、かつてはアルコールに依存し、妻に「ケアの欠如」という暴力をふるっていましたが、3年前の暮れに気付きを得てから、自ら加害者変容を経験します(前編)。

そんな中川さんが立ち上げたGADHAでは、いったいどんなことを行っているのか? モラハラやDV加害者たちは、本当に変わることができるのか? 詳しく聞かせてもらいました。

前編:「僕はモラハラ夫」…本人が遂に悟るに至った経緯

活動はすべてオンライン、男女比は3:1

――GADHAではどんな活動をしているんですか?

【マンガ】「妻が子どもを連れて家出中なんて言えない…」モラハラで妻に去られた人が同僚に言うウソとは…

活動は3つあり、全てオンラインで行っています。1つはSlackを使った掲示板的なコミュニケーションで、これがすごく大きな役目を果たしていると思います。弱音を吐く場や、変容を報告する場、セルフケアの方法や、自分の加害について相談する場など、いろんなチャンネルがあります。登録者は今750名以上いて、このうちアクティブユーザーが2~3割程度。これまでに2万件以上のメッセージのやりとりが行われています。


活動の2つめが「オンライン当事者会」です。月に1、2度のペースでやっていて、これまで延べ37回開催しました(※2023年6月現在)。最初の頃は参加者が4人くらいでしたが、いまは多いときで約30人。平均で20人程度ですかね。顔出しは必須でなく、チャットで参加される方もいます。

3つめが「加害者変容プログラム」で、これだけ有料です。レクチャー、ディスカッション、ホームワークに取り組むもので、2時間×4回(2カ月)が1セット。これまでに延べ80人以上が参加しています。


――参加者はどんな方が多いでしょう。女性もいますか?

女性が25%くらい、男性が75%くらいです。年齢層のボリュームゾーンは30~40代ですが、下は10代から上は70代まで、幅広く参加されています。

参加者のタイプも多いですが、大きく分けると2種類です。ひとつは「ケアの放棄(欠如)」というタイプで、「話が全然通じない」「相手が寝込んでいても心配する素振りを見せない」「約束したことをすごく簡単に破ってしまう」といったもの。もうひとつは、いわゆる「モラハラDV」みたいなタイプです。経済的DVなどもあります。

――皆さん、どこでGADHAを知るんでしょうか。

最初の頃は、「パートナーに言われて来ました」という被害者経由の方が多かったですが、いまは「モラハラ」「加害者」などで検索するとGADHAが出てくるようになったので、別居や離婚に直面した人が自力でたどり着くケースが増えています。

「相互にケアし合う」ができれば内面的にも変われる

――皆さん、本当に変われるんでしょうか?

表面的な言動というレベルでは、絶対に「変われる」と思います。内面的なレベルでの変化という意味でも、僕は「変われる」と思いますが、若干時間がかかるのは間違いないと思います。先に現象の変化があってから、思考の枠組みの変化が起きるので。

たとえば仕事でも、部下に仕事を任せたことがない人は、部下に仕事を任せられないと思っていますよね。でも何かやむを得ない状況で部下に任せてうまくいったら、「あ、部下に任せられるんだ」と思う。そんなふうに言動が変わって、結果が自分にとって望ましかったとき、その望ましさを支えるような思考の枠組みを獲得すると思うんです。


では、モラハラDVの加害者が内面的な意味で変わるのはどんな場面か。自分から「ケアを始める」という、ケアの主体性を発揮することだと思います。どんなにきれいごとに聞こえても、まずはそれをやってみる。それを何度か続けていくうちに相手からケアが返ってきて、「相互にケアし合える関係」になったとき、内面的にも変わると思います。

自分の存在が穏やかでくつろいだ感じになり、傷つきや恐怖が薄れ、弱さや不完全さとともに生きていっていいんだ、と思える。すると「この世界は信じるに足るんだ」と思えるようになるんですね。


内面の変化が発生するためには、「関わる他者」が必要になる場面もあります。それを同じ「変わりたい」と願う加害者同士でやろう、というのがGADHAのコンセプトです。

――「ケアをし合う関係」を実践し、経験する場として、GADHAを立ち上げたんですね。

おっしゃる通りです。この実践にパートナーを巻き込もうとすると、難しくなってしまうんです。「もうあなたとは一切かかわりたくない」というパートナーにとっては「まだヨシヨシしてほしい(ケアを要求してくる)んですか?」と受け止められるのは自然なことです。

「ケアをする」は、あらゆる人間関係のなかで実践することができます。でも、安心して失敗できるのは加害者同士の場くらいですよね。一般の人間関係で失敗したとき、「今のは『ケアの欠如』なので、僕はあなたから離れます」なんてことは、誰も教えてくれない。でもGADHAなら、そういうことをみんなお互いわかっています。

もう一つ付け加えると、カウンセリングを受けるだけでは、加害はやめられないと僕は思います。なぜならカウンセリングの関係において、加害者は常に「ケアされる側」だから。「お互いにケアする」という練習をするには、傷つけ合い、学び合い、弱音を吐き合って励まし合えるような、当事者間の相互的な関係性が、僕は一番重要だと思っています。

「加害者は変われない」と言われてきた理由

――世間ではよく、「モラハラ夫(妻)は変われない」と言われますよね。

どうして「変わるなどあり得ない」と思われているかというと、一つには「変われたケースを知らないから」だと思うんですね。よく「母親になると人は変わる」「上司になると人は変わる」と言われるのは、そういう例をいっぱい見たから、その人はそう思うわけです。逆に「加害者は変われない」と言うのは、加害者が変わった事例を知らないから。

そもそも被害を受けた人からすれば「変われない」と思うのも当然なんです。信じていたのに約束を守ってもらえなかったり、変わると言ったのに変わってもらえなかったりする経験を何度も繰り返して、とても深く傷ついているので。

被害者の声って、最初は黙殺、矮小化されてしまいます。「DVって何? またカタカナ言葉使って」とか「そのくらいのことで」などと揶揄される。そういうものを乗り越えるためには、強い言葉で声を上げていく必要があって、これは本当にすごく大変なことだと思います。

それに「(加害者が)変われる」というと、妻や夫が「私がもっと努力しなければいけない」と思って、さらに苦しんでしまうことがあります。それで安易に「変われる」と口にできなかった、という面もあると思います。

――そういった背景から、加害者は「変われない」と言われてきたけれど、実は変われる例もあるわけですね。

はい、「加害者が変わるにはどうしたらいいか」という話が出てくるのは、だいぶ後のフェイズです。まず被害者が言葉を持たない状態で相談をするところから始まり、被害者支援の専門家がそれに名前を付ける。それによって潜在的な被害者がさらに声を上げられるようになり、被害者を自認する人が増え、「加害者」と名指しされる人が増える。

「加害者」は最初、「変われないモンスター」と糾弾されますが、糾弾だけでは加害者が次の被害者を増やすだけと知られ始め、少しずつ加害者変容の取り組みや具体例が出てくる。それが、いまなんだと思います。


僕は、変わる人たちが増えてくると、ようやく「人は変われる」という認知になって、だからこそ加害者は加害者であることを認められるようになると思います。なぜなら、「加害者は変われない」と世間で言われているなかで、加害者であることを認められる人はごくわずかです。認めることに何のメリットもないから。

しかし、加害者は変われるという認知が社会にあり、そのための学習資源や共同体があるなら、それを認めるメリットがあります。そこで学ぶことで、パートナーシップや親子関係、職場の問題を改善できれば、本人にとっても生きやすくなるからです。

実際に変わった事例はいろいろあるんです。たとえば、児童相談所や警察が呼ばれるような虐待・DVをしていたところから劇的に変わった人もいるし、僕のようにパートナーとの関係が変わっていまは幸せに暮らせているような人もいます。離婚はしたものの、そこから子どもも含めて新しい家族の形を生きている人もいます。

GADHAは、加害者が主体となって「変われる」という事例を社会に発信していくことで、「加害者は変われない」というスティグマを剥がし、それによって自身を加害者と認められる人が増えていく、という好循環にたどり着くことを目指しています。

「自己憐憫」は加害者が非常に陥りやすい状況

――中川さんの著書『孤独になることば、人と生きることば』に、加害者が変容するときの苦しさについて書かれています。なぜ苦しいのでしょう?

加害者の多くは、自分を悪い人だとは思っていないんです。「よかれと思って、やるべきことをやっていただけなのに、あれが暴力だったんだ」とわかると、自分を説明する言葉やアイデンティティがガタガタと崩れていく。自分というものが曖昧になって、すごくしんどくて、鬱になる人も少なくありません。

ここでポイントになるキーワードが「自己憐憫」です。自己憐憫は、加害者が非常に陥りやすい状況です。「環境のせい」「親のせい」と人のせいにして、「自分はかわいそう」という思いに捉われる時期が、絶対にあるんです。だって、誰も加害者になりたくてなっているわけではないですから。


でも、あなたが受けた被害はあなたのせいではないかもしれないけれど、あなたが人を傷つけてきてしまったことは事実で、あなた自身が動き始めることでしか、あなたのことは変えられない。だからGADHAでは、「自己憐憫ではケアに進まないですよ」という話をします。自己憐憫している間は、周りに「許してくれ」と言っているだけ。つまり「ケアの要求」をしているだけなので。

自己憐憫から「ケアする」に向かうエネルギーを作っていくためには、死ぬほど愚痴をこぼしたり、弱音を吐いたりする場所が必要です。そのためにあるのが、GADHAなんです。

――自己憐憫に陥るのは、自身の被害経験に気付くからですよね。親や周囲から自分がされてきたことが被害だった、と気付くことも大事ですよね。

とても大事だと思います。加害者って自分の痛みをごまかしてきた人たちだから、他人の痛みもごまかしてしまう。「俺はこのぐらい耐えられたんだから、おまえも耐えろ。そうしないのはズルい、甘えだ」というふうに考えがちです。

だから「自分が弱くて不完全で、傷ついてきたから、自分のことも癒やしていいんだ」と気付くことが必要だと思います。そのなかで初めて「他者をケアする」ということを、実感を伴って、できるようになっていくんだと思います。


自己憐憫から「幸福」に向かうために

――以前、刑務所にいる方から手紙をもらいました。その方は自分の被害経験を、便箋に何十枚も書いてくれましたが、そこで終わっている。何が足りないんでしょうか。

よくわかります。そこで必要なのは、「自分はこういう被害を受けてきたから、こうなった」という考えだけでは、自分の幸福とつながらないと気付くことだと思います。これは批判を受けるかもしれませんが、大前提として「加害者が幸福になっていい」と知ることも重要です。

では「幸福」とは何かというと、「自分の痛みや傷つきを認めて、他者とケアし合う相互性のなかに生きていくこと」だと思います。「自分と一緒に生きる他者の幸福なしには、自分の幸福はない」という観点をもったときに、加害をやめることができる。それがきっと、自己憐憫の世界から抜け出す方法だと思います。

自己憐憫モードから外れていくためには、「ケアする」をやってみるしかありません。自分が今までやったことがないことをやってみよう、ということです。全然信じられなくてもいいから、ちょっとやってみようと。自分がこれまでと何か違う行動をとれば、社会は違った顔を見せるかもしれません。

――あえてお尋ねしますが、「変われない人」も、なかにはいますよね。

そうですね、変わるのが難しい人がいることは間違いないと思います。助けを求めるのが苦手な人や、集団が苦手な人、「どうせみんな自分のことを裏切る」と思っている人など。まさにそうした人が、自他を傷つけてしまいやすい。そういう人にこそ届いてほしいものが、一番届きにくい。

もうひとつ別のレイヤーからお答えすると、「変われない人がいる」と考えることのメリットってなんだろう、と考えることもできると思います。論理って選べるんですよね。根拠を選ぶ根拠が唯一あるとしたら、それは「私はどんな世界を望むか」だと思います。願いや祈りのようなものです。


よって僕は、人は変わることができると思います。変わることが難しい人がいることは間違いないけれど、「人は基本的に変わることができる」と信じられる社会になってほしいと僕は願っている。だから、人は変わることができると信じ、今後も活動していきます。

ただし、被害を受けた方々がそのように考えられないのは自然なことであり、そのことで非難されてはならないことは、いくら強調してもしすぎるということはありません。

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抜粋終わり

僕がやっていたことは、ケアの真逆です。その人が持っている感覚や感情、考え方、そこから生み出される言動を、全部否定していた。本人が「私はあまりやりたくない」「これを生業にしたいとは思っていない」と言うのに対して、「あなたは天才なのだからこれをやるべき。こんなに才能を信じてもらって支援をされることを、嬉しく思うべき」と言っていた。

これって、日本の学校教育そのものだよ。

学校がDVしているのだよね。


より

上記文抜粋
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DVで妻子が家出しても「俺は間違ってない」と怒る夫。ある日“上司の言葉”で目が覚めた<漫画>



人は失敗するし、誰もが不完全。しかし学ぶことができる
――お二人がこの作品を通じて伝えたかったことを教えてください。

原作・中川瑛さん(以下、中川):人は学び変わることができるということ、全てはこれに尽きます。被害者の方がそれを支援する義務も責任もない。でも、人は学び変わることができる。そう信じることのできない社会は、結局のところ、誰かの過ちを、死刑にすること、あるいは隔離することでしか対処できなくなると思います。  

人は失敗します。誰もが不完全です。しかし学ぶことができます。誰かの傷つき、そして自分自身の傷つきを大切にし、自分のことも相手のことも大切にできるようなコミュニケーションを、関係の作り方を学ぶことができます。それは、奇跡のようなことです。  人生は苦しい。親を選ぶことはできない。今回もまさに翔は親の悪影響をしっかりと描きました。あのような親と生きていくことは、恥と無能感によるコントロールを受け、それから逃れるためにこそ結果を出し続けなければならない人生、逆に言えば結果を出せば生きていいと許可を得るような人生を生きてきたということです。


真っ直ぐに努力した結果、加害者になっていく人たち

中川:養育環境や、教育・職場などによって身につけてしまう加害的な信念を「成長」「自立」と信じて、そして真っ直ぐに加害者になっていく人がたくさんいます。努力して加害者になるのです。これはある種の不条理であり、僕は加害者が何もかも悪い最低な人間だとは思っていません。しかし、加害者になってしまう。そこには被害者がいる。その傷つきには責任を取らなければならない。  自分一人のせいではないとしても、その傷つきには自分自身が責任を引き受けなければならない。不条理だと思うのです。もちろん被害者の傷つきを考えれば、被害者の方が不条理だし、苦しんできていると言うのは大前提なのですが。

 この社会において被害者支援の言葉がたくさんあるからこそ、僕は加害者の希望、加害者の生きる理由、加害者の償いの仕方、加害者が生きていて良い理路、それらをメッセージとして社会に発信したかったのです。逆の言い方をすれば「加害者は、死ねば、不幸そうに俯いていれば、許されるということさえない」という、あまりにも厳しいメッセージでもあるのかもしれません。

 加害者は、自分のことも他人のことも大切にできるような人間関係を作る責任を持っています。たとえ、必ずしも直接被害者の方から許されたり、関係の継続をしてもらえたりはしないとしてもです。パートナーシップ以外でも、自他を大切にできる人間関係を通してケアを交換しあい、この社会を生きやすいものにし、自分と同じような加害者をこの社会から減らしていき、未来世代が生きやすいようにしていく。そして、そのような関係を生きる時、加害者自身も生きやすくなっている。そんなふうに生きていく責任を加害者は持っていて、それは可能であるということを、僕は発信していきたいと思っています。

漫画・龍たまこさん(以下、龍):「人は学び変わることが出来る」という一点に尽きます。人は間違える。だけど、そのたびに学びなおせばいい。「自分も他者も大切にする生き方」を知れば、変わることが出来る。それはわたしにとっても希望だし、多くの人にとって希望になるのではないかと思っています。


二度と妻子に会えなくなった“上司”の言葉


――だんだんと変わっていく翔、翔の変化を戸惑い恐れながらも感じていく彩や娘の柚。翔の変化のきっかけとなった会社の上司や後輩、そして両親……。多くの人が登場しながら話は進んでいきますが、お二人の中で印象に残っている、好きなエピソードはどの場面でしょうか。


中川:僕は130ページで上司の鳥羽さんが「それが子どもと話した最後になるかな」と言う場面です。GADHAには、鳥羽さんのような人がたくさんいます。加害を自覚して、変わろうとしたし、今も変わろうとしているけれども、もうパートナーからもお子さんからも関係を断絶されているケースです。

 僕は、そのような状況の人の話を聞くと本当に胸が苦しくなります。1つには加害者のその苦しみに、そしてそれ以上に、関係を断絶するしかないと思うに至るまでに傷ついてきたパートナーやお子さんのことを思うからです。そういう人の中には、もはや加害者変容をする意味がないではないかと思う人もいます。そう思う気持ちは自然なことだと思います。変わったって何したって、意味ない。自分は一人で孤独に死んでいくんだ、と。腐る気持ちもわかります。

 しかし、鳥羽さんのように、自分の過ちを元に、関わる人たちを、生きやすくするために何か働きかけることはできると思います。そしてそれが、多くのケアの循環や往復を生み出すことになり、いつか、もう会えないパートナーやお子さんにも、その優しい関係性が届くかもしれません。綺麗事かもしれませんが、そんなことがあると信じて、人は学び変わっていくことができると願っています。そのような意味で、このエピソードは僕にとってとても特別で重要な場面でした。

:わたしも上司の鳥羽さんとのエピソードです! 描いてて楽しかったキャラクターですし、自分の経験から翔にアドバイスをする場面でも、決して上から目線で自分語りではなく、丁寧に言葉を選ぶ感じ……好きです(笑)。実際はなかなかこういう人いないかもしれないですけど、本当にいたらいいなぁ~と思うキャラでした。



【最初から読む】⇒『99%離婚 モラハラ夫は変わるのか』一覧へ

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抜粋終わり

養育環境や、教育・職場などによって身につけてしまう加害的な信念を「成長」「自立」と信じて、そして真っ直ぐに加害者になっていく人がたくさんいます。努力して加害者になるのです。これはある種の不条理であり、僕は加害者が何もかも悪い最低な人間だとは思っていません。しかし、加害者になってしまう。そこには被害者がいる。その傷つきには責任を取らなければならない。

蒼天航路で、韓遂が

「孟起は、幼くして信条を固め過ぎた。」

て言ったを思い出した・・・

この

あのような親と生きていくことは、恥と無能感によるコントロールを受け、それから逃れるためにこそ結果を出し続けなければならない人生、逆に言えば結果を出せば生きていいと許可を得るような人生を生きてきたということです。

能力主義っていうかメルトクラシーであり、通俗道徳&自己責任論の思想なのです。



こうした低い価値観に踊らされて努力し成功を収めたとしても、“能力主義的な競争に勝った人たちは、負けた6割~8割の人を馬鹿にする(30分)”ようになると伊藤貫氏は話しています。

そりゃ、バカにしなければ、自分が馬鹿にされる・・・そういう思想で生きているからね、メルトクラシーや通俗道徳&自己責任論って社会ではね。

それが、まあ若い世代にも完璧にしみついて「天皇家の家畜」になってるのが、日本人です。


より

上記文抜粋
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相手を見下す、自己保身ばかり…「職場を腐らせる人」を変えるのが難しい「決定的理由」

根性論を押しつける、相手を見下す、責任をなすりつける、足を引っ張る、人によって態度を変える、自己保身しか頭にない……どの職場にも必ずいるかれらはいったい何を考えているのか。発売たちまち3刷が決まった話題書『職場を腐らせる人たち』では、ベストセラー著者が豊富な臨床例から明かす。

まず肝に銘じておかなければならないのは、職場を腐らせる人を変えるのは至難の業ということである。ほとんど不可能に近いといっても過言ではない。その理由として次の四つが挙げられる。

(1)たいてい自己保身がからんでいる
(2)根底に喪失不安が潜んでいる
(3)合理的思考ではなく感情に突き動かされている
(4)自分が悪いとは思わない

たいてい自己保身がからんでいる
平社員が叱責されてパワハラと騒ぐのも、不和の種をまくのも、責任転嫁するのも、あるいは上司が部下に過大なノルマを押しつけるのも、根性論を持ち込むのも、相手によって態度を変えるのも、煎じ詰めればわが身を守るためだろう。少なくとも本人は、そうすることが自分の身を守るためになると思っており、たいてい自己保身がからんでいる。

もちろん、自己保身のためと思っているのは本人だけで、長い目で見れば必ずしもそうはならず、むしろ逆効果の場合も少なくない。たとえば、過大なノルマを押しつけたり根性論を持ち込んだりして、部下に発破をかければ、業績があがって上層部から認められ、わが身も安泰と上司は思っているのかもしれないが、実際にはそんなに単純ではない。

過大なノルマを押しつけられた部下が窮余の一策として不正に手を染め、それが発覚して大問題になれば、管理責任を問われるかもしれない。場合によっては、不正を指示したのではないかと疑われかねない。また、根性論を「バカの一つ覚え」のように繰り返す上司に嫌気が差して、部下がどんどん辞めれば、日常業務を回すことさえできなくなり、業績うんぬんどころではなくなるかもしれない。

こうしたリスクが伴うことをあらかじめ想定しておかなければならないはずだが、当の本人は一切考えておらず、発破をかければかけるほど、部下が奮起して頑張り、それに比例して業績もあがるはずと思い込んでいることが多い。このような単細胞につける薬はない。

そもそも、自己保身願望は防衛本能に由来し、人間が動物である以上、誰にでも多かれ少なかれ備わっている。だから、本人が追い詰められ、ピンチと感じるほど、知らず知らずのうちに自己保身願望が頭をもたげる。そして、自分を守るためになると思えることなら何でもやらずにはいられない。手負いの獣が死に物狂いで戦うのと似ている。

それが結果的に他人を傷つけたり、周囲に迷惑をかけたり、場合によっては法に触れたりする事態を招いても、「自分を守るためには仕方がない」と正当化する。「自分を守るためには何でもする」という必死さが「自分を守るためなら何をしてもいい」という理屈に転換されることだってあるだろう。そうなれば、罪悪感も良心の呵責も覚えずにすみ、心穏やかでいられる。

自分から喧嘩を仕掛けておきながら「自分を守るためには仕方がない」と正当化する人と同じ心理が働くわけで、自分が悪いとは思わない。当然、反省も後悔もしないわけで、こういう人を変えるのは至難の業だ。だからこそ、自己保身がからんでいると実に厄介なのである。

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抜粋終わり

それが結果的に他人を傷つけたり、周囲に迷惑をかけたり、場合によっては法に触れたりする事態を招いても、「自分を守るためには仕方がない」と正当化する。「自分を守るためには何でもする」という必死さが「自分を守るためなら何をしてもいい」という理屈に転換されることだってあるだろう。そうなれば、罪悪感も良心の呵責も覚えずにすみ、心穏やかでいられる。

自分から喧嘩を仕掛けておきながら「自分を守るためには仕方がない」と正当化する人と同じ心理が働くわけで、自分が悪いとは思わない。当然、反省も後悔もしないわけで、こういう人を変えるのは至難の業だ。だからこそ、自己保身がからんでいると実に厄介なのである。

通俗道徳&自己責任に、メルトクラシーでは、この「自分を守るためには仕方がない」行動が、マストなのですよ。

https://www.data-max.co.jp/article/12439


より

上記文抜粋
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そうした事態に直面した民衆は、勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範を内面化し、それに従うことで家没落の危機を回避しようとしたのです。こうした勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範が「通俗道徳」と言われるものです。

 その後、この「通俗道徳」というイデオロギーが今日に至るまで、日本国民を縛り続けていくことになります。市場経済において、努力したにもかかわらず、失敗する人間は常に存在します。しかし、通俗道徳、すなわち「勤勉に働き、倹約に務め、努力するものは成功する」というイデオロギーを前提とすると、経済的な失敗者は、そのまま道徳的な敗北者になります。高度経済成長を牽引した、時の内閣総理大臣池田勇人は、「救済金を出して貧乏人を救うという考え方」を批判して、占領期の社会政策を「贅沢過ぎ」だと断罪しています。それは、経済的弱者を救うことは「濫救」「惰眠」を増加させるものだとみなされていたからです。

生き馬の目を抜く万人の万人に対する戦争


 通俗道徳が支配する社会とは、「努力が必ず報われる」という建前のもとで、勝者と敗者が存在する社会です。しかし、個別の人生1つひとつを取りあげてみれば、そこには多くの偶然が介在しますので、実際には努力が必ず報われるという保証はありません。それにもかかわらず、人びとは、自らが通俗道徳を実践したことを証明し、社会的な承認を勝ち取るために経済的に成功しなければなりません。

 その結果、勤勉、倹約、自己規律を求める通俗道徳は、逆説的に、生き馬の目を抜くような、「万人の万人に対する戦争状態」としてのホッブズ的世界を招き寄せてしまうのです。

・・・・・・中略・・・・・・・

 「勤労国家レジーム」のもとでは、勤労者への減税と勤労の機会を保障する公共投資を骨格とし、社会保障には多くの予算を組みませんでした。社会保障は就労ができない人向けの現金給付に集中し、サービスすなわち現物給付の占める割合は「限定」されることになりました。しかも、限られた資源を配ろうとすれば、低所得層や高齢者、地方部といった具合に、分配の対象を「選別」せざるを得なくなります。そして、この限定性、選別性の背景には「自分でできることは自分でしなさい」という「自己責任」の論理が徹底的に貫かれています。

 このことは、現役世代にとって、生活の必要、すなわち、住宅、教育、老後の生活等に必要な費用を、自分たちで稼得しなければならないことを意味していたのです。

しかし、バブルが崩壊後、状況は一変した


 一時は奇跡的とも言うべき高度経済成長による所得増大によって、多くの人々は自らの責任で生活の安定を確保することができました。人々は、「勤労国家レジーム」に基づき、
「倹約の美徳」を称賛し、将来に備えるため「貯蓄」に励みました。勤労を前提として、社会保障を限定する自己責任型の福祉国家を維持することができたのです。ここでは出口なおの案じた「獣の世」は、限定的にしか現れてきませんでした。

 しかし、バブルが崩壊後、状況は一変します。減税と公共事業に支えられた勤労国家の発動も虚しく、国際的な賃金下落圧力が景気回復を妨げ、巨額の政府債務が積み上がりました。また、少子高齢化が進み、専業主婦世帯と共働き世帯の地位も逆転、近代家族モデルは完全に破綻しました。さらにバブル崩壊に追い打ちをかけるように、市場原理や競争原理、自己責任論が持ち込まれました。

今、日本社会は通俗道徳の実践にエネルギーを費やした多くの敗者で溢れています。働くことは苦痛でしかなく、勤労の先に待ち構えるのは貧困のリスクなのです。まさに「獣の世」の再来と言えます。

・・・・・・中略・・・・

「獣の世」(「分断社会」はその顕在化の1つ)は明治日本から始まり、一時高度経済成長の陰に隠れて見えなくなっていた。しかしバブルが崩壊、そして今、近代そして資本主義の終焉が近づくにつれて、「新自由主義」などと姿を変えて再びその牙を剥き始めている。
温かみのある、情熱や思いやりに満ちた社会、他者への配慮にあふれ、仲間のために行動することをよしとする誇りある社会、そんな日本社会はもはや昔話になった。そして、今や「貧困」や「格差」という言葉が日本社会を語る日常的なキーワードになりつつある。

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

なんせ、この通俗道徳&自己責任論は、国家や指導者が「責任逃れ」するのに格好に都合良いからね。

で、みんなみんな家畜になりまして、日本人は死に絶えます。天皇を自分で排することもできない日本人って集団は家畜ですから。

モラハラ・DVは、天皇陛下のおかげです。みんな不幸になり家畜になった日本人・・・

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。


追記・・・

モラハラ・DV加害者が、変らない・・・のは、ほぼ「変わろうとしない」からでしょうな。

通俗道徳で「いじめ」が承認されている鬼畜の島ですから・・・大変です

でも変わることができます。

王陽明が伝習録で門弟に

「なぜに、一等の賢者と、最悪のアホが変わらんのですか」

と聴かれると

「どっちも変る気が無いからね」

て返している。

まあ変わる気があれば、なんとか少しでも変われる。

まあ「諸行無常」って言いますし、これを旨いように利用した方が徳で得ですは。


余談・・・

本当に強い人は、弱音を吐ける・愚痴を言える。。。


正しい意味での引用かどうかわからんけど

 太原の周党は評判高い賢者であり、劉秀は人を使わして朝廷へと招聘した。ところが周党は朝廷まで来たものの劉秀の面前で自らの志を述べ、仕官を断ったのである。劉秀の面子は丸つぶれであるし、側にいた大臣も不敬であると大いに怒ったが、劉秀は、
「いにしえより聖王には、伯夷、叔斉のような家臣にならない者がいるものだ。太原の周党が私に仕えないのも志というもの。帛四十匹(帛は絹であり当時の現物貨幣)を賜うことにしよう」
 と詔して、周党を郷里へと帰してしまったのである。
 劉秀が万人を平等に対することは大衆にも広く知られていた。
 大原の人、荀恁は、賢者として名声が高く、劉秀が招聘したが断って山野に暮らしていた。周党や荘光と違って、朝廷からの迎えの車を完全無視したのである。
 劉秀の死後、息子の明帝の時代に明帝の弟東平王劉蒼が驃騎将軍となり、荀恁を招聘すると応じて現れた。明帝はこれを不思議に思ってからかった。
「先帝(劉秀)が君を召したときは来なかったのに、驃騎将軍(劉蒼)のときに来たのはどういうことか」
「先帝は徳を持って恵みを下しますので、臣は来ないことが許されました。驃騎将軍は法律で下のものを取り締まりますので、臣は来ないわけにいきません」
 法律で上下を分けて考える劉蒼に対し、劉秀はどんな立場の人間の意志も尊重して平等に接しており、民間人までが劉秀という皇帝に対しては対等に自分の意志を主張してかまわないと認識していたことがわかる。
 荀恁がもしも誰に対しても拒絶していたなら、それは荀恁の剛直な性格を示すに過ぎない。劉蒼と劉秀で態度が違うことで、劉秀が他の貴人とは全く異なる存在と見なされていたことがわかるのだ。誤解のないように言うと、劉蒼は才能豊かで性格も謙遜で評判高く、本来親族を重用することを嫌う明帝が敢えて起用するほどの人物である。劉秀はそうした常識の範囲の人格者とは違う異次元の存在と見なされていたのである。

 こうした劉秀の平等観はどこからきたのか。
 一つは戦場である。戦場では皇帝といえども将軍に従わなければならないとされているのだ。皇帝であるより、将軍として戦場に生きた劉秀は、法律に将軍の姿を見て、そこに万人が従わなければならないと考えたのかもしれない。
 優れた将軍は兵と同じ待遇でなければならないとされる。食事も兵士と同じでなくてはならず、すべての兵士が休むまで休んではならないのだ。そしてその通りに、皇帝でありながら兵士と同じく自ら武器を取って戦ったのが劉秀である。皇帝であるよりもまず将軍として生きた劉秀は、平等であることこそが人の能力を最大に発揮できることを知っていたのである。
 またこれは劉秀自身の天性も関係する。ジョークを好む劉秀であるが、ジョークというものは、言う人間と聞いて笑う人間が平等であることを前提とした行為だからである。怖い上司のジョークでは追従して笑うことしかできないし、ネタにされた人間が反論できない場合も、ジョークは嫌がらせや皮肉になってしまう。ジョークを心から楽しむためには話す相手と対等でなければならないのである。劉秀にとっては、自らが楽しく生きるため万民は平等でなければならないのである。

対等の人間関係だから、ぼやきもできる・泣き言も言える。ジョークでスベっても、「すべり笑い」で行ける。


これは解決法として参考になるかな・・・・


「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)」

皇帝になっても相手の気持ちを考えて喜ばせるという劉秀の行動原理は変わらなかった。
 死に際しての遺言が「朕は百姓に益するところなし」という衝撃的な言葉で始まるのも、自分が他人に何ができるかということを常に念頭に置いていたことを示している。最後の瞬間まで他人に対して何をできるかを考えていたのだ。劉秀の言葉や行動には、常に相手の視点から見て考え、相手の望みをかなえるという思想がこもっている。そしてそれを自分の喜びとして取り込んでいくのが劉秀なのである。
 この劉秀の性格をかつて馬援は、人にしてあげられることがあればすべてしてあげようとする人だ(極盡下恩)と評したほどである。
 ただ人の望みをかなえることばかり考えて、人に与え続ける生涯を生きた劉秀は、逆説的にも世界のすべてが自分のものになってしまう。

特に・・・

劉秀の言葉や行動には、常に相手の視点から見て考え、相手の望みをかなえるという思想がこもっている。


が、一番大事と思います。


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